どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

 五山送り火と呼びかける声【2】  −“戦後”の呪縛でボクの脳膜散漫だぁ−





◆どこか遠くから、どことも知れない合わせ鏡の奥の奥から…


 これから、思い出すままにいくつかのことは、記憶の中身は明瞭なくせに、ことの前後がはっきりしない。

 
 いつの頃からか…ぼくは、なにかに呼びかけられる声を聞くようになった。シーンとした、ジーンともした、聞き分けはできないけれども音ではなくて声だった。 
 なんだろう、なにかしら懸命な呼びかけに感じられた。
 しかもそれは、どうやらぼくにだけ…らしかった。ほかには誰も気づかないようだし、ぼくにはそれをうまく説明できなかったし、じぶんでも独りぽっちで淋しすぎるし薄気味わるいことでもあったりしたので、黙っているしかなかった。
 呼ばれて振り返っても、相手が知れない。へんだな。それに、聞いたのもどうやら自分だけ…。おかしいな。
 しかも、どこか遠くからのその呼びかけは時をえらばない、というふうだった。


 合わせ鏡を覗きこんだときの<果てしない眩暈〔めまい〕>に似ていた。終わりのない怖い夢の怖さとはべつの、息といっしょに魂も吸いとられていくような<とりもどせない安息>の魅惑があった。
 鏡の部屋の怖さも、鏡の中に入ってしまえば消えてなくなるように…。


 そのせいで(だと思う)ぼくは、薄ぼんやりすることがあった。
 そのせいかどうか、おねしょ(寝小便)の癖が小学校に入ってからもしばらく抜けなかった。
 あるいは、まったく別の原因があったのかも知れないけれど。
 ぼくはひとつのことに気(神経)をとられると、ほかがおろそかになってしまうのが原因の、いってみればぼんやりオネショだったのでないかと思う。
 寝小便“世界地図”の広がる蒲団を、物干しに曝されるのが恥ずかしかった。

 
 友だちと遊んでいるときに、声に呼ばれたこともある。
 「なにか聞こえなかった?」隣りの子に尋ねてみたけれど、「うぅん」首を横に振られ、「だいじょうぶ?」心配そうに覗きこまれてからは、確かめることもできなくなった。
 ずっと、孤りで呼ばれていた…。


◆三角ベース草野球と復員・引き揚げ

 
 焼け跡空き地の広っ場では、そのころ「三角ベース」と呼ぶ簡単な〈これぞ草野球〉が盛んだった。
 二塁ベースはなし、一塁線と三塁線を内側に狭め、小人数でできて安直、にもかかわらず迫力は子ども心にコワイくらいあった。
 バットがわりの竹の棒で軟らかいゴムマリを思いっきりひっぱたくと、円盤みたいに楕円にひしゃげギュンとカーブしながら素っ飛んでいった。
 その空き地のガキ大将の、お兄ちゃんにいわれたのだ。
 「お前んとこは、(父ちゃんが)戦争に行かなかったから…な」
 そういえば、ぼくらと次の学年は、生徒の数が少なかった。
 “団塊の世代”と呼ばれる大人数は、その翌年からのことになる。
 責められたわけじゃない、仲間はずれにされるようなこともなかったけれども、なんとなく気マズイ感じだった。
 「ヒコクミン(非国民)」という言葉と意味を、ぼくは知っていた。

 
 ラジオをよく聞いた。テレビはまだない。
 娯楽番組では、花菱アチャコ浪花千栄子に人気があった。児童むけドラマだと『鐘の鳴る丘』http://www.youtube.com/watch?v=j6DczqtMTMwとか…。
 でも家ではもっぱら、ニュースに聞き耳をたてていた。
 なかでも印象深く聞いたのが〈ひきあげ船〉出迎えの実況放送。
 港は舞鶴、船は興安丸。悲喜こもごもの関係者たちの声もだが、バックに流れたテーマ音楽が忘れられない。
 タ、タ、タン、タ、タ、タン、タ、タ、タ、タ、タン、タン……曲名は『モンテンルパの丘』ではなかったか。
 NHKに問い合わせてみると、番組名は『復員だより』ではないかということだったが、古いことで記録がのこっておらず、ほかはわからないという。
 この引揚船の実況放送だけはどういうわけか、ほとんどかかさずに聞いていたような気がする。
 叔父さん(母の弟)が、ビルマの戦地(東南アジア=東亜)に征っていたせいかもしれない。
 (近所には満州の戦地にいた人もおり、戦場はけっして太平洋のみではなかった…だからアノ戦争は“太平洋戦争”というより“大東亜戦争”のほうが実情に適っていた)


 その叔父さんは、右手の薬指を敵の銃弾で失って還ったが、意気軒昂な人だった。
 熱々の飯にチーズをのせて喰う、異国風の味わいを教えてくれた。バターライスみたいなものだった。
 この人の明るさにくらべると、まわりには、もったいぶって屈折した人たちが多かった。
 「米の飯も満足に喰えない者が、たらふく肉喰ってる者に敵うわけないさ。しかもさ飯は腕力にゃならんで、子種になるばっかりだってのにな。勝てる見込みもない戦争に、貧乏人の尻ひっぱたいて突っ走った軍部がわるい」
 その結果者として(因果者の見世物みたいに)ぼくがいるようで、いやだった、反感を覚えた。

 
 ぼくの誕生日の、ふつうとはチガウらしいことは、周りから意識させられたようなものだった。
 親戚の人たちには、よけいな気をつかわせてしまったようだ。皆まじめな人たちだから、さりげなく振る舞おうとするわざとらしさが、ぼくにはやりきれなかった。
 いっぽうで他所の人の、ぼくの誕生日を知ったときの顔には、一瞬つまってから複雑な笑みがひろがり、祝いのことばが遅れてでてくる…というふうだった。
 どっちにしても、ふつうじゃない。


玉音放送がきっかけの陣痛だった…


 母親に、そのことを尋ねるのは、イケナイ気もした。
 もの心ついて、子どもなりにあれこれ悩んだ末に、小学校の入学前だったと思う、母さんが縫い物をしてる脇に座り込み、
 「ぼくが、生まれたとき…さぁ」
 思いきって、きいてみた。
 「おおきなお腹かかえて、ただでさえ楽じゃない防空壕に、もぐりこむのがたいへんでね」
 母は坦々と話した。
 いつかくるだろうことは、きっと予期していたのだと思う。
 「あの日(終戦の8月15日)も、暑い日でね……。ラジオの玉音放送昭和天皇終戦宣言)が聞きとりにくくて、それでも、あぁ…負けたんだなぁ…って、なんとなくわかって。そしたら、きゅうにきたの(陣痛が)……」
 そういって立つと、箪笥から桐の小箱をだしてきて見せた。
 ぼくの名と、生年月日が記された<臍〔へそ〕の緒>。
 日付がかわって翌くる日、暁闇に産まれたのだという。
 聞いて…内心ホッとしたような、やっぱりやめておけばよかったような、妙に複雑な気分だった。

 
 中学生になって、最初のホームルームのときに担任の教師がいった。
 「きみの名前なんかも、戦後の典型だな」
 「忠克」という、名付けは明治生まれの祖父。字解は〈忠義を守り克服せよ〉だという。敗戦の重みズシリと応えた。
 「去年までの戦中派には、〈勝利〔かつとし〕〉なんてのが多かったんだ」
 担任はおかまいなしに披露した。


◆ノウマクサンマンダァ…お不動さんの真言


 送り火は〈大文字〉から〈妙法〉へ。
 ただ、この屋上からは〈妙〉の火は見えず〈法〉もちんまり遠かった。
 人だかりがざわざわして、西の張り出しの方へと移りはじめる。
 〈船形〉はかたちも祭のよう、火色もうきたつよう…だが、気分はいかんせん、法事にもかかわらず、いくぶんダレてくる。


 ここはやはり、声に艶と張りのある坊さんの読経、朗々とあるべきところではなかろうか…と思ったら…
 「のーまくさんまんだぁ」
 ひとりでに呟きがもれていた。
 大日如来の化身ともいわれる不動明王真言(呪文)、冒頭の一節だった。
 無限救済の仏さま世界で、それにしても箸にも棒にもかからん度し難き衆生ども奴〔め〕が…とお怒りごもっともの、お不動さんという有様〔ありよう〕に、ぼくには親近の情があった。ついでに八月生まれの守護仏ともいわれる。
 それよりなにより、ぼくにはその真言、自分の頭のボッとしたのに似通わせ、
 「脳膜散漫だぁ」
 と詠みとばすのがひとりおかしくて、いつのまにか覚えてしまっていたのだった…。