どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

 “個人情報ホゴ”ってなんだろう  −支援を無にしない、保護を反故にしない−




◆こんどの〈2011.3.11〉東日本大震災の後、被災地であったこと、ぼくが感じたこと。


 事実をありのままに、簡潔にお話しておこうと思います。


 まず春、被災一ヶ月後の4月11日に現地へ向かったのは、居ても立ってもいられなくなったから。
 自衛隊や国際ボランティア組織などの救援専門家集団に頼る初期は、固唾をのんで見守るしかなく。
 しかも…政府関係筋の対応は遅れ、これに福島原発爆発処理騒ぎが重なって、あまりにも動きが鈍かった。
 まず誰にもできること、義援金を寄付した。
 救援物資は、きっと莫大な量が集まるだろうと思われたので、様子をみることにした。
 (これは予想どおりで、いまの日本はやはり豊かな国だし、他人の不幸を黙って見ていられない国民性も健在だった)
 しっかりしたボランティア組織に参加登録もしたが…なかなか、ピンとくる募集が見あたらない。
 どうやら主力は別に用意があって、ぼくらはその他もろもろの予備力みたいなものらしい。
 まぁ、それならそれでもいいようなものだけれども…どうせなら自分の能力を発揮できる場で生かしたいではないか。
 そこに大きなギャップ(喰い違い)を感じた。
 これだけの大災害だ、かぎりある個人の微力でも、なにかの助けにはなるだろう、なりたい。
 ギャップ(隙間)を埋める必要を想った。
 〈すきま支援〉〈ボランティア・ゲリラ〉を考えた、のだけれども…。
 なにせ、連絡がとれない。電話も、郵便も…通じない。宅配便も…届かない。
 なんとか連絡をとり、必要な要請を受けてから、届けに行きたかったのだが…。
 やむをえない。まず、どうやって連絡をとっていくか…から始めることにした。
 〈便りが頼り〉の“お便りグッズ”を手渡しで届けよう。
 目指したのは岩手県大槌町、大槌高校。若い感性と行動力に希望を託したかった。
 簡単な便りのやりとりからでも、進めていければいい…と想っていた。
 (そのときの詳しくは2011年8月23日投稿の記事を読んでください)
 校長先生宛ての手紙に、こちらの“個人情報”を明らかにしたうえで、生徒さん達へのメッセージを託した。
 校長先生は留守だったので、事務の方に、くれぐれもよろしくお願いしてきた。
 後で、校長先生から公式的でない、つまり親しめるかたちで礼状(葉書)がきた。が、それだけ。
 生徒さんたちからは、なにもなかった。
 メッセージそのものが伝えられなかった…のかも知れない。
 そんなものかな…と思った。
 なにかこちらに、考え及ばないことでもあったろうか…。マチガイでもしたろうか…。


◆ようやく糸口がつかめた…と思ったらそれきり


 夏には、宮城県亘理町でいい人に出逢えた…と嬉しく思った。
 国道6号(陸前浜街道)から入ってすぐの、(他と比べたら)恵まれた立地に、避難所と仮設住宅とが道を隔てて隣りあっていた。
 空間としてもひらけて、避難者に孤立感や隔離感は薄かろうと思えた。
 たまたまそこで、被災者支援担当の一女性職員と顔をあわせた…のは、じつは、カミさんの方だった。
 ぼくは…どうしても取材癖がでてしまうようで敬遠されがちでいけない…と自分でもわかっていたので、このときは後ろに控えていた。それがよかったのかも知れない。
 ともあれそのときはたしかに、たがいに素直に気もちのかようものがあって、ヨカッタと思った。
 人が生きていくうえでは、いつも出逢いと感受の度あいとの繰り返し。その濃淡によって幸せの密度もきまっていく。
 助けあいは、おたがいさま。じぶん一人だけの人生も、じぶん一人だけの幸せもない。かつての日本には、この美風があった。
 このたびの、あまりにも大きすぎる痛手に対しても、日本人はその美風の片鱗を見せた。
 海外メディアがこぞって賞賛した被災者たちの忍耐と落ち着きもそうなら、支援の民衆が見せたすばやい行動と援助の手厚さもだった。
 わずかひと月たらずで、避難所には支援物資が山と積まれ、置き場所に窮するほどだった。
 寄せられた義援金は、赤十字だけでもたいそうな高額に達した。
 (その分配の遅れが、被災者側だけでなく支援者側にとってもどれだけ“冷や水”浴びせる扱いだったことか…)
 しかし、大切なのはこれからだ。
 被災から半年近くも経って、支援の動きにも飽きや緩みの見えるのが心配だった。
 〈すきま支援〉の出番…に思えた。
 「ナニができるだろう」「できることをしたい、いってほしい」と申し出た。


 「それなら、いまぜひ欲しいと思っている物があります」といわれた。
 意外だった。背後の救援センター(体育館)には救援物資が山積みだというのに…。
 いまこのときの必需品はタオルケット、バスタオル、シャンプーにリンス。
 いわれてハッとした、うかつにも気がつかなかった。まだ寒い季節に見舞われた災難が…いまはもう汗ばむ夏場を迎えていた。
 すぐに、ぼくらの後を追うかたちで出かけてくる友に連絡、とりあえずシャンプーとリンスを間にあわせた。
 タオルケットやバスタオルは、親戚や友人たちにメールで協力を依頼、帰ってからわが家に集約して、送ることにした。
 その際にも「これをきっかけに後はどんなことが必要なのか遠慮なくいってほしい」旨、手紙を添えて伝えた。
 しかし……。
 これもついに、それっきりになった。
 市長名で、きまりきった文言・印刷の公式礼状がきただけ。
 あの人が…と無念でならない。
 礼状なんかじゃない、気もちの通うかたちでの、継続する支援のきっかけがほしかったのに…。
 思うに“役場”としては、こういう例外は面倒なので禁じたものだろうか。
 あるいは、あの人自身があとで、規則はずれのマズイことをしたと感じたものか。
 (後にインターネットで町の公式サイトを見ると、個人の支援は受け付けない、ことになっていた)
 いずれにしても、助けあいの心にはほど遠い、硬直したものが感じられた。
 きまったことしかできない、臨機応変には動けない、規則漬けの“お役人仕事”がザンネンだった。
 たしかに国の責任は大きく重いが、だからといって被災自治体がいつまでも国の出方を待っていていいのか。
 たいへんなときなのだ、なにしろ忙しい…わかってます。
 なにもかも一遍にはできない、やれることには限りがある…でしょうとも。
 なのになぜ、素直にひと声「頼む」といえないのだろうか。
 どんな思いやりも、きちんと筋が通ってなければダメですか。
 肩肘張って、これまでどおりにやってみて、できないものはしょうがない…のだろうか。


◆個人情報ホゴ…が対応の遅れの言い訳にもされた


 このたび、まだわずか二度ばかりの巡礼ながら、痛切に感じられたのが“個人情報ホゴ”の壁だった。
 なにを尋ねても、「個人情報ですから…」でお断り。
 なかには「個人情報」がじつは、わからないことを隠したり、まだ手つかずのいい逃れだったり、ひどいときには門前払いの口実に使われたりもしていること。
 ボランティアセンターの担当者のなかには、なにか自分も被災者と同レベルの特別な存在であるかのごとき、錯覚を抱いているらしい人もいた。

 
 「ボランティア活動はしかるべき窓口を通して申し出てください」というのは、わかる。
 けれども、それ以外はいっさい“お断り”というのは、どうか。
 「個人でしてくれるなら、お金だけにしてください、あとはいりません、まにあってます」というのか。
 だいいち、ほんとうに間にあってますか、よけいなお節介ですか。
 ぎりぎり最後のところは、人と人。
 こんな大事の場合に、職員ひとりひとりに裁量の自由、そしてまとめて責任をもてる現場の上司、という存在がなくてどうなるものか。

 
 たしかに、いまは“個人情報…過…保護”の風潮。声高にホゴを訴える人が多いけれども…。
 いっぽう各地に見られる現状は、個人情報の遮断が、ごく通常の支援業務にさえ支障をきたしている始末なのだ。
 かつてこの国には、合縁奇縁、情けは人の為ならず、一宿一飯の恩義…といった人と人のつながり、人情というものがあった。
 まさか、それを忘れたとは、思いたくない。
 個人情報“ホゴ”が〈保護〉でなく〈反故〉にならなければ…いいのだけれど。