どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

マララ・ユスフザイにとってニッポンとは……/   「国際女性会議」の開かれない世界にぶつかった日

-No.2012-
★2018年03月26日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2938日
★ オリンピックTOKYOまで →  486日
★旧暦2月20日、更待月
(月齢19.8、月出23:36、月没09:06)


※きょうは、七十二候の「桜始開」。季節感はぴったり、ですが、旧暦では2月29日。ワカリました。旧暦の頃…というか、日本民族というがもともと<せっかち>だった、ってことですよね!



◆行列に2時間も立たされ待たされっぱなし…ナンテコッタ!

 マララ・ユスフザイ、21歳のうら若き女性に逢ってみたい…と想った。

 それは、おそらく世界じゅうの、これまでの〝男社会〟に複雑な想いを抱いて生きてきた、彼女にとっての父親世代、あるいは祖父世代の男どもにとって、やむにやまれぬという性質の感情だったに違いない。
 あえて俗な言い方をさせてもらえば、「マララの出現にアララ…と思った」人たち、といってもいい。

 2012年(それは日本列島が激しく揺さぶられた直後だったことも忘れられない)、イスラム武装勢力からの抑圧を告発して銃撃を身に受け、生命もあやぶまれる負傷をしながらも声を上げつづけた彼女が、2年後の14年にノーベル平和賞を受賞したとき、気づきをうながされたカタチの地球人の大人たちは、少なからずウシロメタサを感じないわけにはいかなかったから、とてもフクザツな心境だったわけである。
 
 そのときのマララは17歳。
 過去、政治家たちにノーベル平和賞が贈られるたびに、正直(なんでぇ?)いつも疑問を抱きつづけてきた世界でもあっただけに。
 このときの衝撃は、世の大人たちが叱責された意味からも、さらに大きなものだった。

 そのマララ・ユスフザイ(21)の初来日。
 ぼくは、その生きた表情に接して、ぜひにも記憶にとどめておきたいと思った。
 (そう思った人が、きっと少なくなかった)

 彼女は、東京で開催される第5回の国際女性会議「WAW!」に出席、基調講演をするとのこと。
 その女性会議に「一般傍聴」の募集があると知って、即座に申し込んだ。
 なにしろ、ネットでの受付は応募者が多かったばあい、会場の収容人員をうわまわった時点で締め切られる、とのことだったから。
 いずれ新聞かテレビかでインタビューがあるだろう、けれども、である。

 結果、傍聴できることになり。
 3月23日土曜日、会場のホテルニューオータニへ出掛けた。
 ところが

  ……………

 会場には、開会前に余裕をもって着いた、にもかかわらず。
 すでに、できていた行列の後に並ばされ。
 しかも、その行列は遅々として前に進まず、それより遥かな早さで後続の列を長くしていった。

 行列に男性の姿はいうまでもなく少なく、圧倒的に多数をしめる女性たちみな、マララさんに逢いたい、生の声を聞きたい一心での来場であった。

 行列を整理するのはホテルマンであり、一般傍聴者たちには主催者サイドからなんの連絡もないままに、時すぎてゆき。
 ついに、しびれをきらした傍聴者たちから「どうなっているの?」か問われても、細かい事情を知らされていないホテルマンは、「開会時間を延ばすとだけ聞いております」としか答えようもない。

 待つこと1時間。
 開会セレモニーどころか、いよいよ肝心のマララさん基調講演の時間になっても、列は進まず。
 ついに行列の、ぼくより前に立っていた老男性のひとりが、諦め、踵を返し去って行った。

 受付か、会場の整理か、なにかに支障をきたしたことは確かで、ぼくもよほど、受付に抗議のひと声かけて帰ろうかと思ったが…いや、それよりもこの不始末をしっかり見届けておこうと(このへん、いささか自身が落語の〝小言幸兵衛〟じみて感じられ、可笑しかったりもしたけれど)、そちらに気分を変えて待つことにした。

 やがて、やっと主催者側の女性らしき人物が、事情を説明しはじめた、が…。
「お待たせしておりますが、これは単に、入場する方と出場する方の混乱を避ける処置でございまして、それがおさまれば直ぐに受付を再開いたしますので」
 と、詫びのひとこともナシの言訳、弁解にすぎない、さんざ男社会が抱えつづけてきた悪弊の再現にほかならなかった。

 これを、大多数をしめる同性、女性の傍聴希望者たちはどう受けとめたのだろう……
 腕時計に目をやると、出場・入場の混乱うんぬん、というのはつまり、マララさんの基調講演が終えたことを意味することに気がついた。
 そうして、会場がホテルの宴会場であったことに、ぼくは、迂闊にもやっと気がつく始末。
 (ナンテコッタ!)の思い、叱責は否応なく吾が身にも向いた。

 「国際女性〝会議〟」の会場が、ホールではなくホテルの宴会場というのも、ミス・チョイスだったろう。
 会場の収容人数に見合った許可数というのも、じつは実数はその倍以上というのが実情に相違なかった。
 会場の出入口のあたりの混雑、混乱ぶり、それこそ手にとるがごとし。
 
  ……………

 この「第5回国際女性会議」は、日本政府主催である、が。
 もちろん政府がすべてを仕切れるわけでもない、運営をまかされた組織なり、団体なりがあるわけで。
 これでは、その人々のあいだに〝開かれた〟女性の時代の認識は希薄だった、と言わざるをえない。

 2時間余り待たされて、やっと受付。
 ぼくが受け取った認識票には、「Audience(傍聴人) 0930」の印字。
 「General(一般)」という認識とは別の、〝差別(好き勝手におしかけた有象無象!?)感〟がにおう気さえする。

 すでに、次のパネルディスカッションに進んでいた会場は、案の定の満員、寿司詰め状態。
 マララさんの基調講演のときは、もっと、立錐の余地もない状態だったろうことは、あきらかである。
 それを見越してか、会場外に2ヶ所も、大型スクリーンに実況中継の映像が流れ、そこにも多くの人だかりがあり、しゃがみこむなかには子どもたちの姿もあった。

 椅子を並べた宴会場の、向こう側には報道陣のカメラの放列、ステージを除いたのこる2方向(後ろと出入り口側)に立ち席(?)の傍聴者たちが椅子席にかぶさらんばかりに溢れた。

 ステージでは……
 マララさんは、このパネルディスカッションにも参加。
 途中退席したが、聴衆のほとんどが彼女の発言場面になると、一斉にスマホのカメラを壇上に向けていた。
 (彼女の表情、そして語り口は、ほかの大人のパネリストとくらべるまでもない輝きをおびて、活き活きとしており、誰の目にもほかに注目すべきなにものもなかった)
 
 いっぽう
 会議そのものは…はてさて…壇上と会場との空気には、やはりかなりの温度差が感じられるばかり。
 
 マララさんたち(ほかの来賓たちも含めて)は、会場外にこんな酷い行列場面があったことなどには気づきもせず、また知らされもしなかったろうと思うと、なんともやりきれない気分に浸される。
 後で、この日の模様を会場係の責任者は、上には「おかげさまでチョウ(超)満員の盛況でした」とでも報告したのだろうか……
 
 行列に待ち草臥れてしまったぼく自身、パネルディスカッション後の出入り混雑に巻き込まれるのはもうご免…で、徒労の時間はここまで、少し早めに会場を後にした。

 結局、マララさんが基調講演で語った、貧困や紛争を防ぐための女子教育の重要性の訴え。
「われわれの指導者は女子教育に投資しなくてはならない」
 や、これに応えて安倍首相が、
「二〇二〇年までに少なくとも四百万人の途上国の女性に質の高い教育の機会を提供する」
 と述べたことなどは、その日の夕刊紙上で見るしかなかったわけで。
 
 ホテルニューオータニの外に出て天を仰げば、四谷・赤坂見附の上空には花冷えの風。
 ぼくの心象風景に、ざんねん<女性の時代>はまだ名ばかりであった……