どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地東北2018さんりく巡礼 / <報告記19>-石巻市⑤-大川小学校

-No.1985-
★2018年02月27日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2911
★ オリンピックTOKYOまで →  513日
★旧暦1月23日、二十三夜の月
(月齢22.6、月出00:48、月没11:12)









◆大川小学校は「原爆ドーム」のような遺産になれるだろうか…

 雄勝半島の首根っこ、トンネルを抜けると北上川の畔〔ほとり〕

 新北上大橋のすぐ東、釜谷山根の地に石巻市立大川小学校(廃校になったいまは、跡)がある。

 毎年…毎度…の<定点ウォッチ>ポイント。
 いつも 素通りは できなかった…そのわけは。

 なにしろ、気にかかる。
 とにかく 訪れる人が 絶えることなく。
 いつも どこかに人影が 佇んだり 逍遥していたりする。

 震災・大津波から、しばらくの間は、<哀悼の祈り>で理解できた、が。
 4~5年の時が経つと、<跡>にのこる<遺構の行方>に、関心のうつりつつあることに気が付いた。

 誰しもが、わがことのように(ほっとけない)気分にさせられる、ようだった。
 自身を、関係者それぞれの立場に置き換えて、想うことがさまざまにあるようなのだ。
 たしかに、それほどの大事であった。 

  ……………

 なにしろ、あの大惨事である。
 児童74名(全校78名中)・教員10名(11名中)が死亡、スクールバスの運転手さんも亡くなっている。
 ……という死者の数は、学校の管理下にあって起きた事件・事故としては戦後最悪。

 だが、コトはそれのみにとどまらなかった。
 災害時避難体制の不備・不徹底、生徒たちを指導・誘導する側の教職員たちの間にさえ、意見・意向の対立があったり、それらが相乗して避難行動を混乱させ、渦に巻かれるがごとくにおおきな悲劇を招いてしまった。

 他所では、「津波てんでんこ」の考えと行動指針が、子どもたちにも徹底されて、その結果、全員無事の成果をあげていたりするというのに…あまりにも、この落差は酷にすぎた。
 
 大きすぎた犠牲が、のこされた〝教訓〟をより重苦しいものにした。
 しかも、そのあと始末にも混迷をきたしつづけるばかりであった。

 管理者側の責任を問う裁判の、一審は原告側の勝訴だったが、石巻市は(不可抗力の事実誤認がある、などとして)控訴しており、未だ決着を見ていない。

  ……………

 この日(18年8月30日)も、ボランティア・ガイドの説明を聞く中学生徒たちの姿があって。
 印象的だったのは、どの顔にも、とても事態を想像しきれない、困惑が見てとれることだった。

 べつの親子連れは、なにごとか話し合いながら、遺構のあちこちを移動していた。
 親子連れが歩む、すぐ隣りには裏山の裾が迫っている。
 その急な裏山は、津波の来襲を知り、教師の制止を振りきって駆け上がった、幾人かの生徒の命を救っていた。

 あのとき命拾いをした子らは、裏山の崖に逃げようとする危険を叱りつけた先生や、行動をためらったために津波に呑まれてしまった子らを、どんな想いで見とどけたことだろう。

 この地にもまた、ナンの根拠もナシに「津波もここまではこない」と、信じきっていた地元民があった。
 危ない裏山なんかより、一段上になった橋の袂の高台へ逃げようと言い張った人もあった、が、結果はそこもスッカリ津波に呑まれ……

 学校の管理下では、なるほど一糸乱れぬ集団行動が原則だろう けれども あのとき、わずかに命を救われた子は、迎えに来た親の車で個別に逃げのびたものだった……

 大川小学校は、震災遺構としての保存は決まっている(周辺一帯は震災記念公園に整備されることにはなっている)、けれども、その後世への伝え方などの調整は、これからのことになる。

  ……………

 ぼくは、この地に立つと、いつも「ここは(ヒロシマの)原爆ドームのようになれるだろうか」考える。

 広島の原爆ドームは、長い歳月を経て、多くの関係者の想いを汲みあげた末に、いまの姿がある。生半〔なまなか〕のことでは、ない。

 それと同じことが、いまの世にはたして、求められるものかどうか。
 ましてや、とても心をひとつに…どころではない現在までの混迷を想うとき、ぼくは暗然となるばかりだった。