どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

平成天皇の軌跡…… /             美智子皇后とともに歩んだ<象徴の旅路>

-No.1939-
★2019年01月12日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 2865日
★ オリンピックTOKYOまで →  559日
★旧暦12月07日 → ☆上弦まで2日
(月齢6.4、月出10:28、月没22:20)






◆平成天皇はひとまわり目上の<ひと>

 いよいよ代替わり。
 譲位の年を迎えるにあたって、この年末年始は「平成の世をふりかえる」番組の目白押しでしたね。

 平成の天皇は、歳が、ぼくとちょうどひとまわりちがい。
 (そう…亡くなった永六輔さんと同年にあたります)
 ぼくらには、ぼくらの世代なりの天皇観と変遷があったことに、いま、あらためて想いいたっているところでもあり。
 「平成しめくくり」の年始に、少しぼくの想いを述べさせてもらおうと思います。

  ……………

 ぼくは、戦後すぐもいいとこ、1945(昭和20)年8月16日終戦翌日の生まれ、ですから。
 昭和天皇玉音放送を聞いていませんし、「人間宣言」のあったときも未だ満1歳にもならない赤子でした。

 うちの父は、次男坊のいわば分家筋。嫁いできた母も次女、だったせいでしょうか。
 うちには、よその旧家に見られるような、(明治と昭和)天皇・皇后両陛下の御影(みえい=肖像写真)の掲額もありませんでした。

 父は、会社の労働組合に属して中道寄りの革新、いわゆる進歩的な考えをもっていたようです。が、商家の出だったせいか天皇家には親愛。
 したがって正月にはよく、子どものぼくらを連れて皇居へ一般参賀に出かけ。ぼくは、そのあと街に出てお店で食事させてもらえるが楽しみで、ついて行ったものでした。

  ……………

 その頃の昭和天皇陛下と皇太子殿下は、まだまだ雲の上、別世界の存在で。
 なのに、身形〔みなり〕は確然とちがっても、カタチは同じ人間なのが、不思議な気がしていました。

  ……………

 ところが、いっぽうで現実
 時代は確実に変わってきており…その証拠に。
 昭和天皇は、うけこたえのときに「あっそう」と、ちょっと詰まりぎみに言うクセがありましたが。これをガキどもが真似、ぼくの名字に引っ掛けて「あっそう(浅生)天皇陛下」と、ずいぶん、からかわれましたっけ。

 戦前までは、とても考えられないことだった(…でしょう)。
 
  …………… 

 実際、幼少年期の皇太子(平成天皇)は、宮中教育を受けて、とうぜん、プリンス意識がかなりつよかったらしい。
 けれども、ぼくら庶民には関わりのない世界は、関わりなくすぎていきました。

 そんな皇太子が、ぼくらにも身近な存在になりはじめたのは、勉学に通う学習院には一般人の「ご学友」が存在する…などの報道があって、これがとても新鮮に思われた頃から。
 じつは、思わず(へぇ)とぶったまげるほどのコトがあったのでしたが……
 
 しかし、なんといっても別次元の立場にある<ひと>のことでしたから。
 その青春、結婚、天皇即位、象徴の旅、そして退位にいたるまで、人知れず、ずっと心に秘してきました。

 それは、庶民が言う渾名〔あだな〕、「ご学友」が皇太子に付けた愛称が「ちゃぶ」だった。
 もちろん週刊誌ネタでしたが、正直ぼくは(オイオイ、いいのかょ)と思った。

 いわれが「茶色い素焼きのブタ」、古い時代の蚊取り線香立て…ですよ。
 それが、また、じつにウマい。
 皇太子の肌色をピタっと言いあてて妙でした。
 ぼくにとっての人間皇太子は、このときから始まっています。
 (このさい、ついでに告白しておくと、ぼくはその後、うちに飼われたネコに「ちゃぶ」と名づけています、もちろん、ぜんぜんそんなつもりはなくて、ただ毛色が茶色と白のブチだったから…にすぎませんでした…けれども)
 
  ……………

 つづいて、(実感としては)間もなく、お妃えらびが世間の話題を攫うことになり。
 実際にそれがスタートしたのは二十歳〔はたち〕の頃からだそうですが、現在の皇后美智子さまの存在が知れてきたのは、昭和30年(22歳、ぼくはまだ10歳になったばかり)代に入ってからだった、ようですね。

 「テニスコートの恋」の始まり。
 「ミッチー・ブーム」のさきがけでした。
 (影響をうけてぼくも、生意気にテニスに目覚めた覚えがあります)

 ところが、ここに旧時代勢力(…と庶民の目には映った)の壁が立ちはだかります。
 「お妃候補」
 皇太子「意中の人」として、正田美智子嬢の名が鮮明になってくるにつれ、皇太子の母、香淳皇后を筆頭に主だった華族女性陣から猛烈な反対の声があがって、それがマスコミを通じて庶民に伝わる。

 巷の<声なき声>は騒然となりました。
 庶民大衆の間には、「てやんでぇ」気分の半面に、平民がそんな雲の上にあがったら人身御供になるようなものではないか…という心配、同情も大きかったからです。

 そんなこんなで、具体化してきた話しは1957(昭和32)年、正田家がいったんは宮内庁の打診に「おことわり」。

 けれども、皇太子みずからが「意中の人」をあきらめず。
 信念と篤実の教育者、小泉信三さんらに背中を押されて、みずから直々の結婚申し入れ。
 そのキューピッド役(電話のとりつぎ)をつとめたのが、「ご学友」の織田和男さん(陸上三段跳びのオリンピック選手織田幹男の息)だった、という。

 このあたりから、俄然、ドラマチックになってきて……

 1969(昭和34)年の婚約発表は、テレビ(このとき一気に35万台が普及)で1500万人が観た、といわれます。
 (父が家電メーカーに勤める、わが家にテレビが来たのもこのときだったと思います)

  ……………

 たいせつなのは、このときから。
 「はじめての平民からの皇后」美智子さま(ミッチー)をとおして、皇太子(現在の平成天皇)は庶民大衆から親しまれる存在になっていきました。
 そのことを、だれよりもご本人が忘れがたいのだ、と思います。
 それは、そうでしょう。ともあれ
 まさしく快哉、快挙でした。

  ……………

 それからの月日、さまざまに手がけられた<改新>ごとの、そのすべてに美智子さまの将来への思慮、協力があったことは、いまさらあらためて言うまでもないでしょう、けれど。

 ひとつ…ふかく心にのこる風景は
 昭和天皇崩御による即位を経て後の、平成天皇・皇后の<象徴の旅路>。

 1959年(昭和34、ご成婚の年)の伊勢湾台風の被災地を見舞った折には、これまでどおりの立ち姿だった平成天皇(当時は皇太子)が、1986(昭和61)年 三原山噴火災害の避難所を訪れたときには、床に膝をついて、同じ目線で寄り添う、真実〔まこと〕の対面になっていました。

 これなども、美智子皇后の<こころもちの所作>に学ばれたにちがいなく……
 この真摯、親身な<慰霊・慰問のスタイル>が、お二人の長い<象徴の旅路>に澄明な彩りを添えて、この国の民にとって忘れがたいものにしました。

  ……………
 
 そうして、この1月2日。
 平成天皇として最後の一般参賀には、15万5,000人にもおよぶ人の波。
 いつもは5回の「おでまし」が、それでも見納めきれない人たちのため異例のカーテンコール、2回ふやして計7回の「おでまし」になった。

 昨年末にひきこまれた風邪のせいか、天皇の「新年おめでとう」の声は鼻声でしたが、「ありがとう」と頭をさげる姿に、人々は涙しました。
 これまでにくらべて、外国人や若者の姿も多かったといいます。

 「平成の世に戦争がなくてよかった」
 さきの大戦中に生まれた平成天皇にとっては、これにまさることはなかったでしょう。

 いっぽう、皇后美智子さまには、どんな感慨があったものか。
 皇室に嫁ぐ前には、まんがいち「革命」などという非常の事態がおこらないともかぎらない…おそれさえもあったかと思われ。
 いま、たしかな手ごたえ、民衆の支持を得てあることに、万感せまるものがあるのではないでしょうか。

 幸いにして、跡を継ぐ長子・皇太子、次子・秋篠宮もまた、平成天皇の意思を体するものと察せられます。

 あと、望まれるのは、<象徴の天皇を愛する>庶民、大衆の思案が、天皇の<平和への思い>と、どうか行きちがうことのないように……

 もうひとつには、マスコミ方面の、興味を惹く自由なもの言いとはいえ、明らかに<度のすぎた>中傷記事、のたぐいにもとめられる最低限のモラルでしょう。

 <贔屓の引き倒し>の誤りを犯して、国の行く末を脅かしてはいけない、と考える者です。