どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ぼくの“片道最長切符”の旅〔出発前Ⅲ〕   −計算魔・おあし・只見線−



*ことし(2012年)5月15日は〈沖縄本土復帰40周年〉記念の日。その40年前の1972(昭和47)年のこの日、ぼくは鹿児島県指宿枕崎線枕崎駅から、沖縄を背に北に向かって〈ぼくの“片道最長切符”の旅〉に出た。これはその〔出発前〕編の最終回。〈2012.01.25〔出発前Ⅰ〕〉および〈2012.02.25〔出発前Ⅱ〕〉の記事を参照ください*







 
 “片道最長切符”の計算にとりかかったぼくは、にわか計算魔になった。
 ほんとに(魔がさした)ようだった。なぜならぼくは、けっして計算好きではなく、ましてや計算が趣味でもなかった。
 算盤をいちおう3級まで習ったりしたけれども、それ以上になりたいとは思わなかった。「算盤を頭に置く…」という、暗算がどうにもならなかった。掌に指で仮想の珠をはじく女の子が、魔女みたいに思えたものだった。もうひとつには、その一々の経過や結果を克明に記録することが苦手だった。ついでに、帳簿のような数字の羅列を見るだけで頭が痛くなってくるほうだったのだ。


 ぼくは小さいころ、ノートに脅迫観念を抱き…それがいまも抜けない。
 習字(書道)というのがその頃、習い事として重きをおかれていた。子どもの自主性というより、親が習わせたがった。
 ぼくの父などもそうだったが、字の上手い、立派な字を書く人がむかしは多かった。
 (だから逆に、字の上手い拙いで人間がわかるか、という恨み節もでることになる)
 いい字が書けるのはいいことだ、と思ったからぼくも習字に通った。が、思うように上手くは書けなかった。
 おなじ先生のところに友だちも通っていて、この子が上手かった。先生には評価されなかったが、手本を真似たり、なぞったりするのが得意で、なにしろ造形がいい。
 ぼくのは拙いうえに、字が半紙におさまりきらずに食み出してしまう。にもかかわらず、そんなぼくの字が「勢いがある」などと評され、展覧会で賞をもらってしまったりする。
 誉めて伸ばそう…ねらいはわかっている、けれどもぼくは、友だちのように上手く書ければそのほうがいい。結局、肝心の小筆に進む前にやめてしまった。
 書き付ける字の拙いのが、ノートすることを億劫にさせ、それがひいてはノートブック(筆記帳)そのものへの強迫観念になっていったわけなのだ。
 中学に進んでノートする必要が増すにしたがって、ぼくは、もじどおり悪戦苦闘。
 習字の経験などがかえっていけなかったのか、文字の筆順(書き順)にひっかかって思うようにノートできなかったり、〈読んで字のごとし〉の漢字が思い出せなくてペン先が動かなくなってしまったり…。ひらがなでも、カタカナでもいい、とにかく書きつけてしまえばいいものを、それさえうまくできなかった。
 そう、カタマッテしまうというやつだ。
 かわりに〈要点メモ〉に徹して、これはよかった。なんでもかんでもノートしまくることが、勉強になるとはいえない。けれども、ぼくの要点メモの重大な欠陥は、それすらときに自分でも解読不明になるほど拙かったことだ。


 そんなぼくがだ…このときは克明な記録を付けながら、大学ノート2冊を真っ黒にして、煩雑な計算をやりとおした。
 四方八方へ往ったり来たり〈ひと筆がき〉の〈片道最長ルート〉探索。
 二度と同じ駅、同じ経路をたどらないで、どこまでも長い距離を稼ぐこと。
 それが(なかなか面倒でややこしそう)なことは、いまの『JR時刻表』巻頭の“さくいん地図”をざっと一覧しただけでも、わかってもらえるだろう。
 北海道と九州の両端ブロックは、それでもまだいい。いずれ、津軽海峡関門海峡がネックになるから。
 だが、間に挟まれた本州のブロックが四国への出入り(いまはできない)も含めて東北地方から中国地方まで、ルートどりの可能性きわめて複雑で厄介千万だった。
 まず、当時の国鉄旅客輸送路線のすべてを区間別に書き出して表にする。それから、あらゆるルートどりとその積算距離を出して最長を求めていく。
 いまならコンピューターでちょちょいのちょいだろうが、なにしろ“アナログ”時代のことだ。電卓でさえまだまだ図体がでかいうえに高価で、おいそれと手に入る代物ではなかった。算盤が頼りだったわけだけれども、これも夢中になるとなにかの拍子に珠が動いてしまうのが困りもの。しかたなく尖端文具の銀座伊東屋で、一桁ごとにキーを押しこんで積算するタイプの簡易な計算機を買いこんだ。いまのこっていれば博物館ものだろうが、いつのまにか壊れて消えた(その頃には使い道もなくなっていた)。


 旅費かせぎの仕事をこなしつつ、夜、眠い目をこすりながらの計算は、思いちがい、まちがい、やりなおし、変更、思いつき、ひらめき、ガッツポーズ、落ち込み…などなどあって、草臥れはしたが飽きることはなかった。
 こうして、ひとまず計算はできあがった。
 折しも、やはり新たな“片道最長ルート”記録づくりに挑んだ鉄道マニアのことが新聞に紹介された。
 休みがとれないので実行は諦めたという、その人のルートを検証して、ぼくは拳を突き上げた。ぼくの計算した最長ルートは、その人のとほとんど一緒で、ただ、ちょっとした目の付けどころの違いから、ぼくの方がちょっと距離が長かったのだ。
 ぼくはもう、いつ出発してもよかったのだ、けれども…。
 それなのに、あぁなんてこった(なにを寝ぼけてたんだか)、気がついてみると肝心の先だつもの(おあし…旅費)が、てんでたりなかった。ぜんぜん、といってもいいくらい。これには本人もガクゼンだったが、タカの知れた給金であいかわらずに酒を飲み、本を買い、映画も観ていたのだから、考えてみればあたりまえだ。たくわえ(貯金)もない。
 宵越しの金なぞ持てないところだけが江戸っ子らしい、というやつで、これには吾ながら、いまさらながら呆れた。
 片道最長の距離が知れ、ざっと切符の値段も予測できるようになってはじめて、旅費の必要が、その額が、現実のもにのなったというわけだった。
 泥縄もいいとこだが、とにかく稼がねばならない。性根をすえて稼いだ、貯金もした。
 なにしろ60日間くらいは使えるキップになるのだ。マニアだとこういう場合〈長い距離を短い時間〉でという発想になるようなのだけれども、ぼくはマニアではなかったし、どうせなら有効日数のすべてを使ってみたかった。
 そうして、欲ばりになる理由がもうひとつあった。それは、最長片道のルート探索からは否応なしに外れてしまう線区の存在だった。終着駅でポツンと線路も途切れてしまう、これぞまさしく〈片道〉郷愁色の線路に、俄然、興味をそそられ、それらにもできるだけたくさん寄り道して行きたいと思ったのだ。


 こうして、それなりのときが経つ間に、その隙を狙い澄ましたように……。
 やれやれ、いちどは達成した折角の成果〈最長ルート〉がパー、ご破算になるという一大事があった。
 只見線の全通である。1971年8月29日のことだった。
 上越線小出〔こいで〕駅から大白川駅まで26.0Kmの只見線と、磐越西線会津若松駅から只見駅まで88.4Kmの会津線が、大白川駅−只見駅間20.8Kmの開通を待って新たに只見線として全通、135.2Kmの営業を開始したのだ。
 途中で途切れて“片道最長”ルートどりの対象にはならなかった二つの線が、一つになって「どうだぁ」とばかりに名のりをあげて割って入ったことになる。
 正直、油断だった。すでに鉄道も輸送効率追求の時代、国鉄日本国有鉄道)に民営化の声があがり、赤字路線廃止の動きも盛んな折も折、まさか、福島・新潟の県境を越え、名うての豪雪地帯を結ぶ艱難辛苦(いずれ運転にも保守にもえらい手間暇と金のかかることが知れている)の線区が、沿線住民の方々には申し訳ないけれど、繋がるとは思ってもいなかった。
 マニアではなかったせいで、鉄道雑誌などの情報にも疎かったというわけだ。
 ぼくはルートどりを、片道最長の距離計算を、臍〔ほぞ〕を噛む思いでやり直した、本州プラス四国のもっとも厄介なブロックを…。前の計算が下敷きにはなったけれども、それはあくまでもほんの下敷きにすぎなかった。やり直しは、やり直しだった。
 

 それから半年。それこそ褌を締め直してかかったこの間に、その頃のぼくにとっては大金の二十数万円という貯金と、やり直しの“片道最長ルート”計算はできあがった。
 その間に、山陽新幹線の新大阪−岡山も開通。
 結果、最新の“片道最長ルート”は以前のものより200km以上も距離を稼ぐことになったのだった。
 あらためて確認しておきたい、ぼくの≪片道最長切符≫ルートのすべて。
  ☆総距離=12,771.7キロ (これは1971年当時、国鉄営業キロ数20,890.4キロの約61%。地球赤道直径12,756.8キロの半分を超え、地球全周40,076.6キロの三分の一を超える)
  ☆通過都道府県数=45 (高知県沖縄県を除く)
  ☆通過駅数=2,848
  ☆切符の運賃=27,750円 
  ☆切符の有効日数=65日間
 切符の運賃が知れるまでには、こんなことがあった。
 当時の時刻表の“ピンクのページ”、「国鉄の営業案内」の「鉄道対キロ普通旅客運賃表」には3,100キロまで(7,390円)しか載っていない。あたりまえなのだ。ニッポンの国鉄を北の稚内から南の鹿児島まで乗ったって、最短距離ならそこまでない。それ以上に遠距離の(高い)切符があるわけない、買うやつもなけりゃ、売ることもなかろう。
 そこで、ぼくは当時の東京駅旅行センターに電話して尋ねた、そのとき応対にでた駅員さんとのやりとり。
 「あの、乗車距離が3,100キロを超える場合の、運賃はどうなりますか」
 「えっ(と一瞬虚を突かれた感じで)、そんなのないですよ」
 「いえ、あの…」
 説明にとりかかろうとするぼくの声におっかぶせるように、
 「だって、北海道から九州まで行ったってそんなにゃならん、でしょう」
 「それが、経路を積み重ねて計算しますと1万2千キロ以上もあるんですよ、つまり……」
 ぼくが縷々、説明するのをしばらくじっと聞いていた、その駅員氏、
 「ふぅん、はぁ、なるほどねぇ、そんなになりますか……ちょっと、待ってください」
 電話の向こうでしばし沈黙。分厚い営業規則かなにかのページを繰って調べてくれたらしい。やがて、
 「1キロ2円5銭」
 の計算になることを教えてくれた。
 このとき同時にぼくは、切符を買いに行く窓口を東京駅旅行センターに決めていた。経路ルートの確認、検証、距離計算の検算もある。ふつうの駅の窓口では手に負えないだろうし、ここは一番、国鉄の総本山窓口にあたってみるべきだった。折衝になる場面がありそうな、予測もあった。


 “片道最長切符”いよいよツメのその日は、早めに東京駅へでかけ、午前10時に旅行センターが開くのを待って真っ先に窓口へ。
 ぼくは鞄から、自作の白地図にルートどり記入したものと、区間ごとの距離を表にして積算した総距離ノートとを、提出して切符の発行を求めた。
 出発駅は九州・鹿児島県の枕崎(指宿枕崎線)、終着駅は(いまは廃止されてない)北海道の広尾(広尾線)。コースは逆でもかまわないわけだけれども、人には“北帰行”タイプと“南回帰”タイプがあり、ぼくは断然の北帰行タイプだからこうなった。
 このふつうじゃない面倒な用件を、担当してくれたNさんが熱心ないい方で、ぼくはラッキーだったのだが、予想どおりの紆余曲折はやはりあった。
 白地図上のルートどりを見て、Nさんが疑問符を付けたのは新幹線がらみ。
  ・新大阪−西明石山陽新幹線
  ・新横浜−浜松(東海道新幹線
 ぼくのルートでは、この2回、新幹線を利用することになっているのだが、それが「新幹線と在来線は同一線と見なす」つまり「新幹線は東海道線山陽線と同じキロ数によって計算する」規定にひっかかるというのだ。すると、それに関わる次の4区間が重複乗車と見なされ、認められないのではないか…という。
  ・西明石−尼崎(山陽本線
  ・浜松−掛川東海道本線
  ・富士−沼津(東海道本線
  ・国府津茅ヶ崎東海道本線
 ぼくは(そうくるだろう)と思っていたから、反論を用意していた。
 まず、おなじ「運賃計算のルール」の「特例」の項には、新幹線のうち「東京・小田原間、名古屋・米原間、新大阪・西明石間にある駅(新幹線の新横浜駅岐阜羽島駅新神戸駅も含む)を発駅または着駅とする場合、またはこの間の駅で乗り換える場合は、実際の乗車経路によって乗車キロを計算する」とあるのだ。
 (例)として、岐阜から名古屋経由・新幹線で新大阪へ行き、さらに大阪まで行く場合の運賃は、岐阜−大阪では済ませず、これに岐阜−名古屋の距離がプラスされた運賃になる。
 こういう例外規定を設けなければならないのは、新幹線と在来線のルートがかなり違っているために、同一線と見なすには無理がある(それも多すぎる)からだ。
 にもかかわらず、この〈規定〉ができたのは運用上の都合による。面倒は間違いの元というわけだし、特例はそれによって生じる矛盾の補整だからだ。
 つまり、「運賃計算のルール」は運用上の都合なのだから、柔軟に取り扱われてよいもので、「罰則規定」とは本質的に異なる。
 されば、国鉄も旅客営業なのだから、鉄道好きのファン気質もたいせつにして利益をあげればよい。
 ルールはルールだろうけれど、なにがなんでも意固地に守ればいい、というものでもないだろう。
 

 どうなったか。その場はひとまず〈あずかり〉、審査してもらうことになった。
 Nさんも組織の人、独断はできない。ぼくは「検討の余地あり」ということで満足だった。あちらが「規定」で押し通せなかったことで、客観情勢としてはぼくの方に分があったからだ。(いい時代だったな)と、いましみじみと思う。
 それから三日、ぼくのルートは全面的に承認された。
 あらためてNさんにお付き合い願って、こんどは距離計算のチェック。ノート13ページ分の積算と検算におよそ5時間。
 おもしろかったのは、Nさんも計算に電卓、検算に算盤を使ったことだった。その頃は、会計士や税理士といった分野の人々の多くがそうだった。電卓が信用できないのではなく、数字の打ち間違いが心配で、指に馴染んだ算盤がいちばん確か、ということだった。
 結果、ぼくの計算に誤りはなかった。


 さらに二日後、ついにぼくは、ぼく(だけ)の「片道最長切符」を手にすることができた。
 このルートの総距離12,771.7Kmは、いうまでもない当時の新記録。そしてこの記録はその後、宮脇俊三さんらによって更新されることになったのだけれども…鉄道マニアはどうもそうは見てくれないらしい、というオマケがつく。
 WEBページ<デスクトップ鉄のデータルーム>にある「最長片道切符ルートの変遷1961〜2011」を見ると、ぼく(ペンネーム夏攸吾)のルートどりはルール上「間違って」おり、発券は「情状酌量で認められたらしい」ことになっている。事実とはちと様相が異なる、けれども、だからどうというのではない。
 それゆえにこそ、その<片道最長切符は>たしかにぼくだけのものであった、それだけのことだ。


 1972(昭和47)年5月2日。ゴールデンウィーク前の忙しい最中、交通公社のベテランが二人係りで作ってくれたというそのキップは、裏面までぎっしり経由書きの、(ぼくなんかにはとても真似のできない)ペン字もみごとなもの。
 「なんなら、もう一度きれいに、書きなおしましょうか」なんて、とんでもない。
 かたい握手とともに、たがいに挨拶の言葉はおなじ。
 「ありがとうございました」
 これで準備はすべてととのった。