どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

 奇跡の一本松と“ひょっこりひょうたん島”/(20)11.3.11その年の夏【4】  −まるい地球の水平線に待っているもの−





◆8月5日 気仙沼の朝さまざま


 港の“お魚いちば”がかろうじて復旧、店を開いていた。
 支援の物産購入、だけど、旅の空では鮮魚を買うわけにいかない。
 地元の雇用確保などに岩張る阿部長商店の“ふかひれスープ”http://www.abecho.co.jp/product/を、まとめて箱買い。
 もう一軒、“さんま笹寿司”の斉吉を励ましたかったのだけれど、電話連絡さえままならない状況で、出直すことにする。
 気仙沼大島に渡るのも「またこんど…」にした。
 ふと、被災地で買いもの気分になっている自分に、軽いとまどいを覚えてもいた。
 港に近い辺りは、地盤沈下のせいで水溜りになっているところが多い、そんな情況にもかかわらずだ。
 気仙沼には(底力があるんだな)と思えた。〈まち〉が大きいこともあるのだろうが…背筋が伸びるようだった。
 唐桑半島の鳴き砂の浜、“九九鳴き浜”がどうなったか知りたかったが、ついに辿りつけなかった。
 道がずたずたで、ずたずたの先には…道がなかった。
 復旧に勤しむ人たちをさしおいて、無理はできない。やっぱり出直そう。


◆褪せたセピアの孤影だった…陸前高田の奇跡の一本松


 宮城県から岩手県陸前高田市へ。
 ぼくは、在りし日の風景を知らないのだが…。
 “高田松原”は2キロの浜に約7万本、もじどおり〈白砂青松〉の美しい景勝であったろう。
 太平洋沖から見れば広田湾の奥、真正面に位置するから、大津波をそれこそまともに受けてしまったことになる。
 端から端まで薙ぎ倒された、なかに一本だけのこった松が感動を呼び、まち復興の象徴ともされた。
 樹齢250年を超えるといわれる“奇跡の松”は、高さ30メートルほどとか。
 しかし……。
 遠く望み見る(近くまで行くことはできなかった)孤高の老松は、白茶け、病み衰えているようだった。
 松は塩害につよい木で、一度は立ち直ったかに見え、人々の守る気運も盛んだったけれど、痛手は思いやりをはるかに超えて深刻だったようだ。
 この夏に発芽が認められたその多くは変色、松ぼっくりも緑のものは少ないという。

 
 見守りつづけてきた日本緑化センター(財団法人、東京)http://www.jpgreen.or.jp/の診立ても、
 「樹勢が再び衰弱に陥った」
 貴人の病状発表にも似て、重々しい。


 陸前高田はこのあと、8月7日には伝統の“けんか七夕”祭りも行われ、しきりに元気印をアピールしつづける。
 意気軒昂な人材がたくさんいるのだろう、けれど…ほんとうのところはどうだろう。
 復旧・復興の遅々として進まないことからくる頑張りすぎ、息切れが心配だ。
 ぼくもかつて、まわりから〈元気印〉と評判された時期には、気もちでその勢いに乗せられてしまい、弱音を吐けない痩せ我慢で、どうにか凌いだ覚えがある。
 陸前高田の元気印に、くれぐれも無理しすぎのないように願うばかりだ。


◆自尊自立の意気“ひょうたん島”魂で進め大槌町


   波をチャプチャプ チャプチャプかきわけて
    (チャプ…チャプ…チャプ)
   雲をスイスイ スイスイ追いぬいて
    (スイ…スイ…スイ)


 …とはいかない陸中海岸の〈みち〉。道路はなんとかなったが、鉄道がまったくイケナイ。
 復旧に要する資金と時間、どれくらいかかるものかも、やってみないとわからない。
 大船渡がネックになっていて、春から状況はほとんど変わっていないように見える。
 JR大船渡線一ノ関から気仙沼までは通じたが、そのさき大船渡市の終着、駅までがグニャグニャ、ズタズタ災害不通のまま。
 乗り継ぐ三陸鉄道南リアス線の盛‐釜石間もおなじく、惨憺たるありさまだ。

 
 被災後すぐ、大々的に多額な寄付金を申し出て話題になった有名企業家があったが、あのお金そういえば…どうなったのだろう。
 その実態が目に見えてわかるような、たとえば全額を〈三陸鉄道復旧〉のために、なんて使い方もできたんじゃないかと思う。

  
   ひょうたん島はどこへ行く ぼくらを乗せてどこへ行く(ぅぅぅ…)
  

 大槌町
 春に訪れた大槌高校の、避難所は閉鎖されたようだった。
 高校より少し海寄りに下がったところに、大槌北小学校があった。
 津波が校舎の一階天井まで押し寄せたという、その校庭に「仮設の校舎が建てられる」という報道が5月にあった。被災後ずっと、子どもたちはバスに乗って遠距離通学をつづけてきたのだ。すっかりやられてしまった五つの小中学校のうち、いちばん海から遠く、校庭が広く、裏山へ避難もしやすい立地条件から、ここが集合仮設学校地に選ばれたという。 
 ぼくは(えっ、ほんとに…)と思った。
 用地のかぎられた山間の海辺だし、別の施設で間借り授業をつづけてきた子どもたちに早く母校を復活させてあげたい気もちはわかるけれど、保護者たちは賛成してくれたろうか。
 妙な言い方になるが、もしみんな揃って「ここに生きる」決心をしたのなら、いっそ「おみごと」に思えた。
 勝手ながら、そこで「これからどうやって生きていくのか」を懸命に考えてみてほしかった。
 しかし、現実はやはり、ぼくの思ったとおり…。
 北小学校の校庭には、基礎だけがそのままになっていた。
 「保護者たちの反対で断念しました、かわりにスーパーとか、お店ができることになっています」
 向こうの高台に、かわりの用地をもとめることになったという。
 石巻の大川小学校とおなじこと、たしかにそうなのだ、そうなんだけれども…展望もひらけずに重苦しいこの気分だけは、早くなんとかしてほしい。
 

   まるい地球の水平線に なにかがきっと待っている


 港に近い安渡に、大槌稲荷神社がある。
 ちょっと引っ込んだ高台の前際、出城か砦のような立地は見晴らしよく目標にもよい。とうぜん地震津波の非常時、地区の避難所に指定されている。
 地震の後、坂道を登って逸早く駆けつけ始めた人たちは、その多くがまた、置き忘れた財布や通帳、携帯電話をとりに家に戻って行ったりした。
 津波の第1波のときには、来た人の半分くらいになっていた。
 町の中心部の人のなかには、「津波はここまで来ない」と動かない人が多かったという。
 第2波がすさまじい勢いできた。
 建物を破壊しながら押し流しつつ、信じがたいことに水が土煙りをあげて迫ってきた。
 立ち竦むしかなかった。
 音がもの凄かった。
 地面を引っ掻き圧し拉〔ひし〕ぐ、ズドン、バキバキと底鳴りのするなかに、シューッとプロパンガスの吐く息が混じったりした。
 火事がでて3日間、燃え続けた。
 大槌稲荷神社はのこった。
 避難者120人あまり、神社の家族は避難者の協力もえて炊き出しなどの世話にあたった。


 五ヶ月後の大槌稲荷神社。
 避難した人たちは仮設住宅へと移っていき、社殿わきの避難所はまもなく閉鎖になるという。
 宮司さんは、瓦礫処理の進む町を見おろして溜息をもらした。
 「あの…瓦礫つかんで片づける機械、あれに比べて運び出すダンプが少なすぎるんです、ダンプが順番待ちするくらいでないと、いけないんですがね…」


   苦しいこともあるだろさ 悲しいこともあるだろさ だけどぼくらはくじけない
   泣くのはいやだ 笑っちゃお


 大槌湾内の小島、弁天様のお堂と赤い灯台のある蓬莱島〔ほうらいじま〕
 津波にやられる前は、岸から堤防を歩いて行くことができたそうだが、港外にぽつんと離れたいまのほうが“ひょうたん島”らしい。
 ぼくら青春時代まっただなかの1960年代後半、NHKの人形劇『ひょっこりひょうたん島』は、自尊自立つきぬけた精神のおもしろ鏡だった。
 登場キャラクターのなかでも、ドン・ガバチョ(声=藤村有弘)と海賊トラヒゲ(声=熊倉一雄)、たがいに一歩も引けを取らない、めげない負けない対向の絡みが絶妙。
 <ガバス>という島独自の通貨も気前がよかった。
 作者は『吉里吉里人』の作家、井上ひさし。蓬莱島が“ひょうたん島”のモデルといわれる。
 芥子粒ほどのこの小島のアカマツが、お堂や灯台の被害をよそに、のこった。
 きっと岩盤の隙間に強く根を張ったものだろうが、ぼくには、津波が思わず踏み越して行ってしまったような可笑しみが感じられる。
 葛飾北斎富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』の図みたいな大波頭が巻き起こったら…ひょっとしてそんな奇跡的なこともあるかも知れない…。


  進め(!)
  ひょっこりひょうたん島 ひょっこりひょうたん島 ひょっこりひょうたん島


 主題歌のはずむメロディー、励ましに口ずさみながらその日、隣りの山田町まで行ってみたが、ぼくの神経疲労はひどく重いものに感じられてきた。
 しっかり目に焼き付けるつもりの被災地風景も、三日つづくとフィルムがへたって切れそう…だった。


 岩手県被災地の救援・支援基地になっている遠野に、いったん迂回、春にも宿をお願いした早池峰〔はやちね〕山麓の民宿「わらべ」に転げこみ、倒れ込むようにして寝た。
 夢も見なかった。