どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ちょっとヒトコト…フタコト…ミコト ~No.40~ 「まった」と「ひきょうものめ」

-No.2006-
★2018年03月20日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2932日
★ オリンピックTOKYOまで →  492日
★旧暦2月14日、待宵月・小望月
(月齢13.8、月出16:55、月没05:20)




★なめらかルール★
 
 「たんま」
 小さく叫ぶ。…と、
 遊び仲間のうごきがパタリと停まり。
 少しの間をおいて、ガキ大将格のひとりから「なんでぇ!?」とブーイングがかかる。
 「鬼ごっこ」遊びのときなら、理由は「クツが脱げたから」とか、なんとか。

 関東・湘南地方で、<ちょっと中断>とか<タイム>の合図であった。
 室内遊戯でも、「将棋」なんかでよく「たんま」があり。
 この場合は、(ゴメンわるいんだけどヤリナオシさせて)と詫びる気分。
 したがって、多用するのはヒンシュクであった。

 子どもたちの間での<暗黙のルール>、付きあっていくうえでの潤滑油みたいな役割があった。

 「たんま」の語源については諸説あるようだ、けれど、「待った」の倒語「たつま」から「たんま」に転じた、とするのが素直な気がする。

 じっさいのところ
 子どもの頃の「たんま」が、大人になると「待った」になった。
 叫びであり、脅しであり、言い訳であり、詫びる気分は希薄になり…要するに、より<自己主張>のつよいコトバに変じる。

 スポーツをはじめとするさまざまなルールに、「待ったなし」が採用されるのは、それだけヤヤコシイ事情や局面になりかねないからであった。

  ……………

 いや、もうひとつのニュアンスこめた「待った」が、いま、ある。
 それは、なんとも言えない〝不快感〟というか、正直すきなコトバではないが〝義憤〟といった感性の叫び。 「ちょっと待ったぁ」ダ。 

 ぼくは、しばらく前から、ことごとに、ひょっとしてこれは日本人の「民族疲労」状況ではなかろうか…と危ぶんでいる。
 (それは、あるいはもっと広く〝人類レベル〟で指摘されるべきことなのかも知れない、けれど)

 たとえば、日大アメフト部の悪質タックル問題。
 検察は事情聴取などの結果、当事者の監督・コーチを起訴に相当せずとし、原因は選手個人の受けとめ方にあった…というような結論にもっていった。

 ナゼなのか?
 世の中、直截に命じるより<暗にほのめかして命じる>ことが多いのは知れたことじゃないか。
 <教唆罪>というのがあるくらいだ。
 いくらスポーツマンの品がさがったとはいえ、まともな人間にできる反則行為じゃあるまい。

 千葉の小学4年生の少女が、父親の虐待に遭ってかわいそうに亡くなった事件にしてもだ、我が子を庇いもしなかった母親の罪はあるとして、1歳の妹をのこして連行するという警察の行いに非はないのか。

 母親自身がDV禍中にあったことなど考慮すれば、これ以上の不幸な事態を招かないための対処法がほかに考えれらたんじゃないのか。
 児童相談所も、学校だって、とどのつまりアノ程度のところでしかない。

 イジメ問題がおこるたびに、ぼくはいつも(親なら一緒に逃げてやれよ)と思う。
 解決の糸口が見つけられればいいが、どうにもならないときには、その場からのがれ離れるしかあるまい、それこそが親身、親にしかしてやれないことじゃないか。
 肝心の、その親にも守ってもらえなかったときの、子の無念を想ってみるがいい……

 そのほか、NISSAN事件の一連の推移、国家公務員の国民の方を向くことを忘れた政権忖度の姿勢、対する野党の調査力・質問力のいちじるしい低下ぶり、断続して絶えることのない企業倫理の失墜、アメリカ追従に終始してとても独立主権・立憲民主主義国家とは思えない現政権などなど、おかしなオカシナことばかり。

 このままで、ほんとうにダイジョウブなのか。

  ……………

 そんなダメ行いに向きあうとき、いちばん相手の胸に刺さる(響く)コトバは、ぼくの経験からして、
「卑怯者め」
 ほかにない。

 これなら、漫画世代にもズンと、突き抜けて通じる。
 乱暴狼藉な相手の反撃はあるだろう、けれど、それをも覚悟のうえで。
寸鉄ひとを刺す」
 この鋭利なコトバの切っ尖をいつも研ぎ澄まし、効果的に投げつける術を身に着けておかなければ、これからはイケナイようだ……