どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

 五山送り火と呼びかける声【4】  −イチ、イチ、サン、イチ、イチ、ニィ、ヨン、ロク−





◆原爆のはじけた空は熟れすぎた柿色


 父は、毎晩のように本を読み聞かせてくれる人だった。
 蚊帳の外に地虫の声を聞きながら、アラビアンナイトガリバー、宝島などの物語、綯い交ぜになって、夢うつつ。
 そのうちに……
 「熟しすぎた柿色の空」
 ぼくは、まるで原爆を見たようなことをいって、みんなから怪しまれることになった。


 「原爆忘れまじ」という声高なスローガンが(たしか唄も…)あって、ぼくは冷めた耳で聞いていた。
 銘記せよ、忘れるな…という。
 だけど人は、忘れることができるから生きていける、時の重みに耐えてもいける。一枚一枚うす紙をはがすように忘れていけることが、癒しというものだ。
 (けっして忘れない)という想いは、そんな心に鋭い切っ先の襞を刻み込むことにちがいない。けっして幸せなことではないだろう。
 ぼくは(忘れてしまいたい)と思うようになったじぶんの誕生日を、(忘れさせてほしい)と願うようになった。
 「気にするな」と他人〔ひと〕はいうのだ、「たいしたことじゃないさ」と。
 よしてくれ。

 
 わかってる。
 もっともっとたいへんな苦難、辛酸に耐えた人たちが戦中にどれだけあったか、どれほどの血涙がしぼられたことか。
 それらから比べたら、ぼくの誕生にまつわる想いなど些細なこと……か。
 なるほど(戦争を知らないぼくには)語り部たる経験も資格もない。
 わずかに、戦後すぐ食糧難の家庭の卓袱台〔ちゃぶだい〕の記憶が、鍋底の焦げみたいにこびりついているばかりだ。
 鍋の中はほとんど毎日、芋がらやなんぞの炊き込み増量飯や水っ気たぷたぷの雑炊だった。
 (飢えるというのは…これも食えなくなることなんだ)
 疼く痛みに感じたにすぎないけれど……。
 めぐりあわせとはいえ「忘れるな」なんて、他人からいわれたくはない。
 たとえ一断片〔ひとかけら〕にしても、どんなにちっぽけだろうと、真実はあるゾ。
 (忘れたい、忘れさせてほしい)
 でも……わかってる。
 忘れたいことほど、忘れられはしない。


◆左大文字がきちんと筆順に燃えていった


 五山送り火も終盤の〈左大文字〉。
 最初の、如意ヶ嶽に燃えた〈大文字〉の炎は一斉点火だったが、こちら大文字山の〈左大文字〉は筆順にしたがって燃えていった。
 「これが一番やな」
 なるほど余韻があっていい送り火だった。
 しめくくりを曼荼羅山の〈鳥居形〉が飾って終えた。


 終えてなおしばらく、ぼくはボッとしていた。
 ぼくのこの日の誕生日、(忘れたい)と思いつづけた65年を想った。

 
 忘れるための逆療法に“戦後生まれ第一号”を名乗ることを思いついたのは、あれは小学校の高学年あたりだったろうか。
 「うん、お前そういって威張ってた」
 (生意気だったのだ、その頃から…)
 小学校からの友だちの記憶にも違いはなかった。
 けれども…思いどおりにはならなかった。


 旅人になった。
 呼びかけられても、ボッとしても、旅。
 ボッとするには、だれにも知られない旅先がよかった。
 国破れて山河あり、というのも旅に出てはじめて知った。
 京浜工業地帯のがさつな町場には瓦礫の焼け跡、探検に昂奮はしても癒しはなかった。
 ぼくには故郷がない…と痛切に想った。


◆だれが「過ちを繰り返さない」というの

 
 沖縄に、夏、旅した。
 摩文仁〔まぶに〕の丘では、たくさんの戦争記念碑にあえて背を向け、南の海をボッと見つめてきた。
 広島にも、夏、旅した。
 原爆ドームがサムかった。
 平和祈念公園の慰霊碑に刻まれた「過ちは繰返しませんから」、「安らかに眠ってください」とはずいぶん哀しい約束だ。
 はじめ「過ち…」というのは、原爆を投下したアメリカがアヤマッテいるのかと想った、少なくとも〈人類総意の誓い〉だろう…と。
 チガウようだった。「戦争をしたこと」が「過ち…」のすべて、ということらしい。それもチガウ気がした。
 長崎にも、やはり夏、旅した。
 けれども、しかるべき祈りの場所にはついに足を向けられず、そこら近辺を歩きまわった揚句、逃げるように帰ってきた。


 どこにいても想うのは、
 「ってなんだ……ぼくってなんだ……」
 人を死地においやる権力って、なんなんだ。
 戦争は終になくならないだろう。
 人が人として生きるかぎり、差別もなくならないだろう。
 “死の灰”“黒い雨”にも、人はいずれ鈍感になるだろう。
 いま(ご覧のとおり…)だ。


 ボッとする頭を叩き叩き(もう少し働いてくれんか…)考えしぼって、みずからを〈在日ニッポン人二世〉と定義することに辿りついた。
 いちおうの居どころにはなったが、仮住まい(仮設)の感じは拭えなかった。
 やっぱり哀しいものがあった。
 いきつくところは〈おてだま〉か〈おはじき〉遊びの、
 「お〜さぁらい」
 らしかった……。


◆ゆっさゆっさと揺れた大地がぼくを旅立たせた
 

 ぼくの、あれほど忘れてしまいたかった〈誕生日〉は、京都五山送り火のあと不思議に軽い桎梏になった。
 呼びかける声はあいかわらずだったが、手術はぶじに終えた感があった
 しつこく傷をなぞるのは(やめよう)と思った。
 銀河鉄道の車両はずいぶん連結が長かったから、まだ目の端に遠くカタコトついてきてはいたのだけれども。
 車輪のリズムに気がかりはなかったのだ、あの日までは…。


 2011年3月111日2時46分。
 (イチ、イチ、サン、イチ、イチ、ニィ、ヨン、ロク)
 あの激震に、なにもかもが掻き消えた。


 ぼくにとっては強迫観念クリアの刻でもあった。
 「あっ」と立ちかけ、踏ん張った姿勢のまま壁に手をつき、かみさんと見合わせた顔がひきつっているのがわかった。
 口から漏れたのは「きたな…」だった。
 ワンボックスの愛車が、いまにも走りだしそうにタイヤを弾ませ揺れ動いていた。
 被災地巡礼の旅がはじまる…と思った。
 それから、もろもろのことは、いまは措く。
 戦争は…いつも鳴りを潜めるにすぎず。
 終戦は…いつも休止譜にすぎず。
 戦後は…いつも解釈にすぎず。


 確かなのは、大津波ひき連れた巨大地震によって、ふっと跡形もなく消し飛んだものがあったこと。
 それは、数多の〈愚痴蒙昧〉というものではなかったろうか。
 ぼくの〈積年の怨讐〉も、ついでにどこかへ消し飛んでいた…。