どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ニッポンと日本人の課題…2019~…-その1-/<差別>感情はぐくむ<差別化>意識

-No.1913-
★2018年12月17日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2839日
★ オリンピックTOKYOまで →  585日

 2018年の流行語大賞に平昌冬季オリンピックカーリング日本代表の「そだねー」が選ばれました。
 「いいね」の親しみをこめて「そだねー」!
 いっぽうでは日本も、世界の情勢も「そじゃないねー」 問題がいっぱい「やだねー」デス!



◆〝差別化〟する心理と教育と

 このところ、また、かなりの程度に、ニッポンの「差別」意識が蔓延している。
 「ヘイトスピーチ」にしても、さまざまな「ハラスメント」や「ジェンダー」にまつわることにしても、あるいは「文明と非文明と」のとりあつかい方にしても、なにしろ「差別の根っこ」は深く、そして広範にわたる。

 「差別意識」は、おそらく人間社会全般の、もしやすると全生物にひとしく存在するのかも知れない、が。
 ともかく、ニッポン人の体質にも、どこの国どの民族にも負けず劣らず「差別」的な意識が浸みこんでいるものと見える。

 ただし、それも極く極く古くからのことではない、と思われる。
 少なくとも、民族の初期、西南の方角からであったろう、海を渡って来た人々は、むしろ孤独を怖れ、同じ人類には親しみをもって接したであろうことは、まちがいなさそうだ。
 
 それはニッポン人に限らない、アフリカの大地に生まれ、この地球上に生息圏を広げていった人類に共通の心情でもあったろう。
    
 それが、進化とともに、文明化とともに「差別化」することで、より多くの利便・利益を獲得しようとするに至ったのであろう。
 つまり、いずれの民族にしても、それほど遠い過去からの「差別意識」ではなかった。

 文明の進捗にともなって「差別化」は一気に加速し、加熱していった。

  ……………

 ぼく自身、ときに驚く。
 いつのまにか「差別化」して生き抜くことを覚えていた。
 (そうしなければ生きられなかったか…いまになって顧りみるとワカラナイ…けれど)

 家の両親は「差別」をヨシとしない人たちだった、が。
 やはり他人には負けてほしくないのであり、他人に勝る道を身につけさせようとした。

 学校の先生たちにしても、あらわに「差別」的な人は稀にしかなく、少なくとも表(面)は「平等」な人たちだった。
 けれども、人が生きて伸びるためには、他との「差別化」が必要なことを、少なくとも否定はしなかった。

 そうして、ぼくは、自身がけっして「差別」的な者ではないと自覚分別しつつ、しかし自然〔じねん〕に、他人と「差別化」する術を身につけて育っていった……

 それは、ぼくがまちがっていたのだろうか。
 育てる側の人たちが、まちがっていたのだろうか……
 どちらもまちがってはいなかった、と思うのだ、が。

 いま現にある、さまざまな「差別」意識の根っこを洗ってみたとき、それは紛れもなく「差別化」意識と同じ根っこに繋がっていた。
 だから、ぼくにも「差別的」な心情が「ない」とはいえない。
 いや「ある」と認めざるをえない。
 ただ、どんな他人もその存在を「差別」してはいけない、「差別」しないように気をつけてはいる。

 だから、ぼくは「自分に差別意識は断じてない、潔白だ」と強弁はできないし、する気もない。
 ただ「差別する者」にはならないように気をつけます、と。それしか言えない。

 きっと、「差別意識など露もない」と言える人は「ない」、にチガイナイ。
 「差別意識」の根絶もまた、あらゆる教育の場でつづけられるしかない、のだろう。

 要は、「差別化する」よりも「他者の存在を認める」ように、薦めていけばいい。
 その心もちを、もっとも理解しやすいのは「賢い子」であるはずだ、が。
 現実には、賢い子ほど上手に「差別化」する。
 とても、とっても、厄介なことだ。

 もうひとつ厄介なのは、「差別される側」が立場の弱い者であるばかりか、「差別する側」もまた同じ弱い立場にあることが多い、という事情だ。
 結果、「弱い立場の者」が、じつは、同じ弱い立場の者を踏み躙り。
 さらには、それをいいことに、「強い立場の者」が涼しい顔で高見の見物をきめこむ、という、「最悪の状況」が現出する。

 絶えることなく現出しつづける。

  ……………

 「平等」ほど難しいことはない、のかも知れない。
 人類は、いま、「文明化」「発展のとき」から、「成熟化」「克服のとき」への転換期にある、気がする。
 そうして、これまでに存在したどんな文明にとっても、「成熟すること」には「滅びの美学」が共存した。
 「滅び」を怖れない智慧こそが、究極もとめられる至高のものかも知れない。

 固陋な頭の者は滅び、新鮮に生まれ変わっていく。

 それをくりかえすことで、じわじわと、新たな意識に塗り替わっていくしかない、のかも知れない。
 人類もまた、やっぱり、数多ある生命のひとつにすぎなかった……