どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

悲嘆と祈念の学び舎大川小学校/(20)11.3.11その年の夏【3】  −北上川の見えない河口から津波は襲いかかってきた−





◆8月4日 気のすすまないまま、避けることもできずに…


 北上川河畔の大川小学校へ向かう。
 国道45号が石巻の市街を離れて川を渡る。旧北上川。蛇行して石巻湾にそそいでいる。
 まもなく、また大きな流れに出逢う。北上川(追波川)。こちらは牡鹿半島金崋山を挟んで北の追波湾にそそぐ。
 飯野川橋から河口までは15キロ以上あって、夏の温気〔うんき〕に茫と霞んでいる。
 堤防上の道が、地震で揺り動かされたときのまま、うねってつづき、路肩には土嚢が積まれ、舗装のはぎとられたところも目立つ。
 いやでもスピードをゆるめ、おそるおそる行くしかない土埃のなかを、対向して自衛隊の車両がつづいて行く。
 ハンドル握る手が緊張する。

 
 いわゆる“平成の大合併”が各地で、多くの旅人を戸惑わせているが、ここもやはりそう。まだ、すでに過ぎてきたはずの石巻市内にいた。
 ここはかつての河北町。流れの向こう岸は北上町から志津川町だ。

 
 前方に鉄橋が見えてくる、新北上大橋だろう。石巻から女川町、南三陸国定公園の風光明媚な海岸線を経てきた国道398号が通っている。
 これから向かう大川小学校は、北上川の右岸(右岸・左岸は川の下流に向かっての見方)、大橋の右手すぐ斜め先にあるはずだった。


 いつのまにか、堤防内側の低い土地に浸水の跡が広がっている。まだ橋まで1キロ以上ある。ここまで水がきたのか……。
 信じられない気のするのが、吾ながらオカシイ。
 このたびの大津波の途方もない威力のほどは、常磐から仙台あたりの低平地でナットク、三陸海岸の狭隘な谷間谷間でもナットク、いやというほど思い知らされてきたはずなのに。
 この白日夢みたいな錯覚は、どうやら川幅の広さからくるようだった。
 ゆったりと懐ふかく、おおらかな流れに人はかくも心安く、抱かれやすいものだろうか……。

 
 通行止のつづく橋のたもとに、工事関係者と慰霊に訪れる人たちの車が混在する車溜りができていた。
 訊ねるまでもない、見知らぬ人が黙って指さす向こう、祭壇ごしに校舎の残骸が望まれる。


 一段低い校庭へと下りて行く前に、もういちど海の方を眺め見た、けれども、緩く弧を描く流れの先の河口はやはり望めなかった。
 学校は河口から約5キロ上にあった。


◆いまのうちに訪れて…見て…しっかりと感じておくこと

 
 この大川小学校が震災後、被害状況の明らかになっていくにしたがって注目を集めることになったのは、いたいけな犠牲が多かったこと。
 100名ちょっとの児童生徒に教職員もくわえて、そのうちの7割もの命が失われた。
 もうひとつには、避難の遅れと混乱があった。
 このことについては、すでにさまざまな角度と方面から意見・論議が喧しいくらいにあり、だからここではできるだけ冷静に、整理して観ておきたいと思う。


 すると、つきつめればやはり〈油断〉だろう。誰が…ではなく。
 世にあれこれはあっても、この国はおおむね太平で、人々は便利に慣れ、ぬるま湯に慣れてしまった。
 たとえ危ないことがあっても、なんの根拠もなしに(じぶんだけは大丈夫)と思いこもうとしてきた。
 災害研究(社会工学)の片田敏孝さん(群馬大学院教授)によれば、〈正常化の偏見〉といって「自分にとって都合の悪い情報を無視または過小評価したがる心理」だという。
 彼が防災教育の指導にあたった釜石市の、小中学生約3,000名が無事避難したことで評判になった。その極意、つきつめれば〈想定〉など抜きに〈とにかく逃げる〉ことだった。
 思うに、そのように集中した意識にあれば人は自然に〈助けあって〉もいける…極端な話その先には、ひじょうな行為とされる自己犠牲(つきつめた愛他行動)まで可能にしてしまうものがあるだろう。
 考えて考えて、しかしけっして考えすぎないこと、素直になること。
 逃げる…繰り返し逃げる…ことを訓練して身につける。
 それができなくなったとき、平和惚けのツケがこんなかたちで象徴的に出てしまった。


 だれも津波が「ここまでこようとは…」思ってもみなかったという。
 理由がある。その頃までの被害想定では、最大でも津波は海岸から遡って3キロ程度までとされていた。
 つまり想定では津波は来ないところ、だから避難所に指定されていた。
 現に地震の後、高齢者など近所の住民が集まってきていて、子どもたちだけ逃がせばいいという状況でもなかった。
 地震後すぐに駆けつけ「津波が来るっていってます」、わが子を連れ帰った親もあった。
 混乱するなかで点呼にも手間どったろう。
 くわえて、つよいリーダーシップがなかった。これが致命的だったかも知れない。


 破壊された校舎の前にも、祭壇がある。
 そこには、亡くなった児童の遺影・遺品や記念品、校門にあったものだろう陶器の校名表札、そしてなぜか風車、日の丸の旗…といった恐山でおなじみの飾りもの風景。
 どうしても、やっぱり、こうなってしまうのだろうか…“護符”と“呪(怨)符”の根は同じ…と想わせる形象の、救い難い哀切に胸を衝かれる。


 わずかな児童がやっとよじ登って助かった裏山の斜面は、高学年生徒には適等な探検場に見え、しかし(そうだあのときはまだ雪がのこっていたんだっけな…)滑って転んで懸命にもがいたろう姿が、瞼の裏のスクリーンに焼け付く。
 残った建物をとりまく縄張りに、関係者以外の立ち入りを禁ずる告知がある。
 もう、ここに校舎が再建されることはない。わが子を亡くした、多くの友だちを亡くした、だれもがそれを許さない。
 かたちはどうあれ、ここは《11.3.11》大震災の悲嘆を後世に伝える記念公園になるしかないのだろう。

 
 次代に生きる若者たちに、祭壇に手をあわせながらぼくは訴えたかった。
 ここに記念公園などできる前の、いまをぜひ見ておいてほしい。想定などできない底力の、自然とむきあう智慧の獲得をこそ〈祈念〉してほしい。
 できれば瓦礫のなかに一夜を…できなければ日没までの一日でもいい、あとは泣いて帰るだけでもいいから、被災地に行って感じておいてほしい。


 ぼくの後を追うかたちで訪れた吾が友、小学校の教師だった彼は、帰途(そのとき自分ならどうしたか…)を考えながら、泣き泣き夜半の道を走ってきたという)


◆その後日…2012年10月28日。大震災から1年7カ月。


 あの児童・教職員あわせて84名という多大な犠牲者をだしてしまった悲劇の舞台、大川小学校で…。
 亡くなった児童の遺族たちが独自に検証した報告書をまとめ、市教委に提出したとのこと。報告は「学校は子どもたちの命を守るべき組織としてはあまりにも未熟だった」と述べている。
 いまは声高にはいえないながら、異論・反論もあろうかと思う。
 けれど…あの大震災からすでに1年半余の時を経てなお、教育現場サイドからの検証報告はなく行政も黙して語ろうとしない。
 デキナイなにかがある…ことに問題の根の深さを想う。
 しかし膿んでしまった傷は、慟哭の激痛に耐えても膿を出してしまわないかぎり、癒えることはない…のを知るべきだ。