どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ニッポンと日本人の課題 -その2- /     観光客・就労者・移民・難民を受け容れられるのか!?

-No.1914-
★2018年12月18日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2840日
★ オリンピックTOKYOまで →  584日




◆いずれ重大事犯がおきそうな気配を感じている

 2020年にオリンピック開催をひかえて、政府の「観光立国」肝入りもあり、このところ訪日外国人旅行者が急増している。
 それにともなって、国内地域の生活環境が悪化する「観光公害」(オーバーツーリズムとも呼ばれるらしい、なにがオーバーなのか…が問題だ)が言われるようになった。

 交通でも、宿泊でも、その他もろもろでも。
 文化の違いからくるものも、マナーの悪さによるものも、ひっくるめて、正直かなり深刻だ。
 …とボクは感じている。

 政府の意向に沿って観光庁は、今後の外人観光客増のためにも「観光公害」の実態を把握すべく、調査にのりだした、というのがことし秋10月のこと。
 「住んでよし、訪れてよしの地域づくり」という、観光庁の狙いには、庶民(現場)の本音にはフタをして「ええかっこしい」な〝建前〟が先走っている気がしてならない。

  ……………

 ながらく旅の世界に身を置いて、いま現在も意識は旅人でありつづける、ぼくが。
 (日本人はガマンしてるなぁ)
 (このガマンが限界を超えるとアブナイ)
 …と、コワイほどに感じている。

 その実態を正直に言えば、相手の素性が知れない薄気味のわるさと、コトバが通じないことが壁になって、なんとか、その場その場をやりすごしているにすぎない。

 きっかけがあれば、ガマンが切れれば、いつ衝突してもおかしくない。

 告白すれば、ぼく自身にも、あやうくトラブルに巻きこまれそうになった、あとで想うとゾッとすることがあった。
 ……………

◆暮れも近づく12月8日未明

 国会で「改正入管(入国管理)難民法」が、さまざまな課題満載のまま、カンジンの国民の意向を問うこともなしに成立。
 いよいよ、日本も本格的に「移民・難民」問題に直面せざるをえなくなった。

 これまでの、海外からの就労者に対するニッポンの態度に、さまざまな事実のあったことが、明らかになっている。

 技能実習制度を隠れ蓑に、低賃金での酷使がまかりとおったこと。
 いっぽう、介護の現場などからは「彼らがいなければ成り立たなかった、感謝している」との声もあり。

 また、沖縄県の農場では、なにかと不便で賃金も都会にくらべて安い、地方に送り込まれたアジアからの若者たちは、少し自由になるお金ができれば「もう居ついてもらえない」、彼らの心情を理解しながら嘆く声もある。
 都会と地方の格差は、ここでも広がるばかりだ。

 そうして事情通は、この「騙されたにひとしい扱いと低待遇に落胆した」東南アジアの人たちはいま、「もう二度と日本には来たくない」と嫌っている、と警告する。

 それでいいのか…これは大きな問題だ。

 いったいニッポンというのは、ナニサマなのか。
 なるほど近代の黎明期、ニッポンは危うく欧米列強による植民地化を免れはした。
 それをいいことに、こんどは欧米列強の先例にならって、ほんらい友邦たるべきアジア諸国を喰いものにしようと、言うのだろうか。

 先の大戦という、犯した大きな過ちの、ツケの払いに悩まされながら、また、同じ過誤を繰り返そうという、その気が知れない。

 そもそもが、いまのニッポンの若者たちが嫌う職種を、外国からの就労者たちに肩代わりしてもらっていながら、まるで奴隷のごとくに扱き使おうとする、厚顔無恥な神経が、信じ難い。
 (いっぽうで、もうひとつには…ところでホントに日本国は日本人の人手が不足しているのだろうか…という疑問もぬぐいきれない)

 ニッポンに来て働いてもらおうという、こっちは「お願いする」立場にありながら、しかも搾取が念頭にあるなんていうのが土台、怪しからんのだよネ。

 外国人にとって、ニッポン語を学ぶことがまず難しい、のは想像にかたくないし。
 にもかかわらず、ニッポンの義務教育は外人を対象にしていない、ときている。
 そりゃ、なんのこっちゃ。

 相手にされなくなってから頭をさげたって…遅いぜ。

◆押しかける<難民の恐怖>にニッポンは耐えられるか…

 溢れ膨れ上がる〝難民〟の大波に、〝恐怖〟するのはドイツやアメリカばかりじゃない。
 同じような事態に直面して、日本人は「彼らを受け容れろ」と言えるのだろうか。
 ぼくは正直、もうしわけないが、そんな気にはなれない。せいぜいが、でもパニックにはならない、程度のことだろう。
 (苦悩深かったドイツのメルケルさんは首脳の座を降りることになったし…アメリカのトランプ大統領の表情には、隠すことのできない恐怖心がまる見えだ…)
 
 そこで、よそごとはさておき。
 ここで、極東の島国、日本のことを考えておきたい。

 これまでのニッポンに、大掛かりな<難民>や<移民>はなかったわけだ…けれど、これからは、それでは済みそうにない。
 
 そのときニッポンは、ニッポン人はどうするのか。
 国が右往左往する前に、マジメに考えておいた方がいい。

 ぼく、思うに。
 少なくとも稲作文化が根づいてからのニッポン。
 <島国>に住み暮らすニッポン人は、<外人>を受け容れることに慣れていない。
 気分はよくないが<閉鎖社会>といっていい。

 ヨソの国々と陸続きで国境を接する国々とは、根本的に環境がちがう。
 とても「耐えきれまい」と、ボクは思う。

 社会学者の上野千鶴子さんは、移民政策について。
「私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っている」
 と言う。

 「移民は日本にとってツケが大き過ぎる」、日本は、アメリカ・ファーストに対して「ニッポン・オンリー」の国、だから「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」と。
 ぼくも、博愛主義を気どって、キレイごとを言って、<お茶を濁す>気はない。
 無理なものは無理。

 そのとおりだと思う。
 ニッポン人の民族性にとっては、超えることのできない困難がつきまとうだろう、ザンネンながら。

 融和・共生の努力は必要だけれど、それには長い時間がかかる。
 「稲が、植えてから米の収穫までには、きまった時間が必要なように」
 と、哲学者の内山節さんは言う。
 自然〔じねん〕に必要なものをナシにはできない、ということダ。

 これから将来は、慣れていくことが大切にちがいない、けれど、そのためには、それなりの歳月が必要不可欠である。
 そうして、何十年か先になってはじめて可能な話し、じゃないのか。
 
 上記につづけて、上野さんは言う。
「日本は人口減少と衰退を引き受けるべき」
「平和に衰退していく社会のモデルになればいい」
「緩やかに貧しくなっていけばいい」
「国民負担を増やし、再配分機能を強化する」
「つまり社会民主主義的な方向です」
 …と。

「ところが、日本には本当の社会民主政党がない」
 …と。

 この論考には
 若い世代からは、異論があろうかと思う。とうぜんだ。

 どうしたい?のか、どうありたい?のか。
 他人(政府)まかせにしないで、考えなきゃいけない。

 そうして、世代間の議論を、していこう。
 そうして、道を見つけていく、ほかにない。
 
  ……………
 
 ぼくは、また、思う。
 「文化」は、しっかり根づくのに時間がかかる…それも、かなり。
 いっぽう。
 「文明」が広がるのはアッという間だ。

 文明の先にあるのは、「滅びの美学」。
 先に辿り着き、謳歌したものから順に、それを享受できる……

 やっぱり、それはコマりますか?
 (ちょっと待った!)ですか……