どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

哲学の人、内山節さんが「時代を読む」/      変わり始めた保守の意味

-No.2042-
★2018年04月25日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2968日
★ オリンピックTOKYOまで →  456日
★旧暦3月21日、更待の月
(月齢20.1、月出....:....、月没09:18)


※きょうは、七十二候の「腐草為蛍(腐った草が蒸れて蛍になる)」頃。これは…正直、ワカッタ気もするし、(それって気のせいじゃないですか…)って気もする、よねぇ!


(この稿は<きのうのつづき>のココロです)


◆ぼく、じつは、哲学が好きだ

 けれども、ぼくは学びの場にあったとき、かってに(ボクには向かない)と思っていた。
 性質〔たち〕、情操を好む、からだった。

 けれども、じつは、情操こそ哲学の入り口だったし、より深めたいことだったのだ…が。
 かってに、みずから敷居を高くしていた、ことになる。

 哲学は、「知を愛する」という意味のギリシャ語に由来する「フィロソフィー(Philosophy)」の日本語訳、だったか。
 たしか、西周〔にし あまね〕という明治時代の思想家が訳した…と、たしか教科書にあったと覚えている。(いまでも西さんは教科書に存命だろうか…)

 いかにも、とっつきにくい。
 高校の頃に「哲」の字の意味を調べてみたら(それくらいはする)、「知る」ことだが、より「明晰に知ること」「悟ること」だ、と。
 ますます、とっつきにくい。(悟りなど、ほとんど絶望的に思える)

 おまけに、ざんねんにも。
 (哲学は専門に学ぶもの)と天から思い、(それには永い時を要する)と思いこみ。
 岐れ道を、別途に進むことになった。

 (前ふりが長くなった…)

◆内山節さんという、哲学の人を識った

 …のは、なにかで読んだ小文が最初。

 小暗い森の道を行くうちに、思いがけず、眩しく射しこむ木漏れ陽に出逢った感じ。

 内山さんの考察は、この木漏れ陽のごとくに、シンと沁みた。
 おまけに、この方、その方面専門の大学の門をたたいたのではなしに、みずから知の進めた「哲学の人」であった。(ぼくにはそれができなかった…そこに気づかなかった…嗚呼)

 内山さんは、いま、ぼくの購読紙、東京新聞の文化欄に月1のペースで『時代を読む』コラムを執筆しているのだけれども。
 このコラム、18年9月の回に内山さんは、『変わり始めた「保守」の意味』という一文を寄せていた。

◆読書は読みくらべ

 
 昨日ご紹介した『天皇陛下の味方です-国体としての天皇リベラリズム-』という本と、この話とを読みくらべると、たいへん興味深かった。

 釣りを愛する内山さんは、それが縁で移り住んだ群馬県上野村の人々の暮らしぶりから、さまざまな気づきをえているのだが、この稿もそれで。

 彼らが移住者を受け容れ、なおかつ活躍の場も提供し、もって、これを村の崩壊をふせぐ(村を守る)智慧としていることに、本質的な<保守(主義であり心情でもある)>の精神を見いだす。
 いまの上野村は、この地域の自然エネルギーで暮らせる村づくりへ、いわば<改革>の努力をしている。

 結果は<保守>でも、そこには新しい試みを導入する<革新>がある、という。

 かつて(1991年に旧ソ連が崩壊するまで)の<保守>対<革新>の時代、<革新>といえば、おおまか社会主義思想を参考にする立場をとった。
 資本主義的な社会を、より自由で平等な社会につくり替えていこうとするのが<革新>の立場。
 
 <革新>の側は<改革>を目指し、<保守>の側はこれを<拒む>。

 ところが、こんにち、それが変わった…か、変わりつつある。

 政治的<保守>の側が新自由主義市場原理主義の<改革>を目指し、戦後社会からの<脱却(改革)>を主張し、憲法改正も同じ進行方向(改革)に位置づける。
 いっぽう、こうした動きに批判的(革新的)な側は、逆に、戦後一貫して目指してきた平和主義や自由・平等の理念を<守ろう>とする。これは、ある意味、<戦後保守主義>といえるのではないか、と。

 たとえば現実として、以下のような事態がある。

 保守の側が、原発の必要性を主張しながら、すべての経済行為を市場にゆだねて、弱肉強食的な社会への<変革>を目指し。
 いっぽう、こうした動きに批判的な、かつての<革新>の側は、自然とともに生きる社会・共同体的な助け合い社会・経済成長より充足感ある生き方の社会を目指そうと主張するが、これは態度として<保守>的な色あいをおびることになる。

 <革新>の側に、これまでも指摘されてきた<思考停止>がない、とは言えない。
 けれども、いっぽうで、それこそはホントウの意味での<保守主義>の流れといえるのではないか。
 なぜなら、それは〝たいせつなものを守ろう〟とする考えなのだから、まちがってはいない。

 内山さんは、そう指摘したうえで、考察する。
 「歴史が変わっていくときには、必ずといっていいほど言葉の意味も変わっていった」、すると、「保守という言葉の意味が変わりはじめた今日もまた、歴史の変動期なのかもしれない」と。

  ……………

 そこから、ボクが、どう考えたかを言えば。
 これからの時代、やれ<保守>だの<革新>だのと、<対立軸>づくりに血道をあげるのでは、もはや、まったくなしに。
 <ちがい>の根っこを、ていねいに洗い流しながら、おおきな包容力でつつみこむ、ほんとうのリベラルにこそ、明るい未来があるのではないのか、と思う。

 その、いわば<冠動脈>の、1すじに『天皇陛下の味方です』の鈴木邦男の態度があり、もう1すじには「哲学の人」内山節の考察があって、よし。

 なぜなら、政治とは本来、とてもありえないほどのサプライズ(意外性)の実現をこそ、最高のダイナミズムとするものであるはずだからデス……


「里」という思想 (新潮選書)

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自然と人間の哲学 (内山節著作集6)

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