どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ちょっとヒトコト…フタコト…ミコト ~No.67~  嗚呼…「同期の会」は「沈下橋」

-No.2105-
★2018年06月27日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 3031日
★ オリンピックTOKYOまで →  393日
★旧暦5月25日
(月齢23.7、月出00:35、月没13:14)


※きょうは七十二候の「菖蒲華(アヤメの花が咲く頃)」。ちょうど、そんな按配…ですが、むかし旧暦では5月下旬ですか……。





◆汝の学校…東京タワーの真下!

 創立は明治39年(1906)の、芝中・高等学校(東京都港区芝公園)。
 浄土宗の大本山で、徳川家の菩提寺でもある増上寺によって設立された、中・高一貫教育の私学。
 (前歴をいえば、13世紀頃からあった子弟教育の〈寺子屋〉に端を発するともいう…)

 同窓会名簿を見ると、第21回生(昭和2年卒業)からの数多が列挙されて、分厚く、その59回(昭和39年卒業)に、ぼくらが存在して…いまは、いうまでもない100回生を超えている(2006年には創立100周年を迎えた)。
 「すばらしい」ともいえるし、「げにおそろし」ともいえる、やも。

 長い歴史の一端、ぼくらが中学に入学(昭和33年)した当時の世相を振り返ると……
 
 ぼくらが生まれたのは、昭和20年(1945)という、あるイミ最悪の世代。
 〈戦中最後〉と〈戦後最初〉が同居するかたちで、親たちは食糧難をのりこえて子育てをした。

 ぼくらが中学に入学した1958年には、東京タワーが竣工(12月)。
 完成目前の塔の脚、1本の脚元でダイナマイト心中自殺という衝撃の事件があって。ぼくら1年坊主の何人かが、事件後の現場付近を下校の途中、その凄まじい顛末の果てを目撃している(つまりボクがその一人であった…)。

 「脚1本折れても塔は倒れん」という関係者の談話があり、でも2本折れたら……
 「おれたち下敷きだぜ!」噂噺にもなった。
 いまも芝学園の校舎・校庭は、東京タワーの展望台から、北の眼下に、それこそ「真下」といってもいいほどの位置に見ることができる(校庭なんぞ、それこそ猫の額ほどの)。

 この話しと、入学式でのドナタかの挨拶にあった言葉が記憶にのこる。
「きみたちは大変な時に生まれて、栄養もよくはなかったろうから、あまり期待はできない…という者もあったが」
 もちろん挨拶の言葉は、このあとに「なんの負けるかの意気込みで頑張ってもらいたい」という、激励でしめくくられたのだ…けれど、ぼくの脳裡にはなぜか、この前半部分だけが(冗談じゃねぇや!)切り抜かれてある。

  ……………

 ともあれ、吾らは…そんななか
「汝の学校いずこにあるぞ 三縁山(増上寺山号)内伽藍のうしろ」に、
「遵法〔じゅんぽう〕自治」の校訓(ぼくらが入学する5年ほど前に生徒会が誕生)のもと、「自由でおおらかな校風」とされるなかに学び。

 プールもない(卒業翌年に完成)、校庭はアスファルト(現在は全天候型ウレタン舗装)というカコクな環境でよくスポーツにも励み。シーズンをさきがける学園祭に、青春の芽生え胸にときめかせ。
 惜しむらくは「あまい(よくいえば家族主義的)」と評されながらも、私学進学校の誇りを胸に、前回東京オリンピック開催の年に巣立っていった。

  ……………
 
 それから、半世紀。
 芭蕉奥の細道』に曰く、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」。

  ……………

 卒業生は、ひとしく同窓生。
 100周年を超えた母校の同窓会にもまた、〈歴史は重石〉。

◆同窓会も卒業のとき…

 
 ことしで52回をかぞえる、芝学園の同窓会大会。
 歴代の卒業生、卒業年の末尾で揃えた「0」から「9」までの歴々が、それぞれの世代を代表して10年に1度の世話役をつとめる。

 6月に入って、母校でことしの同窓会大会(ことしは9の期の担当)があり、その後、二次会というカタチで、ぼくら59期仲間だけの同期会があった。
 
 じつは、ぼくも20年前の同窓会大会(9期の担当)では、世話役の一端を担わせてもらったのだ…けれども。このとき1回きりで、ご免被らせてもらうことにした。
 〈同窓会大会〉の〈卒業〉…卒業生にもそれくらいの自由はあっていいだろう。

 ナゼかは言わない。
 ただ(歴史とは罪なものだな)と思った。いや、〝歴史が罪〟なんじゃない…積み重ねの〝重み〟に耐えなくなったことに愕然とした。新陳代謝というものが、なければイケナイ。

 おかげさまでイイ学校に学ばせてもらったし、先生たちにも進取の気象をもつ方が多くおられた…のだが。
 ざんねんながら、(同窓会大会は)萎れ、朽ちかけてきていた。

 ……もういい……

 吾らも、卒業して半世紀を超え、すでに大学からも「卒業50年」祝いの知らせをうけた面々。
 みな〈過客〉であった。
 
 今回の世話役をつとめてくれた、O君からは「同期会だけは、きみだけ」と言われ、「すまない」と詫びた。
 ところが、同窓会大会からの流れの、その同期会に、二次会にだけ参加の仁が、じつは、ほかにも何人かあった。
 そりゃそうだろう…そういう仁もいる、ということで設けられることになった二次会なのであった。

 本番の同窓会大会では、レコード・プロデューサーのNくんが平原綾香さんのステージ(20年前には森山良子さんだった)をもうけてくれ、Kくんの記念授業があり、また画伯のAくんからは福引の景品に日本画の寄贈、などなど…精一杯の寄与貢献があった由。
 ごくろうさま、おせわさま。

 このたびは、「吾ら59期の世話役も、これが実質的にはしめくくり」(次回10年後は80じゃ!)ということで。
 卒業以来、半世紀ぶり、初見参の仲間たちの顔見せもあって、同期会の座は懐かしく盛り上がった。
 (珍客の前には同期生たち、ひっきりなしの旧交挨拶、いうまでもない)

  ……………

 それにしても
 ぼくは、そこここでくりひろげられる歓談の、同期たちを眺めて…ふと想う。
 皆、こころのうちは(いかばかりか…)と。

 ふだんの同期会は、同じ同期Oくん経営の居酒屋でひらかれているが、参加の顔ぶれは、ほぼ、きまってきている。
 その〈常連〉の顔ぶれにしてからが、在学中は知らぬままにすごした者もあったりで。
 自己紹介も、できたり、できなかったり、他人にそっと尋ねたり、家に帰ってから卒業アルバムを検索したり…が実態なのだった。

 卒業後は、それっきり、所在も知れなくなった者もいる。物故して、所在の知れた者もある。
 名簿の空欄は、白々と…遠く霞む空の如…

 あらためてたしかめる卒業アルバムに、面影のよみがえる者もあれば、見る者の首が傾がったままになる者もあるのだ。こればっかりはどうも、誰しもが、きっと、似たり寄ったりのことであったろう。

 ちなみに
 ぼくの卒業アルバムには、担任だった先生からの一言のほかに。
 一筆を寄せてくれた(当時の…)友が10人。

 うち2人はすでに鬼籍に入り、2人とはいま音信不通。
 のこる6人にしても、うち何人までが、そのこと(一筆寄せ)を覚えていてくれるか? ナニを書いてくれたか…までは、もはや言うまでもなかろう。
 それは、ぼくにしたって同じことだ……

 それでも、同期会にはなるべく顔をだす…のは何故か…
 ぼくの場合でいえば、金輪際、人という生きものが好きだから。

 しかし、むずかしのは、そこからで。
 ならば、なんでもあるがままでいいじゃないか…と、いうことには、けっしてならない。

 ので……会合おひらきになって後、あれこれの想いに追われることになり。
 これも、また、誰にもあることのようで。
 ときおりは、宴なかばの参会者たちのなかに、ふと同じ想いにとらわれているらしい顔々を見ることも、少なくない。

 だから
 そんなことがあれば一度こっきりで、すっかり懲りてしまう人もある、それほどのこと。
 だって、そりゃそうだ。
 どうあったって、人が生きられるのは…いまを生きること、それっきゃないんだもんな。

 とどのつまり
 ぼくは、その辺が、しごく、あきらめわるく、できているらしくて……
 〈走馬灯〉懐かしく眺めるごとく、目を凝らせば…ふと。
 そこ(同期の会など)は、どうやら、その風情「沈下橋」のようなものだな…と。
 あらためて、しみじみと、ボクは想うのデス。

 ……ところで……
 その「沈下橋」って、なんのこっちゃ。
 わかってもらうには、もう1話の場が要る。
 ごめんなさい、稿をあらためさせてくださいな。

 なんか、こう、ひどく、くたびれちゃったもんですから……