どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地東北2018さんりく巡礼 / <報告記34>-大槌町④-大槌あちらこちら

-No.2056-
★2018年05月09日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2982日
★ オリンピックTOKYOまで →  442日
★旧暦4月5日
(月齢4.6、月出08:04、月没22:50)








◆小国ヤスさん

 大槌町に行ったら、かならず訪れるところが、7年の間にいくつかできた。
 港に近い、安渡の小国ヤスさんは、なかでもその筆頭格。
 もともと世話好きで明るい性格の人だから、津波に家を流され仮設暮らしになってもかわることなく、浜の〝名物〟婆ちゃん。
 
 立て板に水のしゃべくりで、「あたしを知らない人はもぐりだよ」と笑う彼女だが、こんどの東日本大震災津波から逃げた避難先での苦い経験も心に抱えており。
「海の水が引いたら津波が来るんでしょ、だからすぐに逃げなきゃいけないの、だけどそれだけじゃダメなんだよ、逃げたら絶対に戻らないことなの」
 ヤスさんがそう言うのに、「忘れたものがある、すぐに戻るから」と家に帰った近所の人は、津波に呑まれて戻らなかった。「行かせるんじゃなかった」とヤスさんは悔やむ。

 ヤスさんには、兼太郎さんという生涯のよき伴侶があった。
 心根のやさしい元漁師は震災後、ガーゼの布に刺繍糸の刺し子、手芸に熱中することで気もちの張りを支え。
 「できれば復興した故郷を、もういちどこの目で見ておきたい」
 そう述懐していたのだけれど……

 望みは叶わず、17年1月に93歳で亡くなった。
 三陸岩手の浜に生き、こんどの大津波で生涯3度の〝海嘯〟を切り抜けてきた命が、ひとつ逝き。
 ヤスさんはいま、その後に建った災害公営住宅に息子さんと暮らす。

 ようやく笑顔をとりもどしたヤスさんを、仏壇から、兼太郎さんの遺影が見守っている。
 その遺影は、ぼくたちがつづけてきた「木工ワークショップ」の、常連さんの女性が撮ったもの。
 そうして、遺影のフォト・フレームはぼくの手づくりだ。
 遺族(家族)とおなじ空気を吸っていられますように、ガラスの仕切りはなくしてある…… 




ひょっこりひょうたん島

 大槌湾に面した漁港、安渡の先、すぐ東が赤浜地区。
 ここは、震災から1ヶ月後、ぼくたちが真っ先に訪れた場所。

 嵩上げされた路盤に敷かれてあった旧JR山田線(19年3月23日からは三陸鉄道リアス線として開通)のレール、グニャリと圧〔へ〕し曲げられた向こうに、うちあげられた船など津波の爪痕なまなましく、果てしもなく広がっていたところで。

 瓦礫の群がりを避けて海際に出ると、指呼の間に「蓬莱島」が浮かんでいた。
 NHKテレビ人形劇『ひょっこりひょうたん島』のモデルの小島は、懐かしくもあり、癒しの風景ともなって、その後の大槌訪問では、かならず<ひとめ挨拶>の地になっていた。

 赤浜は、ぼくたちが後に、二次瓦礫撤去に入ったところだったし。
 ひょうたん島(蓬莱島)は、津波に耐えてのこった…と思われた灯台が、ほどなく倒壊。
 しかし、翌年末には再建、点灯。

 漁民の守り、弁天神社も損傷をうけたが、島とともに修復が進み。
 陸地と島を結ぶ、流失した防波堤も復旧……と
 ひょうたん島(蓬莱島)は、いつも大槌の町の復興を先駆けるカタチでありつづけた。

 そうして、18年9月の赤浜。
 海辺の低地は丈高い防潮堤の工事が進み、漁家などの住家はみな後背の高台に移って。
 いまはもう、ぼくらが瓦礫を撤去した跡地が何処だったかも、知れなくなっていた……


吉里吉里学園

 大槌町には、行けばかならず訪れるところがある一方、気にかけつつ往来を繰り返しながら、なかなか立ち寄りのきっかけ、とっかかりがつかめないままになってきたところもあって。

 吉里吉里という土地が、それだった。
 《11.3.11》から1ヶ月後に、はじめて大槌町に入ったときには、もちろん吉里吉里にも足を運んでいる。しかし……

 吉里吉里海岸へは入口の跨道橋が大破していて立ち入ることができず、被災した集落内も細い道が入り組んで、ぼくの車は進退に難渋をきわめた(そのとき乗っていたのがエルグランドという大きなボックスタイプの車だったのがいけなかった…)ために、復旧作業の邪魔になってしまって往生するばかり、早々にひきあげるしかない結果になった。

 それが、トラウマになっている…のはマチガイない。
 (ぼくは帰宅するとすぐに、車をひとまわり小さいタイプに買い替えている)

  ……………

 吉里吉里
 古くは「吉利吉利」「吉里々々」とも書いた。
 地名の由来、ぼくは吉里吉里海岸の<鳴き砂>の音に由来する、とする説を支持したい。
 別に、海に突出した地形の「限々(ぎりぎり)、切々(きりきり)」に由来するとも言われるようだが、どうもしっくりこない。

 かつて、ここは「吉里吉里国」と称して名をあげたことがある。
 井上ひさしの小説『吉里吉里人』に登場する架空の国に材をとり、町おこし事業として1982年に吉里吉里国の独立を宣言、80年代ミニ独立国ブームの先陣をきっている。

 ブームは、いっときのブームでおわった、けれども。
 吉里吉里の辻や路傍には、いまも、ふと、そんなふんいきを嗅ぐ気がする。

  ……………

 国道から眺めると、集落の上の方に、お伽噺めいた塔のある建物が見える。
 (学校か…それとも幼稚園だろうか…)
 ここも、ずっと気になっていたところだったが。
 このたび、やっとこさ、訪れてみると「吉里吉里学園」であった。

 折から生徒たちは教室で授業中の、校庭からは吉里吉里の海が望めて、津波もここまでは届かない。

 大槌町の小・中学校は、震災後、いずれも町立の、大槌学園(大槌・安渡・赤浜・大槌北の4小学校と大槌中学校を統合した義務教育学校、4月18日記事)と、吉里吉里学園(併設型小中一貫校)の二つだけになり。
 どちらの〝学園〟にも、新たに地域コミュニティーの再興を目指す「ふるさと科」授業が導入され、全国レベルの注目を浴びている。

  ……………

 なお
 ちなみに岩手県では、18年1月に陸前高田市立の気仙小学校が、海抜約49メートルの高台に移転して新築、始業式が行われており。
 これを最後に、県内で東日本大震災に被災したすべての公立校(計86校)の校舎が、再建(移転や統廃合も含む)されたことになる、という。