どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

 閑かな静かな飯舘村/(20)11.3.11その年の夏【1】  −裏口からコッソリ頼みの五感をすり抜け侵入する汚染−

*こんど二度目の被災地東北巡礼では、なるべく訪れたその日のうちに、頭であれこれ考える前のできるだけナマな感想を報告したい、望みがありました。しかし、やっぱりデキマセンでした。一日の疲労…というよりも現地の空気の重みに、ぼくの神経がモチマセンでした。メモをとることさえ億劫で、ボイスレコーダーに想いを吹き込むのがやっと。その気分は巡礼を終えてからも尾を引いて、記録をまとめはじめるまでに、気がつけばひと月以上も経っていました*





◆8月3日 こんどもカミさん同行…


 前回〈11.3.11〉から一ヶ月後、春4月の巡礼では福島県には立ち寄らなかった。
 根っから原発を認めないできたぼくが、わざわざ放射能汚染されに行く筋あいはあるまい…という想いだった。
 (この想いは、きっと多くのニッポン人に共通したものであったに相違ない、たとえ口には出さなくても…)


 けれどもその後に出逢った一冊の本、小出裕章さんの『原発のウソ』(扶桑社新書isbn:9784594064204、ぼくの考えを変えさせた。
 京都大学原子炉実験所助教の著者は、「平均的な放射線感受性を持つのは30歳くらいまで」で「50歳になると放射線によるがん死の可能性は劇的に低下」、「高齢になると被曝の影響を受けにくい」つまり鈍感になるのだから、「子ども(や妊婦)の被曝を減らす(20〜30歳代の大人に比べ赤ん坊の放射線感受性は4倍という)ため」にも「大人や高齢者が汚染された食品を積極的に引き受けよう」と提案する。
 “鈍感力”なんて意表をつく表現がいっとき話題になったりしたが、ぼくは「鈍感」のお墨付きなんぞ欲しくもない、けれど…。
 危険な原発を止めようと努力してきて止められなかった…という彼は、自分を含めた私たち大人にも「今日まで原発を容認してきた責任」、「だまされた人にはだまされた人なりの責任」があるし、もはや「食物の汚染は避けようがない」、「私たち日本人が福島や北関東の野菜を食べなければ地域の農業が崩壊」してしまうではないか、と指摘する。
 そして、「自分の命にかかわる基準を他人に決めてもらう今のやり方は、基本的に間違い」であり、「自分の被曝を容認するかしないかは、自分で決める」ことだし、そのためにも〈食品の汚染度表示〉が不可欠だという。


 つまり、たとえ〈原発NO!〉のぼくといえども、現実の放射能汚染から目を(あるいは口を)そむけていい理由にはならないというのだ。このパンチはキイタ。
 では小出さん自身の実際の生活ぶりはどうなのか、などと問うのは野暮というものだろう、その言葉にピンと感じてしまったからには、すでに自分の問題だ。
 ぼくはカミさんにも本を読んでもらい、よしワカッタということで、高齢夫婦だけのわが家では今後〈汚染度表示〉確認の上、福島産でも北関東産でも食べることにした。
 (ただし、その後の食品売場での汚染度表示状況はといえば、一部をのぞいてほとんどナシ…が現実だ)


◆汚れた東京湾の魚もボクは食べてきた


 汚染といえば、想いだすことがある。
 東京湾の水質悪化が話題になり、多摩川をはじめ流入河川の川面に洗剤が泡だち風に舞う…騒ぎになったのは、あれは世紀末1990年代のことだったろうか。
 誘われて東京湾の釣り舟にのったことがあった。
 魚食いのぼくに釣りの趣味はない。ダイビングには興味をもったが、食い気が先だつ動機の不純さを恥じてやめにしておいた。だから釣り舟もほんの遊び。
 乗り合いで、狙いはカレイだったが…。
 信じられないほどに、海の水は薄気味わるく濁って…はっきりいえば汚水そのもの。こんな海にも、魚が生きているのが不思議なくらいだった。こんなヒドい海にでも糸を垂れたい、釣り好きたちの気が知れない。
 しかし期待せずとも、呆れたことに釣れてしまう。ぼくの針にもやがて小型のがかかった。釣り上げるときの感覚はさすがに漁獲、身の緊まるものがある。
 そのとき、どういうつもりかたまたま同行してきた女の子が、眉をしかめてぼくに訊ねたのだ。
 「それ、まさか…食べるつもりなんですかぁ」


 彼女は長崎の五島列島の生まれ、自慢の海の輝きをぼくは知っていた。彼女の目に、これは海の水の色ではなかったろう。しかし。
 ……(ふむ)……(コトバにならなかった)
 酒好きのぼくは、水にも人一倍の注意をはらってきたつもりだった。水をたいせつに使い、なるべく汚さないように心がけてもきた。けれどもこの東京湾の汚れきった海の色は、そんな個人的な努力の虚しさを嘲笑っているようではないか。
 ぼくはまた、魚については目利きの自信があり、鮮度にもうるさかった。だからじつをいえば、汚泥の海の底から揚がってきたカレイにはまるで食欲をそそられなかった。
 にもかかわらず、彼女の若さゆえの無遠慮なものいいが、ぼくの考えを翻させた。
 午睡〔ひるね〕から不意に目覚めされられたような気分だった。


 どうしたか…もちろんぼくは、そのカレイを持ち帰って食べた。汚れた海の臭いはカレイの身肉にまで染みてはいなかったが、(魚体が小さかったこともあって)さすがに刺身で喰う気にはなれず、煮魚にした。煮汁には気のせいか微かなヘドロ臭が漂ったようにも思えた…。
 このときぼくは、ほとんど身内を貶されたように感じて心がふるえ、東京湾岸に住み暮らしてきた一人として水質汚濁はけっして他人ごとではない、この海から獲れる魚にも申しわけがない…喰おう、ときめたのだった。


 あの頃からくらべれば、いまの東京湾は生き返ったような…しかし、環境中の有害物質食物連鎖の頂点に濃縮される。ぼくの体内にはきっと、人の倍以上の海の澱〔おり〕が溜まっていることだろう。
 いうまでもないことだが、海面近くを泳ぐ浮き魚より、海底に暮らす底魚や貝類・甲殻類なんかのほうがずっと汚染されやすい。

 
 『原発のウソ』の著者は農産物に着目した、たいがいの人がおなじだろう。なによりいちばんに米の汚染が気にかかる。
 どれほどパン食嗜好が進もうと、米が喰えないとなったら、やっぱり日本人は精神的に参ってしまうにちがいない。


 けれども、大地とおなじく海にも“死の灰”はひとしく降りそそいでいる。空から降るばかりではない。原発の燃料棒を冷やすために流し込まれた莫大な量の水の、使い終えた排水、放射能汚染水も膨大な量が海に垂れ流されてしまっているのは疑いない。
 ごく初期に近海の小女子〔こうなご〕から放射能検出の報告があってから後は、すっかり沈黙してしまった感のある海の汚染状況報告、また政府筋によってだいじなデータが隠蔽されているのではないか…とかえって不気味だ。


 ぼくは覚悟したのだから汚染野菜も汚染魚も、〈鈍感に〉ではなく〈汚染度を知ったうえで〉食べていくのだが…それはそれとして…なお、どうにもナットクのいかない、許し難い気もちにかわりはない。なにが〈想定外〉か、というつよい憤りだ。
 まぁ口惜しいが冗談でしかないけれど、慇懃無礼に口先だけ謝ったふりして平然と開き直っている、あの東電の偉いサンたちの蛙の面…ならぬ食卓に“死の灰”の思いっきり濃いやつを振り撒いてやりたい…思い溢れんばかりなのだ。

 
◆いまは昼休み中なのだろうか…と想わせる、のどかな耕地


 飯舘村へは山側から入った。
 東北自動車道で行けば自然そうなるわけだし、爆発した福島原発を迂回して敢えて海側からのルートは、予想される検問が面倒だった。
 ぼくは検問がきらい(検札も同様)だ。まぁ、好きな人はあるまいと思っていたのだが、身近の男ばかりか女性のなかにも、検問好きがいたのには驚いた。好奇心がつよいのか、なにがあってどんな状況なのか訊いてみたくなるという。いろんな人がいるものだ。
 とにかくチェックしないと気がすまない、嵩にかかった態度は品性が卑しいし、検問の現場の立場を思うと一層やりきれない。彼らはたいがい詳しいことは知らされないまま、職務で命じられているだけなので、実りのないやりとりにしかならない。
 実際、ぼくがとった山側からのルートに検問らしきものは皆無だったが、後を追って続いた友だちの海側からのルートには「あったねぇ何回も」という。


 福島西インターで下り、相馬市を目指す国道115号から349・399号。
 道はいい。感心するくらいによかった。
 思えばいまの日本どこへいっても、ごくふつうに車で移動するかぎりは、ほとんど土の道に出逢うことはない。「ぬかるみ」なんか懐かしいくらいのものだ。かつてオフロードといえば砂利敷きの林道だったが、いまはその林道にさえ舗装が進んでいる。
 うっかりすると「こんなところまで」とびっくりするような奥地まで…いくらなんでも行き過ぎではないか。


 途中、月舘のあたりでは小学校の校庭で、放射能除染の重機が重たげな音をたてていた。削り取った表土はしかし、捨てようにも持って行き場がなく、校庭の隅に積み置かれたまま…なんともお粗末な笑えない“泥縄”噺ばかりだ。


 飯舘村は、里山より奥まった山里(山間)の風情。
   兎追いしあの山 小鮒釣りしかの川
 童謡『故郷〔ふるさと〕』そのままの情景が車窓に展開する。
   水はきよきふるさと 山はあおきふるさと
 口ずさんで、つい涙ぐむ。
 ……というのも、風景がやさしく少しも荒〔すさ〕んでいない、つまり耕地に手入れがゆきとどいているからだった。
 人の姿の見えないのがフシギなくらい、畑の作物には実りが見られる。つくづく日本の農民はスゴイと思う、芽生えた作物を放ったらかしにはできないのだった。
 人恋しさに誰かに一声かけたくなっても、相手がない…けれどもけっして無人ではない、陽はすでに午後の色と傾きだったが、まだ昼休みがつづいている…ふうなのだった。
 いちど小型の車が一台、しばらく後方に見え隠れしていたけれど、適当な車寄せの場を探すうちに見えなくなってしまった。
 道には、除草されないままに放置された夏草が這い出していた。
 「雑草はつよいな…」
 何気なくつぶやく、途端に、昭和天皇の言葉、
 「雑草という名の草はありません」
 を思い出して…ゴメンなさい。 
 

◆そこは〈日本で最も美しい村〉のはずだった…


 面積およそ230平方キロに、被災時の人口6,000余り。
 小中学校と高校はかろうじて分校がひとつ、産業は飯舘牛(黒毛和牛)の生産とトルコキキョウなどの花卉栽培が主なところで、あとは凍み餅・凍み大根…くらい、これといった観光資源も名物もないから、これまで全国的に知られることもなかった飯舘村


 「日本で最も美しい村」連合、というのがある。
 2005(平成17)年に北海道美瑛町の呼びかけではじまったローカルで緩やかな連合は、昨年(2010)秋にこの飯舘村も加盟して39市町村になったばかり(つい先ごろ台風災害に遭った奈良県十津川村も仲間)だ。
 このたびの震災では、飯舘村でも震度6弱を記録したというが、地震による被害はさほどではなかった。
 しかし、直線距離で約40キロ離れた(東京電力福島第一原子力発電所の事故で、深刻な影響を受けることになった。
 爆発から一ヶ月後になって、20キロ圏外(圏内は警戒区域)の5市町村(浪江町葛尾村飯舘村の全域、川俣町と南相馬市の一部)が年間積算放射線量20ミリシーベルトになる怖れのある「計画的避難区域」に指定されたのだが、なかでも距離ではいちばん離れた飯舘村に災いしたのは、風向きだった。
 風が運び雨が降らす“死の灰放射性物質は、事故後に多かった北西方向の風にのり、この村へ流れ、落ちて、溜まった。
 それも、すでに観測データで明らかだった事実を政府が隠蔽した結果、避難が遅れたというバカな話だ。


 ここだけは、通りが町場のように整備された村役場のある一画。
 人影のない道には塵〔ちり〕もない。
 ガラス扉に「全面移転」を知らせる貼り紙のある役場前庭には、放射線量計が孤独な赤い灯をともしていた。だれのためか…。
 人の姿はない駐車スペースに、古くはないタイヤの跡がある。なんのためか…。
 もちろんこれは〈神隠し〉でもなんでもないので、役場業務は福島市役所飯野支所に引っ越したとはいっても、完全に村が無人になったわけではない。
 必要に応じて役場職員ほかの行き来があるばかりでなく、やむをえず残留を認められた事業所がいくつかある。村民のなかにも避難せずにのこった人が200人くらいはいるだろう…といわれている。
 そうだろう、あの畑作物の実りを見れば、居残りかどこぞの避難先から出張ってきたかは別として、ちゃんと人手がかかっている。


 飯舘村にかぎらず、避難暮らしをしいられている原発周辺の住民のあいだには「いつになったら家に帰れるのか…」焦燥の声が高い。
 ぼくは(できることなら帰らないでほしい)と思うが、いっぽうでこれは前述の(汚染された作物を放射能に鈍感になった年寄りが引き受けて食べよう)とする精神と、とどのつまりはおなじことか…とも思いなおす。
 若い世代には親子ともども新天地へ行ってもらい、自分たちは故郷にのころう…というのは、つらいが許されるべきだろう。
 現に、自主的にそうした人も少なくない。

 
 国家とは、なにか。
 民主とは、なにか。
 また、この問いに突きあたる。
 もったいぶるばかりで、誰も責任をとろうとはしない、狡賢い行政のツケだけが民についてまわる。
 怒阿呆奴が……。