◆3月26日、つづき。鳴き砂の…浜がない
乾いた砂を踏むと「きゅっきゅっ」と音のする浜が、まだ小さかった頃にはけっこうあった…というか、砂浜は少なからず歩けば音のするものだった。
それが“鳴き砂”と呼ばれるのを知った頃から、稀少なものになっていった。
石英質の細かい砂粒が擦れて、砂は鳴く。だから、異物など混じって汚れていないことが大切だった。
そうして、このあたり牡鹿半島から北の三陸海岸にかけては、鳴き砂の浜のいくつかが知られていた、≪3.11≫までは…。
そのひとつ、十八成浜〔くぐなりはま〕は半島の先、鮎川港に近い。
小高い台地上から道を下って…浜を探した。
浜には砂がたっぷりあるはずだったが、波の寄せる汀はあっても、痩せ細った浜にすぎなかった。
このばあい(以前を知らないのだ)から「見る影もない」とはいえないわけだが、どう見ても“鳴き砂”の浜の姿ではなかった。
汀を行く道からして、なんともたよりなく低い。地盤の沈下があったのに違いない。
小さな松の林の、根元から崩れ傾いた何本かが株を波に洗われていた。厖大な量の浜砂が、ごっそりと奪い浚われてしまったのだろう。
ここには、愛知ボランティアセンターの人たちの集中的かつ継続的な支援活動があったそうで、損壊のあとは粗方きれいに片づいてはいたけれども、それだけに、大きく命のぎりぎりまで抉りとられた傷痕が痛ましすぎた。
鮎川の港も、岩壁のいたるところが捲れ上がったまま、ようやく死地を脱したばかりの兵たちを収容する野戦病院のようだった。
端っこの方の岩壁に、 網地島〔あじしま〕ラインの船が着いていた。
牡鹿半島には、西に網地島と田代島、東に金華山、三つの大きな島が寄り添っている。西の網地島・田代島には人の住み暮らす集落があり、鮎川と石巻の間を結ぶ船便はライフラインだから、すでに復旧運行されていた。
しかし東の金華山は、(黄金山五十鈴)神社関係者だけが住む観光の島なので、定期船は止まったまま。
出立前、問い合わせの電話には、鮎川港からモーターボートをチャーターして2万円ほどという答えだったが…今回はやめておくことにした。
ケチったのではない(水上遊覧だってそのくらいはかかる)、ただチガウ…気がしただけだ。
支援の金づかいという考え方もあったが、それで神様とさしむかいというのは、やっぱりオソレ多くもあった。
先端の高み、御番所公園に上がると瀬戸を挟んで、人の動きさえわかるほど間近に金華山が望めた。
◆南100キロには“フクシマ”がある
鮎川港といえば、かつては知られた捕鯨の基地。
港の一画、好位置を占める〈おしかホエールランド〉も被災後は、ただいまもまだ休館中。
南氷洋での活躍いまでは夢のような、最大級の捕鯨船キャッチャーボートが栄光の威容を誇っているが、船首の(捕鯨)砲台からにらむ海原に、さて(希望はあるのだろうか)考え込んでしまう。
鮎川港では昨年初冬、大震災後はじめてツチクジラの捕獲があったと「復興」にむけての明るいニュ−スふうだったが、しかし…。
漁師たち、漁業関係者たちは、これから海とどう向きあっていくつもりなのだろう。
この海、沿岸を100キロも行けば、爆発して放射能を大量に撒き散らし、いまも海水を汚染しつづける原発なのだ。
沿岸漁業への致命的なダメージは、福島(常磐もの)のみにとどまらないだろうと思われる。
漁師たち、浜の人たちが金銭経済におされ、ニッポン各地で守るべき海をついには守りきれず、補償経済に負けつづけてきたことを、ぼくは思う。
島国が海をないがしろに、海を棄て、海の幸を棄てる愚かな策に、漁民たちもとどのつまりは加担してきてしまったことを…。
人が生きるのには「電気がないと困る」、より先に「安心して食べられないほうが困る」のではなかったか。
鮎川の町なかには、復興支援のプレハブ〈おしかのれん街〉ができていた。
かみさん八百屋をのぞき、ぼく酒屋をのぞく。
酒屋の主人が、十八成浜の人だった。“鳴き砂”の浜の目の前にあった店を、津波にもっていかれた。
ここに仮にもせよ、店を再開できたことはうれしかったし、なにより励みだ。しかし、支援組織のおかげでできたこのプレハブ仮店舗も、あともう一年かぎりだという。
将来を考えて、息子は企業に就職させた。
十八成浜は、砂を入れて復興の計画になってはいるが…どうなるか。店の再建、商売の再開もどうなるか、わからない。
「また来ます」としか、ぼくもいえない。
その夜の泊り、「金華山一望」の宿。
夜半にまた雪がちらちら、翌早朝…瀬戸の向こうはうっすら薄化粧だった。