どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地東北2018さんりく巡礼 / <報告記31>-大槌町①-大槌高校と大槌町役場

-No.2035-
★2018年04月18日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2961日
★ オリンピックTOKYOまで →  463日
★旧暦3月14日、待宵月・小望月
(月齢13.1、月出16:54、月没04:29)





◆オオツチもかわる…さ

 そこに立つのは8年ぶりだったが。
 (あぁ…)
 具体的にナニがと言うより、空気が…ふんいきが…じぶんの寝床の、枕の位置みたいに、いともどおりソコにある…感じ。
 なにひとつ、明確な記憶はないのに、まちがいなくココだった。

 校門に到る坂道は、もっと急だった気がする…ここまでは津波も来なかったんだよね…と。
 その校門を入ると、すぐに、右手の校舎から左手の体育館に行く渡り廊下があって、その向こうのグラウンドには火が燃えているらしく、立ち並ぶ黒い影の向こうに、急ごしらえのドラム缶の炉から煙が広がっていた。

 渡り廊下の踏み板には泥があった、けれども、踏み板に上がるのを避け、体育館の石段を上がった「受付」に、東京から持参した救援品を届けた。

  ……………

 東日本大震災の強く長い揺れがあり、つづいて寄せ来る津波…引き波に翻弄された沿岸からは〝岸〟が消え、あとは刻刻と伝えられる被害状況の報道に、なんでもいいから手掛かり、引っ掛かりになるナニかを求めるしか、他郷にあっては手だてがなかった。

 そんななか、岩手県大槌町に手掛かりを掴んだのは、津波で町長を失い、避難先になった大槌高校では生徒たちが避難所の運営にあたっている…との報道に出逢ったことだった。

 まず、大槌に行こう。
 ぼくたちに必要な、行動の目標が見つかった。
 公的機関に義援金を託すことから始めて、自衛隊などによる初期の救命・救急を見守り。

 それも待ちきれなくなる気もちを懸命に抑えた末に、ようやく一月後、舗装の〝波うつ〟東北道をひたすら走って、まだ雪ののこる遠野に一泊。
 翌日、午前中に釜石の被災地域に入って「潮煎り震災瓦礫」の強烈なにおいを嗅いだのが、ぼくたちの<被災地東北行脚>のはじまりだった。

  ……………

 大槌高校の、体育館でそのとき。
 ぼくたちを「受付」てくれた人が先生であったか、職員かそれとも他の方であったかは知らない。
 来意を伝えたぼくたちは、救援品のリストに高校生たちへのメッセージも添えて…それが精いっぱい。
 できれば、避難所の運営にあたる高校生たちに、ひと声かけたい想いもあったが、それは叶わなかった(そんな状況にはなかった…)。

 渡り廊下を戻ってくると、避難所になっている教室の外階段に据わって、ジッとこちらを凝視〔みつめ〕ている老女と、ヒタと目線があってしまい、ぼくは理由〔わけ〕もなくウロタエた。

 すると、ついさきほど。
 表の通りからここへの泥濘道を、怖々、徐行してくるときに出逢った濡れ畳を抱えた老人から、するどい視線で凝視〔みつめ〕られた記憶が脳裡に火を噴き……
 ぼくは、もうこれ以上の長居はできないことを、思い知らされた。

 その凝視〔みつめ〕る老女の奥の室内には、外に出て来ることもままならない状況にある避難の人々がたくさん居られるはずであった…けれども、いまは記者の立場にもないぼくは、そこから先に踏み入ることは、ついにできかねた。

  ……………

 その大槌高校に、8年ぶりに来たぼくに。
 月日の長短は感じられなかった。
 ただ、あれから、すぎさった日々への想いが風のごとく音そよがせ……

 すぐ近くには、統合・再出発した「大槌学園」。
 〝小中一貫教育校〟の目新しさが、ただひたすらに眩しい。
 (オオツチもかわる…さ)
 あれから親しくなった人の声だった。





◆消えた旧大槌町役場のこと

 津波に破壊された旧大槌町役場。
 その存在を確かめたのは、震災から半年後の夏、瓦礫撤去のボランティア活動のときが初めて…で、それも移動のバスからの窓越し風景。

 その後も、訪れるチャンスをつかめないままに時がすぎ、気がついたときには柵囲いのなか。
 そのときには、もうすでに、震災遺構として遺すか否か、意見の対立が表面化しており、他所者はその話題にふれないほうがいい雰囲気になっていた気がする。

 同じ遺族の立場にあってさえ、「よすがに保存を」「想いだしたくないので撤去を」と、正反対の意向が、どちらも一歩も引かない。
 そこで、ぼくなどもやっと(そうか、ここは漁師町だったな)と気づかされる。
 細かい気風は別にして、一般に漁師町は「はっきり意見、しっかり頑固」傾向にあり、ふだんの柔和な対応に他所者はついそれを忘れる。

  ……………

 津波被害で当時の町長ら28人が犠牲になった旧大槌町役場。
 その「保存」か「解体」かは、遠く離れた東京あたりでも、よく報道される。

 たとえば、ぼくがいま定期購読している東京新聞の18年以降分でいくと、こんな塩梅。

〇3月16日(金)
 「大槌町 旧庁舎解体へ -津波被災、町議会が可決-」
 可決されたのは解体経費を計上した議案。だが、議員の賛否は6人ずつの同数となり、議長が可決を判断。これをうけて町長は採決後「18年度中には取り壊す」と表明した。これに対して当面の保存を訴える住民団体は解体阻止に向けて法的手段を模索する考えを示した。
 ※ここに至る経緯として、13年に一度は正面玄関などの保存を決めたが、15年夏の町長選で解体を公約に掲げた現町長が当選している。

〇6月15日(金)
 「震災 大槌町旧庁舎解体工事へ」
 この大きめの記事では、解体工事の月内開始を伝え、「負の遺産」をどう受け止め、どう向きあえばいいのか…の考察が述べられていた。
 この背景には、春に可決された解体費用計上の補正予算案に対し、反対する住民から「解体工事の差し止めを求める仮処分」申請がなされたことがあり。しかし町は予定どおり18日から工事開始、8月末までに解体をおえる方針でいた。
 こうした経緯をふまえて、広島の原爆ドーム保存に至るまで20年を要した経験などから、専門家の見解を参考に供した記事になっていた。

〇8月15日(金)
 「被災庁舎解体 差し止め提訴 -大槌町住民団体-」
 このときの記事は、6月からの事態の変化を報じたもの。旧庁舎解体問題で、保存を求める住民団体が「解体工事の差し止めを求める」住民訴訟を提議(6月のは仮処分申請)。すでに始まっていた解体工事で、建設リサイクル法に義務付けられた県への事前通知がなされていなかったことが発覚。あわせてアスベスト石綿)調査も済んでいなかったことが分かって、「取り壊し工事は休止された」というものだった。

  ……………

 そうして
 このたび、ぼくたちが大槌町を訪れたのが、9月1日。
 このときの情景が、上掲フォト。休止されて静まる解体工事現場の献花台に、手を合わせる人の姿があった。

 その後、年が明けて……

〇2月21日(木)
 「3・11の象徴 また一つ消える -大槌町旧役場庁舎 解体終了-」
 昨年秋からの休止期間を経て、1月19日から再開されていた解体工事は約2週間で終了。更地になった旧役場庁舎跡には、献花台とお地蔵さんがだけがのった…と。
 春までに撤去・整地後の町の方針は、ここを緑地化、緊急避難時には車を乗り捨てる場所に活用するという。記事は、住民団体の差し止め提訴は退けられた、と伝えていた。

  ……………

 復興工事の進むなかで、とりのこされる震災遺構は、たしかに「居どころがない」感じで、見るからに肩身がせまいし。保存には、また別な負担がともなう事情もあるから、むずかしいことにはちがいなく。
 それは、南三陸町の旧防災庁舎にもいえることだった…けれども。

 無くしてしまえばオシマイ…でしかないのも、たしかな事実なのだった。
 



◆新築の文化交流センター「おしゃっち」

 あれこれ物議をかもした旧役場庁舎跡地のすぐ近く。
 末広町に6月「大槌町文化交流センター・おしゃっち」が華々しく(!?)オープンしていた。

 たしかに、そこは底抜けに明るかった…のはとうぜんで、大津波に浚われ尽くしてからこれまで、町の中心部には、ほとんどナニもなかった。

 木造3階建て、延べ約2200平方メートルの館内、展示を見てはじめて「おしゃっち」の意味が知れる。
 そこは、古くからあった「御社地」、震災前は町民憩いの場だったところ。

 館内には、多目的ホールや図書館が設けられ、親子連れの町民たちが、休日の午後のひとときを思い思いに愉しんでいた。

 館前庭として整備された自噴井と池のある公園。
 ここは、広範囲にわたって行なわれた嵩上げ地域のなかにあって、震災前の地盤高を知ることのできる貴重な場にもなっており。
 その、園地の一郭に建つ「昭和八年三月三日 大海嘯(おおつなみ)記念碑」には、下記のとおりの警句が刻まれてあった。

   一 地震があったら津波の用心せよ
   一 津浪が来たら高い所へ逃げよ
   一 危険地帯に住居をするな

 こころして あらためて <銘記>あるのみ……