どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ソフィア「オリ・パラプロジェクト」① / 半世紀ぶりの出身校…上智大学キャンパスに赴く[前半]

-No.2140-
★2018年08月01日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 3066日
★ オリンピックTOKYOまで →  358日
★旧暦7月1日、新月
(月齢0.4、月出04:30、月没19:01)


※先月の28日(日)は、72侯の「土潤溽暑(土が湿って蒸し暑くなる頃)」だった。実感する季節はすでにその先を行っている。新暦ではいよいよ猛暑の8月がスタートする。










◆半世紀ぶりの出身校…キャンパスへ

 来年、2020東京オリンピックパラリンピック開催が、いよいよ1年後に迫って、関連行事の開催も熱をおびてくるなか。
 前回1964年の東京パラリンピックを記録映像で振り返り、来年の開催に活かそうという主旨のイベントが、「上智大学 ソフィア オリンピック・パラリンピック プロジェクト(SOPP)」の主催で、7月13日・19日の2日にわたり、上智大学四谷キャンパスで開かれ。
 ぼくは、ネットで参加に応募、かみさんと2人で行ってきた。

 ぼくは、上智大学(文学部新聞学科)の卒業生であった。
 1965~69年(昭和40~44)に在学、この春には、卒業半世紀(50年)の記念式に招かれてもいる(ただし出席は見おくった)。
 卒業後はじめて訪れたキャンパスには、とうぜんのことながら、〈むかし〉の面影はごくかぎられた範囲にしかのこっていなかった。けれども

 なぜ、そんな気になったか…といえば。
 ことのおこりは昨年末の新聞記事(東京新聞18年12月7日)、「東京パラリンピックへの道⑩「上智大学の学生プロジェクト」。

 そこには、韓国・平昌〔ピョンチャン〕冬季パラリンピック(18年3月)を訪れて見聞を広め、これを機にたちあげた学生プロジェクト「Go Beyond」で、キャンパス内をまきこんでのイベントを重ねながら、〈共生社会〉を目指す活動をくりひろげる、若者たちの話しがとりあげられていた。

 (いい)と思った。
 若いということは、とりあえず、それだけでも素晴らしい。
 若き魂が、なにかに衝きうごかされ、なにかにうちこんでいく姿は、それだけでタップリと(いい)。
 チャンスがあれば、彼らの活動に接してもみたい……

 そんなことを想っているうちに、こんどの記録映画上映とトークショー開催の報に接して、あらためて〈出逢い〉を感じたわけだった。
 〈出逢い〉は人生のスパイスだ。

 イベントは
「映像が伝える、東京1964パラリンピック -当時の躍動感が 今 上智で蘇る-」
 (この気負いも…学生時代に特有のものだ!)

 13日(土)は、記録映画『東京パラリンピック 愛と栄光の祭典』(白黒63分、監督・脚本・撮影/渡辺公夫、KADOKAWA配給)の上映と、トークショー
 19日(金)は、記録映画『1964年東京パラリンピック大会記録映画』(白黒45分、NHK厚生文化事業団・NHK制作)の上映と、トークショー
 
 場所は学内6号館の101教室(講堂)。
 むかし、ここにはカフェテリア(学生食堂)があった。

  ……………

 〈むかし〉とは、前回1964年のオリンピック・パラリンピック開催前後のこと。
 その頃、ぼくは青春、真っただ中にいた。

 1964年春、都内の私立高校を卒業したぼくは、(第一志望いっぽん…なんて無謀なチャレンジで)大学受験に失敗、浪人生活をおくる破目になり。だけど
 当時の世のなか、〝一浪〟くらいは「よくある」ことだった。

 ぼくはアスリート系ではなかった、けれどもスポーツだい好き。
 ロウニンの身分はオリンピックどころではなかった、のだけれども、新聞・雑誌やテレビなど、あれこれの情報にはしっかり、アンテナを張っていた。

 その頃の東京の街は、表通りこそ舗装路にビル街であっても、ひとつ脇道に入れば土の道に木造家屋群…の、まだまだ〈埃っぽい〉世界であり。
 基本まだそんな状態のなか、都心部には首都高速道路網の建設が、騒音まき散らしつつ急ピッチで進められ、東海道新幹線も64年10月1日の開通を〈必死〉に目指していた。
 いずれも、10月10日オリンピック開会式に間に合わせる、〈至上命令〉のプロジェクトだった。
 
 いうまでもなく、メインスタジアムの国立競技場も突貫工事されており、なにしろ、このときのオリンピック・ムードは、一種、異様なほどの昂奮(復興景気)につつまれ、東京の街は喧騒と〈埃っぽさ〉に塗〔まみ〕れていた…といっていい。

◆大会前の国立競技場

 オリンピックの前年には、新装なったばかりの国立競技場も、ぼくは見ている。
 受験生の身で、よくそんなヒマがあったね…と言われれば、「なに息抜きまでさ」とでも、応えたろう。
 …が、なにしろ気になっていたことは、マチガイない。
 (一生に一度あるかないかの、ビッグ・イベントが来る!)
 本番を直に観るチャンスはないだろうから、せめて〝夢舞台〟を身近に感じておきたかった。

 周辺を散策…くらいの、軽い気もちで。
 しかし、なんという僥倖だったろう!

 競技場の、紅いアンツーカーが覗ける「通用口」に近寄ると、扉に鍵はかかっていなくて、ぼくはスンナリとグラウンドの端に立つことができ。
 正面スタンド上に聖火台を仰ぎ、フィールドのコーナー付近には、棒高跳びのバーを支える2本のポールが、おりからの夕風をうけて…美しかった。

 オリンピックの前には、予行のプレ・オリンピックがあった。
 陸上の、フィールド競技の花、棒高跳
 東京のプレ大会では、アメリカのドン・ブラッグ選手が勝ち。
 彼はTOKYOの前、ローマ・オリンピックの金メダリストで、その直前には当時の世界記録4m80をクリアしていた。

 オリンピックの陸上、棒高跳の競技にかぎっていえば、東京大会は出場全選手がグラスファイバー・ポールを使用した、エポックメーキングなものになった。
 棒高跳は、体重90kgにもなる巨漢選手が全体重をポールに掛け、その反発力を利用してバーを超える。
 それまで主流の金属ポールは、重いうえに撓〔しな〕りに弱く、よく折れて選手を悩ませていたのだ。
 
 ブラッグ選手が、4m80の世界記録を達成したのも金属ポールだったが、彼が東京プレ大会、国立競技場の空に舞ったのはグラスファイバー・ポールで…であった。
 そして、翌64年の本場オリンピックでは、同じアメリカのフレッド・ハンセン選手が5m10のオリンピック新記録で金メダルに輝いている。
 5mは夢の記録であった。

 とまれ、そのプレ・オリンピックのフィールドの空高く、ドン・ブラッグ選手が飛び超えたあとのポールが、微かに風に揺れていた…テレビ画面の感動的シーンが、そのときのぼくには、切りとったようにあざやかに想いだされたのだった。

 こうして、ぼくにとっての東京オリンピック1964は……
 陸上最終日、甲州街道(国道20号)でくりひろげられた男子マラソン(当時はまだ女子マラソンはない)を、新宿駅南口付近に待ちうけ、詰めかけた大群衆の頭越しに、走る〝裸足の哲人〟アベベ・ビキラ(エチオピア=ローマ大会につづくマラソン連覇、アフリカ黒人初の金メダリストでもある)を迎え、そのしばらく後に円谷幸吉(最終結果は国立競技場トラックで抜かれて銅メダル、次のメキシコ大会を前に「もう、走れません」の遺書をのこして自殺)の背中を見送って…終わった。

 翌くる年の春。
 ぼくは、あらためて〝一浪〟の意味を噛みしめつつ、上智大学の学生になった。

 いまどき、そのころの話しをしても(冗談!)にしか思われない、受験の申し込みに来て初めて、あぁ教会(聖イグナチオ教会)の裏にある大学なんだと思った…ぼくは、仏教高の卒業生であった。

 迎える大学生活は、ときあたかも「大学紛争」の始まる予兆に充ちて。
 ぼくの〈全共闘世代〉の青春を待っていた。

 ――以下、次回[後半]記事につづく――