どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

 大津波から一ヶ月後の被災地【3】大槌町から大船渡・陸前高田・気仙沼  −まだまだ福島県には立ち寄れない−



 
◆喉がヒリヒリするほどの瓦礫臭と情けなく曲げひしゃげられたレール


 このあと、ぼくたちは大槌町から南へ、大船渡陸前高田気仙沼の被災各地を巡ったのだが、仔細はちがっても〈潮炒り煮〉模様にちがいはなかった。


 情けなく見たもうひとつの風景は、鉄道の線路。
 グニャリと曲がった鉄筋鉄骨は被災地にいくらでも転がっていたが、あれほど頼りにされてきた鉄路の不様さ、あまりにも無惨にすぎる。
 どうしても、あまりにも融通のきかない頑固者の醜態を曝すがまま…に見えてしまうのだ。
 鉄道好きには堪らない…けれども、これも鉄道の真実の姿と思うしかない。所詮は人工の産物にすぎない。ぼくらがレールに抱いてきた信頼感は一面、ほとんど牧歌的なまでに情緒的なものだったことになる。


◆カッコつけて誤魔化すのはもうよそうぜ


 〈復興計画〉の夢が語られる。
 それはいいけれど、しっかりした認識が根底にあってほしい。
 もう海辺に住むのはやめよう、という。住宅は高台に団地を建設、職場の海辺へ通えばいい…と。
 なるほど、それは望ましいことだが、山が海に迫る狭隘なこの国では、それができるところは限られる。
 耕して高くに至るキツさ苦しさが、水難の危険を覚悟で低平な水辺を求めるにいたった歴史は、理解できる。
 しかし、限度はある。過去から未来へ、人と自然との陣取り合戦は続くとして、人智は進歩していくとして、それでも「ここまでだな」という限界はあるだろう。限界を越えては、自然に取り返され、いつかまたそれを忘れて限界を越え、やっぱりまたいつか取り返される…。これまでの愚は、まぁ(バカだったな)ですまされてもいいかもしれないが、もうこれから先は「それだけはナシ」だろう。欲張りは、ほっておけば際限がなくなる。これまでが、まさにそれだった。無理を押して、領分を広げすぎてきた。
 いま必要な知恵は、限界をわきまえて「引くべきところは潔く引く」ことであるはずだ。そのためには、廃される集落も数あることになるだろう。
 それでも限界はある、どうしたって限度はある。認めるべきは、やっぱり認めるしかないのだから。
 行政の(サービスと考えるのではなく)責任範囲にもおのずと限度がある。その無理を敢えて押し通し、膨張を続けてきたのがこれまでだった。それも、もうやめなければいけない。
 「ここが、いいんだ(ここで死ぬ)」
 冗談でなしに、そう思いきわめている人、膨張限界の最尖端に独り頑張り棲む人を…さてどうするか、難しいところだが、それだって結局は時が解決してくれることになるだろう。


 日本には仏教の渡来以前から、畏敬する自然を相手にわるく足掻くことはしない、どうにもならないことなら(死ぬもまたよし)という、澄明としかいいようのないつきつめた末の覚悟、観念があった。
 諦観。あきらかにみること、本質をはっきり見極めること。
 そこから「あきらめ悟る」意味あいにもなったので、ただ諦めて放り出すのとはちがう。
 だが、ほんとうにこの心境に達した人なら、もう一般人とはいえない、出家であろう。出家に一般人のような便利生活はなく、それでよい、つまり行政の責任範囲を超える。


 翻って一般庶人の安全・安心にも、おのずと限度があること、いうまでもない。
 すると、けっしてそのすべてが他から与えられるものではなく、みずから心得て身を処すこともなくてはならないのは、あたりまえじゃないか。
 行政もまた、衆の人気とりに(あとで高くつく)安易なサービスなんぞを揚言すべきじゃない。
 できない相談の、日本地図がすっかり変わってしまうような沿岸大改造をやって、この国の、各地方自治体の、財政が保つものか。
 経済の専門家には、この先のありよう、あるべき経済(資本主義に将来はあるのか…)の、進路と形態を示してほしい。


 医療の世界に、患者側から「過重な延命治療は望みません」と申し出る方法ができてきたように、棲処〔すみか〕の安全についても「救命救助のまにあわないこともあるのを承知します」というくらいのことがなくて、何処にも彼処にも等しく居住権が認められるわけもない。
 いちおう安全の見こめるところ住みたい人と、ちょっとその則の外に住みたい人…最終的にはそれぞれの意思表示と選択の問題ではないか。
 とうぜんリスクをともなう選択には条件がつくことになる。避難路の整備など基本の防災設備はしたうえで、これを駆け上がる定期的な〈体力テスト〉の義務付けなどすれば、日ごろの健康にもよかろう。
 もちろん〈意気がり〉や〈強がり〉など通用しない、限界(無理)が明らかになった人は高台へリタイアする。


原子力について想ったことなど…


 このたび、原発事故の福島県にだけは寄らなかった。
 しかるべき職や立場にあれば行ったろうけれども。また、たとえ行きたくても道路封鎖や検問だらけでストップされたろうけれども…。
 ぼくは、原爆に被爆することになったあの戦争から戦後をずっと生きてきて、たとえ平和利用といえども原子力を容認したことはない。
 だから、封印しそこねた愚行の果ての悲劇に、正直すすんで巻き込まれるいわれはない、とも思う。


 そもそも、電気屋東京電力)が電源を喪失して、どうする。それがすべてだったじゃないか。
 「想定外」ですむことか。それだけでも、恥死(その恥じ万死)に値しよう。
 しかも彼らは、知識も充分とはいいがたい運用者にすぎないのに、「絶対に安全」と言い放ちつづけてきた。
 賢い者は軽々に「絶対」など口にしない。そんなものはナイと知っているから…。
 (ぼくにも覚えがある…)自信のないときほど〈絶対〉といいたくなる。裏で姑息な手段も考える。
 電力会社はこぞって「公共の利便」を強調する、けれども実際には商売商売とばかりに「オール電化」の大宣伝しかけて、庶民に電気の大量消費を呼びかけてきたではないか。


 研究費プラス余禄ほしさに目が眩んだ学者や専門家たちも、いいかげんに恥を知るがいい。
 放射能の人体への影響にしてからが、安全といえるレベルなどないのがホントだろう。
 「ただちに人体に影響をおよぼす数値ではない」なんてのは、じつは「即死するほどではない」だけのことだろう。
 風評…じゃないでしょう、ちゃんとハッキリすべきことを有耶無耶にするから、風評になってしまうんじゃないか。
 じつは原子力の専門家たちにだって、断言できるほどのデータも知見もまだありゃしない。
 未熟だから謙虚にもなれないだけだ。


 そんなものを〈いじくった〉結果まねいてしまった惨事なのだから。
 東京電力は潔く「よくできました」といわれるくらい、みごとな賠償・補償をしてみせる。そのためには財産のすべてをはきだして、すべて借財から立ち直る。
 「原子力発電は国策ではないか」というなら、国と堂々と本音でやりあったらよかろう。が……。
 許されないのは、節電もその他の負担もみんな民に負わせてしまおうなどという、虫のいい厚顔無恥な算段だろう。
 きれいに清算、そのうえで〈たかが電力されど電力〉をどうするか、みんなで考えようじゃないか。


 ざんねんながら福島県では、どれほど〈復帰〉を叫んでも、いくつかの町村がいずれ廃れることになるのだろう。
 こんどの原発事故は…多くの人には余所ごとながら…それほどズタズタのことだった。


◆それから…その後…


 大槌高校からは、後で校長先生から丁寧な礼状が届いた。
 始業式でも入学式でも、井上ひさし一世風靡の人気人形劇『ひょっこりひょうたん島』のテーマソングを、皆で声高々と歌ったという。


   だけど、ぼくらはくじけない、泣くのはいやだ、笑っちゃおぅ…


 でも、生徒さんたちからの便りは、ついにない。
 校長先生はやっぱり〈個人情報の保護〉を考え、ぼくらのメッセージは伝えてくれなかったのだろうか。
 まぁ、ふつうならそうする、のかも知れないが。(どうして…)の想い、拭いきれない。
 気もちのやりとりは、むずかしい。
 また別の方法を考えて、巡礼に、すきま支援に、行こうと思う。