どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ぼくたちはナニを〈積み重ね〉てきた…か!?

-No.2243-
★2019年11月12日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 3169日
★ オリンピックTOKYOまで →  255日
★旧暦10月16日、満月
(月齢15.3、月出16:42、月没05:28)






◆ストック(蓄積)とフロー(流動性

 ストック(stock)は、「蓄え、(知識などの)蓄積」。

 その原義が「木の幹、切り株」というところに〝深み〟を感じますし、「容器〔うつわ〕の大きさ」といわれたときのヴォリュームたっぷりを想わされもします。

 ぼくは、また、「スープストック(肉・魚・野菜などからとった出汁)」というものに、人の食味の豊饒を感謝する者です。

 そこで、さて
 ハナシは、はたしてこの、人の世の「ストック(蓄積)」や如何に…ということ。
 ぼくが、この秋の天高い青空を仰いで想ったことから、始まります。

  ……………

「東京一極集中」とか「東京ひとり勝ち」とか、が指摘され、さらには指弾され、あるいは非難されようと…なんの…この滔々たる流れに逆らえるモノはない、ようです。

 だまっていても、人が集まり、金が集まり、仕事が集まってしまう。
 高齢少子化社会になって人口減少が進むなか、東京都を軸にした首都圏だけに動態人口が増加しています。

 いくら「地方創生」とか「地方の時代」が呼びかけられても、現実には、さほどの動きも変化も見られません。
 いまの、(とくに)この国の政治に、こんな状況を〈根本的にあらためようとする〉気がない、のもタシカ…ですが。
 どうも、これは、政治の舵とりの問題ではすまない、らしいことにも、気づいてしまうのです。

 ぼくには、もうずいぶん前からずっと、「資本主義」に未来はないのではないか…疑念が巣喰っていて。
 しかし、いくら好奇心旺盛なボクでも、とても経済までは手がまわらない…ニガ手というやつ。

 それでも、少しばかり、あれこれの本を手にとってみると、資本主義の将来は「明るくない」、あるいは「いずれ終焉を迎えざるをえない」と考える人は、けっして少なくないことが知れます。
 けれども、かといって「次代の地球経済を担うのはコレだ」という、明確なモノもいまはまだ、どうも、つかみきれない、といったところのようです。

 資本主義が、根本的に人の、生物としてあるがままの幸福追求を第一義にしたものではない、のは。
 すべてが、市場経済にゆだねられてしまっているからですし……
 
 それ(市場経済)はつまり、流通(流動性=フロー)に価値の源泉をもとめる経済だからです。
 そこでは、人間的なものは一切が排除されてしまう。
 そこでは、「ストック(蓄積)」など無意味でしかありません。
 人間が営む経済でありながら、〈人間性に対しては非情〉という、矛盾を承知のうえで成り立っているわけです。

 その資本主義社会も、ひとつ大きな栄華の時代〔とき〕を経て、急な曲がり角にさしかかった…というより、ほとんど浮沈の境に立たされた、感があるのは。
 人が皆、薄々ながら〈市場経済の非情〉、〈人の幸福や社会の成熟とは相容れない〉ことに気がつきはじめたから、ではないでしょうか。

 このへんの事情については、哲学者・内山節さんの指摘がワカリやすい。
 内山さんは「資本主義とともに生まれた経済学は、大きな誤りを犯しているのではないだろうか。その理由は、価値の基準を市場に求めたことにある」と言います。
「その結果、豊かさは消費の拡大によって実現すると、考える時代がつくられてしまった」と。 
 

◆「フロー(流動性)」の時代は「高度経済成長」の頃から

 あれは……
 1954年(昭和29)12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)まで、約19年間のことでした。
 この間に「神武景気」、「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造景気」などと呼ばれる好景気が、立てつづけに発生。

 日本の国から、〝敗戦〟の影が(表面上は)どんどん薄れてゆき、西欧先進諸国に追い着け、追い越せと、活気に満ちた時代。
 ちょうど、ボクが9歳から28歳までの幼・小・青年期にあたり、だから、否応もなく、骨身に沁みてその変化をよ~く覚えています。

「もったいない」なんて美徳は、古くさいものとして遠ざけられて、キホン「使い捨て」が新たな美徳になりました。
 (そんな時代の反省として「もったいない」が復活するのは、およそ半世紀後のことになります)

 たとえば住宅でいえば、伝統の木造日本建築が片隅に追いやられ、住宅メーカーが大量生産する、和洋折衷の〝文化住宅〟に席巻されていきました。

 ぼくは、この「高度経済成長」時代の最末期、当時の国鉄「最長片道切符」の旅をして、2ヶ月という短期間に、全国の住宅事情を知るというチャンスに恵まれたので、いまだに記憶に新しい。

 日本列島の都市といわず、辺鄙な田舎の町や村からもさえ、それぞれの土地それぞれの成り立ちを物語る、歴史に裏付けられた独特の、特徴ある地方色というものが消えていった……のでした。

 内山さんの指摘する「ストック(蓄積)」とは、まさに人の歴史によって生み出されるもの。
 
 〇自然(の営み)が、まず、この社会をささえる最大のストックだし。
 〇この自然にはたらきかける人の営みも、なかなかのストック。
 〇さまざまなモノづくり、農・工・商の技も、したたかなストック。
 〇マスコミや出版、映像など、文化のストックもかかせない。
  じつに、さまざまな蓄積によって社会の基盤はささえられてきました。

 ところが、市場経済にストック(蓄積)は要らない。
 取引されることにのみ価値を見いだすのが、フロー(流動性)の市場経済
 そこでは、上記の蓄積されてきたストックもすべて、商品価値(たとえば〝観光資源〟になるとかの…)で判断されることになります。

 〈技〉だろうと〈文化〉だろうと、売れなければ価値がない、利益にならなければ〝退場〟を命じられるほかありません。

◆庶民がストック(蓄積)の価値に目覚めはじめた

 そんなフロー(流動性)の市場経済にも、ちかごろ翳りが見えてきました。
 これは、まちがいなく地球規模で、かぎりなく拡大をつづける生産&消費の時代は、終焉を迎えつつあるからにチガイありません。

 いつまでも、右肩上がりでありつづけることで成り立つ〈豊かさ〉の市場経済は、人口も市場も減少する時代になれば、結果〈社会を壊すだけ〉のものになるしかない……というわけです。

「そこに気づいた」のか、どうか。
 人々も、(少なくともこのままがイイとは思えなく)なってきました。

 つまり、ほんとうの豊かさとは、もっと親身な、カネで買えるような(フロー=市場経済的な)ものではなく、じつは、これまでに蓄積(ストック)されてきたナニかだったのダ、ということがワカッテきた。そいうことだと思います。

 それは、コミュニティー(地域社会)であったり、家族や友人関係によってもたらされる幸せ感であったり、豊かな自然や奥深いもののある文化であったり、自由で差別のない社会であったり。
 それが、なにより確かな、「フロー(流動性)な市場経済への反省」として芽生えた、といっていいでしょう。
 
 内田さんは、言います。
「これからは蓄積されたものに価値を見いだし、その価値を多くの人々が共有していける社会をつくらなければいけないのだろう。経済学もフローの経済学からストックの経済学へと転換させなければならない」と。

 ぼくは、経済学者さんたちには、なお、資本主義にかわる新たな〝道〟の発見につとめてもらいたい想いがつよいのです…が。
 そのためにも、内田さんが指摘するような「社会的な気づき」が不可欠なのだろう…と思っています。

  ……………
 
 こころあるアナタには、ストック(スープストックや災害食ローリングストックだけじゃなしに…)こころがけてほしい…人間性のストック(蓄積)です。