どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ちょっとヒトコト…フタコト…ミコト ~No.29~  探検昆虫学者とプラントハンター

-No.1966-
★2018年02月08日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2892日
★ オリンピックTOKYOまで →  532日
★旧暦1月4日 → 上弦まで5日
(月齢3.6、月出08:31、月没20:12)


★〝分化〟&〝多様化〟果てなき未来社会からは〝雑学〟の領域が縮小していく★

 ぼくが、「中度難聴」の診断を受けた大学病院の<耳鼻咽喉科>には、「補聴器外来」という診療科目が設けられていた。
 心臓の担当は<循環器>だけれど、いまは<心不全外来>とか<ペースメーカー・埋め込み型除細動器(ICD)外来>といった専門診療科目がある。

 なにごとによらず、<専門分野>の<分化>はとどまることを知らず。
 そう遠くない将来には、<1分野・1科目に1人ずつの専門家>といった社会が実現していることになるのだろう。

 そうなると、1つの研究テーマを追求するのに、同じ分野だけのグループ研究では成り立たないことになり、少なくともいくつかの科目の専門家を集めたグループにまたがった、ときどきの目的に応じて集まり、その目的達成後には解散する、その繰り返しの<協働形態>がふつうのことになるだろう。

 すると、そこに必要不可欠なのは、なによりも、優れたコーディネーターになる。
 リーダーは、そのときどきに相応しい人材が協働のなかから選ばれればよく、従来のようにリーダー力優先の在り方ではなくなる。

 そんな将来、望ましい指向性で事業を展開しているのが、「Google」や「Facebook」であるらしい。
 また、いま、アメリカとの間に熾烈な情報産業の覇権競争を繰り広げる中国にも、活発な動きがある、と聞く。

 ところで
 いま、直接には上記の動向とつながりはない、けれど。
 ここに近ごろ、その活動ぶりに熱い注目を浴びている二人を、ご紹介しておきたい。


★探検昆虫学者/西田賢司★
*写真は発見新種「プラチナコガネ」

 昆虫だけで日本の何十倍、およそ35万種も生息する(そのほとんどに、まだ名前が付いていない)という、中米コスタリカに単身住み暮らして調査・採集・飼育と、まさに<昆虫中心>の生活。
 部屋の天井からは昆虫の飼育袋がズラリぶら下がり、押し入れには標本箱がぎっしり、いちど網を手に森に入れば、持参のゴミ袋がいっぱいになるまで昆虫採集に熱中する。
 そんな生活をつづけて、数々の新種を発見している。

 「探検昆虫学者」は自称ではなく、英名で「Exploratory Entomolojist(直訳すると探検の昆虫学者)」という職業。
 生態系のバランスを保つために、特定の植物を食べる未知なる昆虫を探し、研究している。したがって「探検家」ではなく「昆虫学者」だが、「探検昆虫学者」という肩書は彼の研究スタイルにぴったりだ。

 1972年、大阪府生まれ。
 中学卒業後、渡米、大学では生物学を専攻。98年からコスタリカ大学で蝶や蛾の生態を主に研究。
 著書『わっ!ヘンな虫 探検昆虫学者の珍虫ファイル』(徳間書店)ほか。 


★プラントハンター/西畠清順★
*写真は「アフリカバオバブ

 プラント・ハンターを名乗る。
 園芸植物の販売・仲卸業およびコンサルティング事業を経営する「そら植物園」と「そら植物園コンサルタント」株式会社(東京・渋谷区)の代表取締役

 創業のスローガンは「人の心に植物を植える」。
 「そら植物園」は取引量は年間250トンにもおよぶ、という。

 「プラント・ハンター」は「植物の保全と保護を動機とした植物採集」のこと。
 動物の「ハンター」が「周知の動物の命を奪い、私欲を満たす」のとは、まったく別物とされる。
 植物学者の塚谷裕一氏によれば「彼こそほんとのプラント・ハンターだ」という。

 西畠は、世界中をとびまわって日々、さまざまな植物と接している。
 2017年には「めざせ!世界一のクリスマスツリーPROJECT」で物議をかもした。
 
 1980年、兵庫県生まれ。
 幕末からつづく家業、花と植木の卸問屋「花宇」の跡継ぎ。
 著書『プラントハンター: 命を懸けて花を追う』( 徳間書店)ほか。
 
  ……………

 むかし、学問にならない(なっていない)知識領域を「雑学」と呼んでいて、じつはぼくも、その「雑学」派の徒だったわけだ、が。
 気が付くと、いつのまにか、いまは「雑学」というジャンルの立派な学問になっていて、ビックリさせられた。

 知識の分野が、さまざまに分化・多様化するのは必然だし、いいことだ、が。
 ぼくには、それによって「雑学」の領域が狭まることについては、やや憮然たる想いものこる。
 せめて、〝遊び〟というか〝ゆとり〟の部分として、人生にのこしておいてほしい気がしている。