どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

2019年4月1日…次代<改元>のおおさわぎ!/「元号」は皇室にお返しして「雅号」にするのが佳い

-No.2020-
★2018年04月03日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2946日
★ オリンピックTOKYOまで →  478日
★旧暦2月28日、新月へ3日
(月齢27.8、月出04:36、月没16:01)



 この日、テレビ局はすべて「改元」一色、新聞各紙も号外や号外扱いの特別紙面で報じた。
 この日から即改元…と勘違いする人が、わずかとはいえ、いたらしいことなど相変わらずの世相ながら。
 一方で、新元号が決まるとすぐに、これを記念品に仕立てて見せる商いには、いまの時代らしい<情報アレンジ>の新しさ(新しいもの好きのキホンに変わりはない…)が見てとれ。

 〝平静〟を心がけていたぼくも、なんのことはない、ほぼ半日を攪乱されてすごすことになった。

◆こういうかたちの「改元」もわるくない…

 最初に想ったのは、そのことだった。
 (〝元号〟が必要で、これからも〝改元〟があるのなら…)
 さらに想えばこれも、平成の〝象徴〟天皇の、自然に優れた「行績」ではなかったか。

 昭和天皇崩御された後の、「平成」への改元に、この明るさはなかった。
 むしろ、ぼくなどには、そのときの気分にはそぐわない、軽すぎる印象さえあったものだった。

  ……………

 だから、こんどの改元のことにも、ぼく自身は、けして流されることだけはなかった(つもりだ)。
 元号予想などには、はじめから興味がなかったし、どんな元号になってもすぐには馴染まないだろう、とも想っていた。

 それでも、カウントダウンの時が刻まれ

官房長官の発表は「令和」

 額装された新元号が掲げられたとき、ぼくの目を射るようにとびこんできたのは「令」の1字であり、あとから遅ればせに「和」が駆けつけて脇に膝をついた。そんな感じ

 想えば、「元号」という、そのものが、きわめて政治的に恣意的なものである。
 かつて朝廷の時代も、その後、かたちは民主主義の世になってからも、ときの権力者の恣意・都合によって、決められてきたことに違いはない。

 それが、また繰り返されたにすぎなかった。
 事前、一部に心配されたような身勝手・専横なふるまいはなかったけれども、そのかわり、その分まで恣意は巧みにはたらいたようだ。

 官房長官は、出典が「万葉集」であることを、いちばんに言いたかったらしい。
 解釈は、なるほど、そのとおりであろう。
 しかし……
 「令」の字義は、「礼冠をつけ、跪〔ひざまず〕いて神意を聞く人のかたち」からきた<象形=ものの形からきた文字>と、白川静の『字通』にある(異論もあるようだが…)。

 「令和」が新元号と知らされて、「命令」という言葉を想った人が多かったようなのは、自然だ。
 古くは、「令」の字の<象形>は「命」との二義であった、ともいう。

 新聞によっては、「令」の字解をしてみせたところもあるくらい、漢字にはさまざまな意味をもつものが少なくない。
 「令」の字もその伝で、「おつげ」「ふれ」「いましめ」から、「よい」「ただしい」「めでたい」などなどまで、意味するところが多い。

 それだけ、真意を晦〔くら〕ましやすい…とも言える。

 「令」からは、ボクなんかも「巧言令色すくなし仁(口さきのうまい、いい顔をしてみせる者にひとかどの人物は少ない)」を想いだしてしまった。

 「令」の字の親戚すじには「怜(かしこい、さとい)」や「玲(かがやく)」もあって、むかしは「怜子」さん「玲子」さんが少なくなかった…けれど。
 「令色」と同じく、その美しさ賢さには「冷たさ」がひそむ。

  ……………

 ぼくは、なにが言いたいのか、といえば。
 「令和」の元号を決めた現権力者(首相)の意識には、あえて古めかしく表現するなら「上を敬って和に心せよ」との気分が濃かったのではないか、ということだ。
 
 …が、ざんねんながら、そこには〝範たるべき人(模範となるヒト)〟の自覚がない。
 官房長官に<元号発表>のイイ役を与えておいて、すぐ後に<ほんとの真打は、俺だ俺だ俺だぁ!>と出しゃばるところが、とてもとてものことに「仁」どころではない。

 そこで、したがって大切になるのが、いうまでもない市民の気もち(意識)だ。
 「令和」を上から押し付けられるのではなく、あくまでも<吾がこと>として解釈すること。
 だって、きまってしまった<元号>は替えられない、のですからね。

  ……………

 それより、この、またとないチャンスに。
 あらためて考えておきたいのは、「元号ってホントに必要ですか?」ということ。

 このブログでも、年月日の表記に「元号」はつかってません。
 過去のことを記(して身近にするためにやむをえず)すのに、西暦と元号を併記はするけれでも、そのための対照だけでもタイヘンなんですよね、ほんとは……

 歴史を蔑〔ないがし〕ろにしてはいけないけれども、いたずらに引き摺ることもない、でしょ。

 慣習として「元号」をつかうことの、手間暇とかかり(費用)。
 「元号」が、どうしても、もたざるをえなくなる政治的・恣意的な性格のこと。
 こんどの「改元」のことにしても、つまりは、天皇に替わった権力者の思うがまま、だった(ろう)こと。
 などなどを、こんどあらためて明らかになったその限界までふくめて、よくよく考えれば……

 ひとつの提案として。
 「元号」を、思いきって、「象徴天皇とその時代をあらわす雅号」としては、どんなもんだろう。
 つまり、公用や対外用にはしない。
 「日本の文化」として尊重するなら、それでいいはず。

 そうして、時を経て、「元号」の存在が意味をうしなったときには、なくなってもよい。
 …それが歴史というものだろうと、ボクは思いマス。