どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

 牡鹿半島、南西岸の浦々/《3.11》一年後の被災地巡礼【2】  −何処まで人は住んでいいのか?−

 


◆意識して高みを目指す


 3月26日。
 昨日は閖上〔ゆりあげ〕から仙台を抜けて東松島市の矢本まで。
 アパートメント・ホテルとでもいうのだろうか、これがきっとビジネスライクなのだろう、ユースホステルとは異なり木賃宿とも違う、はじめての経験のごく簡潔な宿に泊った。
 観光でも休養でもない、巡礼の旅などにはむしろ、こんな宿の方が気楽でいいのかも知れない気がした。
 外出して夕食の頃から降りだした雨が、まもなく霙〔みぞれ〕になり、夜半には雪になり、翌朝は雨になっていて、ほどなくやんだ。
 気まぐれ移り気な空模様が…なるほど春先らしくはあった。


 付近には、航空自衛隊松島基地
 あの《3.11》のとき、この基地そのものが津波に洗われながら、逸速く緊急時の態勢を整え、救助救援に発進している。
 いまいちど思い起こしておきたい、このたびの東日本大地震と大津波被災で、救難に果たした自衛隊の功績がどれほど大きなものであったかを…。
 そして、福島第一原発の爆発という許されざる余計な人災事故さえなかったなら、彼ら自衛隊の成果はもっともっと賞賛と驚嘆に値したものだったにちがないことを…。
 すべての混乱は、原発ドカンと放射能ヒサンに起因する。
 癒されることのない、みにくい傷跡をさらし、いまなお不気味な陰翳〔いんえい〕を引きずりつづける。
 さらには、風化。
 もうすでに、あの酷すぎる人災の事実が忘れられかけ、目先の経済や利便の都合だけで「電気がたりなくなれば困る」といいだす始末、民意をそう仕向けようとする性懲りもない権力筋の面々、なしくずしに原発再稼働へと舵をきって恥じないニッポンの国家とはいったいナンなのかを…。


 高みに立ってみることにしよう。
 今回の巡礼で、心がけたことのひとつが、それだった。展望は、ヒラケる。
 ぼくたちは冷えた朝の泥濘〔ぬかるみ〕のなか、矢本海浜緑地から石巻港にかけての辺りを、しばらく彷徨〔さまよ〕ってから、高台を目指した。
 毎年春3月に公表される公示地価で今年、石巻市の須江しらさぎ台が全国地価上昇率上位のトップ(上昇率60.7%)、以下十位までのうち九地点を宮城県の住宅地が占めたというので話題になった。
 そこは仙石線の線路から6キロ、三陸自動車道から5キロほど北、旧北上川西岸、国道108号沿いの高台。行く前から予測されたことながら、べつにこれといった特徴もない、日本中どこにもごまんと見られそうな小高い台地上に、新たに開けた住宅地だった。
 敷地の広さも建物も、これまた近頃は全国的に似たり寄ったりの、地方色も特徴もなく、個性などもとめないごく平均的な風景…を見れば、権力者には<扱いやすい民>と見えてとうぜんかも知れない。
 しかし大津波後のいまは、この高さがたしかに新鮮な魅力ではある。


 今年の公示地価、東北地方の被災地では「高台と沿岸部で二極化が顕著」といわれる。
 市街地に下りて、その下落率(−15.9%)の大きい辺りにも行ってみた。
 吉野町は、石巻駅にも市役所にも近い旧北上川の東岸、河口港の後背に開けた低平地。交通の便に恵まれ活気もあって、きっと住みよいところであったろう…一帯は、すっかり津波にやられ打ちひしがれていた。
 しかし、ここはここでいずれ元に復していくのだろう。
 稼働域と居住域の分離、自治体の行政負担の膨張を思う。歯止めの必要にどう立ち向かっていくのか…。


牡鹿半島に点綴する浦々と浜


 空は晴れ、風はあいかわらず冷たい。
 石巻湾から大きく北東へ入り込んだ海跡湖、“万石浦”に架かる万石橋を渡って牡鹿半島へ。
 これまでの巡礼では、沿岸の主要部を辿るので精一杯。半島部に立ち入るのはこれが初めて、というか牡鹿半島じたいがぼくには未知の地だった。
 半島の大半はかつて牡鹿町だったが、平成の大合併後のいまは石巻市になっている。


 道と集落の被害のほどを、なるべくたくさん知っておきたかった。
 まず、とばくちの石巻湾沿い、小さな崎にある小竹浜を訪ねる。
 海岸沿いの細道はまだ通行止めのまま、県道でトンネルを越えてからグルッと周りこむ。
 道はいたるところで拉がれ、舗装は捲れ、段差や路肩崩壊のつづく道は、注意標識などなくても、いやでも徐行するほかない。
 浜に下りれば小さな集落はやられており、かなり高い崖上を行く道の周囲にも赤枯れた樹林が見られて(ここまで津波?)肝を冷やす…が樹種は松で、どうやらこれらはマツクイムシの害らしいのにホッとする。
 小竹浜の小さな集落のありようは、数ある〈釜谷〉地形に符合するなりたちだった。
 壺みたいなかっこうに開けた懐やや広めの谷間で、ちんまりした港というか船着きが石巻湾に面している。
 浜の舟入口には前衛のようにこんもりした島がひとつあって、津波の勢威を少しは削ぐ役にたったかもしれない。


 震災時49世帯、人口114。70歳を超える人がほとんどの超高齢社会。≪3.11≫の大津波に9戸の家と漁協の建物を流されたが、浜の人々はすぐに高台へ避難して、死者は1名だけだった。
 これは60年前の大火事がきっかけで、もともと結束のかたかった浜に、できた防災組織と訓練のたまもの。
 たとえ男たちが漁に出た留守に火災があっても、女こどもで消火できる態勢だったという。
 元の小学校体育館を避難所に、高齢の人々が調理やら物資調達やらの役割を分担して、のりきった。
 バイク、ジープの先遣隊出動を経て、ホバークラフトなどによる自衛隊の救援は3日後になったが、その間の食料にしてもちゃんと一週間分の備蓄があった。
 ぼくはこれまでにも各地で、戦前までの方々の、日々の生活によって鍛え上げられた足腰の強さに出逢って舌を巻き、口を閉じてきたのだけれども…。ここでもやはり、80すぎの婆っちゃから見れば、どうやら「やわな息ぎれやろっこ(若者)」みたいなものらしかった。


 浜の中央あたりに新しいバス停ができていて、〈日赤病院行き〉時刻表に平日2便、土日1便が記されているだけだった。
 ぼくはここで、二つのことを記憶にとどめた。
 ひとつは、瓦礫も処理され嵩上げ整地もすんだ浜の、ちょっとした高みに龍王神社の赤い小社があって、ここまでは水が来ていなかった。
 もうひとつは、この浜が、大きさからいっても住む人々の民度からしても、復旧存続できる集落のひとつの目安になるだろう、ことだった。
 厳しく見れば限界集落ともいえるだろう。


 半島の南西岸をさらに行く。
 桃浦、月浦、侍浜、荻浜と、被災の浜が続く。
 まさしく点綴〔てんてつ〕するといった風情で、ちょっとでも使えそうな湾入があり、浜らしき汀がありさえすれば人が住み、何戸かの集落?を成している。
 これまではそれでよかったのかも知れない…が、こんどのようなことがあれば、人命尊重でいくのならば、「何処まで人は住んでいいのか」を問い直さざるをえないだろう。
 印象からすれば、二つに一つくらいの割りあいで統廃合していかなければならない、それほどに、あまりにも分散しすぎていた…。
 月浦の港を見下ろす高台の公園には、慶長13(1613)年秋、伊達政宗の命をうけ遣欧使節団の一行180余名を率いた支倉常長が、西洋型帆船サン・ファン・バウティスタ号でローマに向け出帆した記念の像が立つ。
 そのすぐ脇にも、ほかに場所がなかったのだろうか、仮設住宅が窮屈そうに肩をすぼめていた。