どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

 青森は“ねぶた祭り”でラッセラだった/(20)11.3.11その年の夏【6】  −函館“いか踊り”との仲をとりもつ津軽海峡−






◆8月6日 まだ旅を終えることができない


 この夏はもう、これくらいで「いい…ことにしようか」。
 陸中海岸、野田村あたりまで来てそう思ったのは、根っこが草臥れてしまったからだった。
 けれども、ぼくの旅のリズム〈針路は北〉。
 身体は疲れきっているのに、目を瞑っても眠れない夜があるのと同じように…。
 意識に設定されたリズムは、たとえば思いがけない死とか格別なことがないかぎり、半端なところで打ち切りにはできない。
 やっぱり、どこまで行っても旅人なのだった。
 ともかく八戸まではこのまま海沿いに、国道45号(浜街道)を行ってみることにした。


 岩手県北の首邑〔しゅゆう〕久慈〔くじ〕。邑と呼ぶには、いまは町すぎるが。
 このあたりは、鉄道も道も縁が遠い。かつては“日本のチベット”などと呼ばれたこともあった。 
 頼りのJR八戸線は、三陸鉄道北リアス線に接続する久慈から青森県境の種市たねいちまでが未だ通じていない。
 “不通”を“運転見合せ”とするところに、鉄道屋の意地を見る気がする。
 種市から臨時ダイヤの列車に乗れば、八戸で東北本線・新幹線に接続、道路も八戸自動車道で東北自動車道へと出て行ける。


 このたびの東日本大地震、縦方向に伝播し連なった巨大な震源域からは、どうやら遠のいて行くようだった。
 極端な言い方になるけれど、これまでのような〈壊滅的〉ではない…空気にそれが感じられた。


 青森県に入ると、好天に恵まれた気分のせいもあろう、開けた海がいちだんと明るかった。
 景勝の種差海岸には、夏を愉しむ家族連れのピクニック姿があふれていた。
 ウミネコ蕪島〔かぶしま〕では、海水浴客たちが盛り上がっていた。
 すぐ隣りあう漁港では、船の修理をする漁師がブスタレた不満顔で大きく両手を振ってみせた。
 「やられたさぁ、そこも…そこも…み〜んなだ」
 よく見ると、まわりには津波の爪痕が〈加療中〉でのこっていた。


 車は八戸市街を抜け、十和田市で国道45号から“ひとケタ(基幹)”国道4号(陸羽街道)へ。
 七戸野辺地〔のへじ〕と進むうちに…風景に見覚えがあって、車窓はいつのまにか鉄道のリズムになっている。
 かつてここを南部縦貫鉄道が走っていた。
 JR東北本線(いまは青い森鉄道線という)野辺地駅の、ホームから眺める天高く真っ直ぐな鉄道防雪林(雪景色が秀逸なのはいうまでもない)は北国の構内風景のぴかいち。
 下北半島への入口でもあるこの駅の、ぽつんと離れたところから鉄道防雪林に見送られて出て行く、小さな車両に旅情をかきたてられたものだった。
 「天間林〔てんまばやし〕」…中間にそんな名の駅もあった。


 陸奥湾の波静かな海に出逢い、夏泊半島の首根っこを抜け、浅虫温泉の汀を走り、青森の街に近づいてきたら、カーナビから“ルート上に渋滞あり”の情報。
 「えっ…(と一瞬つまってから)…もしかして“ねぶた”ぁ!?」
 かみさんの声が跳ねあがった。まさに……。


◆片脚で連続ジャンプの烈しさ…熱気ほとばしる跳人


 青森の“ねぶた祭り”は、未だ見ぬ憧れだった。
 かみさんの故郷であり、ぼくの大好きな大地、北海道。飛行機が苦手なぼくらは、いつも夜行列車から青函連絡船に乗り継いで行った。連絡船が、やがてトンネルになった。車だとフェリー。いずれにしても青森を通る。だから、いずれチャンスはある…と思いつづけて、果たせないできた。
 先々の予定に縛られることが嫌なのと、宿の確保の難しそうなことが足枷になっていたかも知れない。
 うまい具合に途中下車して見られたりすることがあるかも…なんて虫のいいことを考えてもいた。


 ぼくは、夏の取材でも青森を二度おとずれながら、二度とも祭りの後だった。
 海に近い公園で、表舞台を降りた大きな巡行“ねぶた”が独り雨に濡れ、張り子の紙破れかけていたのが、いたく感動的だった。このときぼくは、祭りは本番だけでなく“祭りの前”から“祭りの後”まで見なければホントのところはわからない…ことを知った。
 〈後の祭り〉って、じつはとても味わいの深いコトバだ。
 繁華街の酒場で、跳人〔はねと〕持ち物の“ガガシコ”を貰い、「来年の祭りにはコレもっておいでよ」と誘われたこともあった。
 それっきり…だった。


 街に入ると“ねぶた”一色。人混みが浮き立つ、車の警笛が浮き立つ、集合場所へと急ぐ跳人の脚もすでに浮き立っていた。こちらもソワソワしてくる。
 駐車場を探しかけて、ままよフェリー乗り場へ行ってしまうことにする。そこには大きな駐車場がある。函館行きを予約してあるのだ、なんとかなるだろう。
 正解だった。ほかにも同じ目的の人たちがあって、街外れのフェリー乗り場からはタクシーで見物に行けばいい。
 「きっと、巡礼のご褒美だね」
 かみさんがいう。なるほど、このたびは祭りのことなどまったく念頭になく、ひたすら巡礼行脚の末に運よく出逢えたのだ…ご褒美といっていいかもしれない。


 タクシー運転手の好人物もまた、ご褒美だった。
 見物にいい場所まで連れて行ってくれたうえに、気の利いたアドバイスつき。
 「おしまいまでは見ないで、もうちょっと…というところで、ここに来れば帰りのタクシーがひろいやすいです」


 “ねぶた”はさすが、東北夏まつりの頂点だった。
 大型ねぶた(今年は22基)運行の…精巧…光輝…威勢…迫力、見せ場見せ場でのパフォーマンスも観客の興奮を心得ている。
 〈がんばろう東北!〉のメッセージが揺れて行く。
   ラッセ・ラァ、ラッセ・ラァ、ラッセラッセラッセ・ラァ
 跳人が…すごい。
 花笠に豆絞り(の手拭い顎に掛け)、ピンクの襷に黄色の扱き、浴衣に鈴付け、ガガシコ吊るして、足袋裸足。
 この派手ないでたちで、烈しく跳ねあがり空中で身を捻る、しかも片脚で連続二度のジャンプは…きつい。
 思ったより跳ねる人が少ないようなのは、「これで三日目だから…ネ」ということだった。
 これにも見せ場見せ場があって、いちど思いっきり跳ねてしまうと、しばらくは呼吸を整えなければならないらしい。
 大太鼓に向かって長い撥を振るうなかにも、凄腕で小粋な職人の姿が見られた。
 観客にも、伝統の行事にふさわしい、やり手がいる。
 ビール飲みつつ、練り歩く“ねぶた”や跳人にタイミングよく声を掛け、その気にさせサービスさせてしまうのだった。
   ラッセ・ラァ、ラッセ・ラァ、ラッセラッセラッセ・ラァ……
 明日の最終日には、ねぶた海上運行と花火大会がある。


 フェリーの駐車場に戻っても〈ラッセ・ラァ〉の余韻、尾をひいて。車中で仮眠のつもりが…ほろ酔いながら寝つけそうにない。
 翌日昼前の便だった予約を変更、夜中便で津軽海峡を渡ることにした。
 ターミナルビルに手続きに行くと、祭り見物帰りの人たちに混じって、そこここに跳人衣装の姿を見かける。
 北海道からフェリーで「跳ねに来た」のだ。一人は札幌、一人はなんと道北・留萌からの女性だった。


◆海峡はさんだ函館にも〈兄弟分〉の群舞ができた


 函館には“いか踊り”というのがある。
 ぼくは新しくできたものかと思っていたが、もう30年くらいにはなるという。
 伝統の“ねぶた”にくらべると、いかにも新天地らしい祭りで、あっけらかんとして賑やかな歌と踊り(アクション)だ。
   函館名物いか踊り
   いか刺し 塩から いかソーメン
   もひとつおまけに いかポッポ
   いか いか いか いか いか踊り
 明快すぎるくらい単純な観光宣伝調だけれども、乱舞の激しさは“ねぶた”を意識してだろう、右へ左へ弾けて跳ねる。
 子ども遊びの“花いちもんめ”ふうに、ピョイと蹴りだす。  
 8月はじめの函館港祭りが出番だから、今年はすでに終えているわけだが、ぼくはこの「いか踊り」も好きだ。
 ひとつ注文をつけておくとすれば、大音響への頼りすぎ、音が割れてはいただけない。修練がいる。
 

 フェリーは夜半に出航した。
 デッキから淡い月明かりの波間を見つめて、ぼくは夏の巡礼を振り返った……。


 『渚にて』(1959年・米)http://movie.goo.ne.jp/movies/p6581/index.htmlという映画があった。
 映画ずきな父の手をはなれ、ぼく一人の映画世界に夢中になりはじめた中学生の頃だった。
 監督はスタンリー・クレイマー
 モノクロだった。テーマは〈愚かな核戦争の結末〉。
 第3次世界大戦の原水爆によって地球の北半球は絶滅、そして“死の灰”は南半球にも刻々と迫っていた…という設定。舞台はオーストラリア。
 テーマソングふうに流されたオージーたちの愛唱歌『ワルティングマチルダ』が、夕闇の渚の焚火に印象深くマッチして忘れ難かった。
 この曲はその後もしばらく、自然派のワンダラーやキャンパーたちによって唱われつづけた。キャンプファイア・ソングだった。
 主役は米原子力潜水艦の艦長グレゴリー・ペックと恋人エヴァ・ガードナー。死滅したはずの町から発信される無電が、現地調査で風のいたずら(カーテンの紐に掛ったコーラの瓶がキーを叩いていた…)と知れる場面もよかった。けれども……。
 ぼくの胸に染みたのは、オーストラリアの若い海軍士官アンソニー・パーキンスが、幼子を抱いて半狂乱の妻をねばりづよく説得、死の薬を与えるシーンだった……。


 いま、冷静に考えれば『渚にて』のように劇的な死を迎えることのほうが、むずかしいだろう。
 むしろ「基準値にはみたない」、「ただちに生命にかかわるレベルではない」微量の放射能汚染がじりじりと進んで、わけのわからない体調悪化に苦しみながら、やがて死を待つことになるのだろう。


 いま渡る津軽海峡は、この2011.3.11福島第一原発の爆発後、ぼくらが首都圏を脱出しなければならなくなったときには、北海道への避難(こんな場合でも沖縄とか南の方に向かうのではなくナゼか北帰行になってしまう)の決め手になる日本海まわりルートのポイントであった。
 それはしかも、いつ現実になるかも知れない道筋なのだった。