どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地東北2018福島・巡礼/ <報告記23>-伊達市-もんもの家

-No.1885-
★2018年11月19日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2811日
★ オリンピックTOKYOまで →  613日






◆〝遠い〟できごとだった原発事故

 伊達市の地理は、東隣り相馬市、西隣り福島市に隣接、宮城県境に位置する。
 古くは、伊達(仙台)藩発祥の地。

 北海道の噴火湾沿いにも、同じ名の伊達市があって。
 (震災のあと、伊達藩ゆかりの亘理町いちご農家の人たちに声をかけ、移住生産を実現したこと…そのいきさつ、その後のあれこれについては、このブログでもくりかえし報告してきている)
 市の成立では、北海道の方が先で1972(昭和47)年、福島県の方は2006(平成18)年に伊達市になった。

 福島盆地、平野部の一画を占め、県政の中心福島市を支える立場にある現在は、その衛星都市的な役割もになって経済活動も活発、人口も多い。
 湾岸の相馬市や南相馬市にくらべたら、ずっと都会的な〝街〟…といっていい。

 そんな内陸の街も、東日本大震災のときには、人が立っていられないほど大きく揺さぶられた。
 でも、地震の揺れだっけだったら「怖かったね」くらいですんだろう。
 
 ……………
 
 ちなみに、伊達市(人口6万人余)の震災被害を見ておくと。
  〇建物全壊  25戸( 25世帯)
  〇建物半壊 239戸(242世帯)
  〇震災関連死  1人

 ……………

 その直後におこった福島第一原発の爆発事故が、そこからは〝遠かった〟はずの街に住む人、とりわけ出産・育児期にある若いお母さんたちに、思ってもみなかった大きな揺さぶりをかけ迫ってきた。
 
 ……………

 ぼくは震災後、はじめて伊達市を訪れる。
「木を見て森を見ない」(細かいことに気をとられて大きく全体をつかまない)
 箴言を忘れたわけではなかった、けれども……
 手がかり、とっかかりとなるものがなかった、こともある。

 このたび「伊達もんもの家」を紹介する新聞記事に出逢って、きっかけが掴めた。
 「もんも」というのは特産(収穫量福島市に次ぐ県内2位)モモ(桃)のこと。
 発音からして児童語からきとものではないか。

 ちなみに、ここ伊達市の梁川〔やながわ〕町は、干し柿(別名、吊るし柿)のひとつ「あんぽ柿」発祥の地でもある。
 いまどきの人たちにも<ドライフルーツ>感覚で親しまれている。

 ……………

 ところで、さて、その「もんもの家」。
 所在を探しあてるのに、クロウした。
 
 湾岸でもこれまでに訪問のクロウはずいぶんあって、それは、途中の道をたずねたい人さえ見つからない種類の困惑だったわけだが、〝街なか〟の伊達市では逆に、他所者にとっては迷路に挑むような種類の困難さだった。土地柄さまざま、人間模様もさまざまだ。

 ともあれ、ようやく探しあてた「もんもの家」。
 そこは、放射能汚染をのがれて避難体験をした人たちが集まる「子育て世代と高齢者交流サロン」。
 親子でくつろげる「おしゃべりと学びの場」でもある。

 爆発のあった原発からは北西へ約60km、避難指示区域にもならなかった伊達市だ、けれども。
 市域のなかには放射線量の高い地域もあって、約900人が県外に避難。
 いま現在も、帰還した人より避難をつづける人の方が多い、かも知れない。

 その多くが、放射能の影響のよりおおきいことが懸念される、子どもを抱えるお母さんたち。
 彼女たちが同時に抱える、さまざまな心身と環境の問題や、かずかずの疑問や不安を、心おきなくうったえて相談でき、話し合えもする場、がもとめられていた。

 「もんもの家」の母体は、2000年からつづくNPO法人「りょうぜん里山がっこう」。
 しかし、そのたいせつな体験フィールドの里山に、いまは不安がいっぱいだ。

 伊達市には、除染が十分ではない地域もある。
 また、公共の場の除染にはオカミからの助けがあっても、個人住宅の場合は自主除染であったりもした。

 そんな状況で「ハイ安全です」といわれても、安心できないし、子どもを外で遊ばせることもできない。
 そんな、困惑するばかりの環境と境遇におかれたお母さんたちを支え、どこまでも寄り添う場が「もんもの家」。
 そこではいま、託児つきパソコン教室や放射線測定会なども開かれるが、それはあくまでも心をひらいてくれる環境づくりをたいせつに、そのさき個々の事情にかかわることには、つとめてふれない。

 ……………

 訪れた日は、予定された会合もないふだんの日。
 みずからも避難体験者のスタッフのうち、お二人に逢ってお話しをうかがうことができた。

 それもインタビューではなく、ご自身もふくめた避難体験にまつわるあれこれの話しを、四方山〔よもやま〕ふうに。

 ここでは、それに、昨19年にまとめられた『避難体験記録-原発事故に揺らぐ自主避難者の想いと決断-』に寄せられた、14人の避難体験をまじえた感想としたい。

 彼女たちの避難体験はその多くが、パートナー(夫)と相談のうえ、もしくは親族縁者・友人知人のすすめで始まっている。同じ子育て世代といっても、みずからも職をもつ人もいれば、専業主婦もいて、立場もいろいろだったけれど。

 彼女たちにとって原発は、こんどのことがあるまで、学校でまなんだ程度より深い知識も意識もない、縁〝遠い〟もの。それだけに不安は大きく、さまざまな情報に気もちを揺さぶられ、苛〔さいな〕まれつづけた。

 避難先に山形県が多かったのは、県庁所在地間(福島市山形市)の距離が高速道でおよそ1時間ほどと近かったこと。それは、なにより、仕事で故郷を離れられない夫(子どもの父親)との距離(時間も気もちも)を縮めたいため、そうしてまた、それが自身をなっとくさせ、慰めになることでもあったから。

 福島からの避難者が他所では忌避されることを知って、プレッシャーを感じた人があり、いっぽう、みずからは避難しない人たちからの、無理解で冷ややかな目に晒された人もいた。
 故郷にのこって元気にすごす人たちを見ると、(避難したじぶんたちの方ががわるかったのか)と思えてしまったり。

 子どものためを思ってした避難が、子どもの心を不安定にし、それがひいては自身の不安定にもなり、そうして夫との不自然な関係がもたらすさまざまな不安定こそが、きわめて痛切だったこと。

 避難がもとで親族との軋轢があったり、見知らぬ土地での生活に戸惑ったり、慣れるまでは引き籠り状態で耐えた人もある。
 しかし、おおむね子どもたちは、父親と離れて暮らさなければならない理不尽に泣いたりしがらも、環境に順応する知恵も力も身につけているようだった。
 それにつられるようにしてお母さんたちも、避難先で出逢った人たちとの交流に慰められ、遠く離れた地への〝保養〟に癒されたり…もあった。
 
 帰還までの時間経過も人それぞれだったけれど、故郷に戻るきっかけのほとんどが、出産であり、子どもの就園・就学であった。なかには夫や両親に説得され、じぶんの気もちはなっとくできないまま帰還した人もいたけれど。

 帰還にあたっては、そのよろこびと同時に、避難先でうまれた新たな親交、親切にしてもらった人たちとの別れに、また別の涙を流さなければならなかった。

 そうして、このたび、人生の一大事をのりこえたいま、お母さんたちに共通するのは。
 国や社会や人に対しての<気づき>であり、わたしに芽生えた<自覚>であり、ものごとを考えたり行動したりするときの<自主性>と、それにともなう<自覚>のつよさであった。

 原発の爆発事故という、未曽有のことがもたらしたものが、つまるところ〝それ〟だった事実を、なにはともあれ、ひとまず、それぞれの心にとめておきたい。

 それと、もうひとつ。
 原発に近い沿岸部で被災した人たちと、(少し離れて)〝遠い〟内陸部で被災した人たちとの間に、じつはどれほどのチガイもなかったことも、あわせて心にとめておきたいと思う。

 ……………

 それにしても
 原発爆発事故という未曽有の大波瀾が、人々の心にのこした傷の大きさ深さを、あらためて思い知るにつけ。
 それらの人々に、けっして親身には寄り添おうとはしないこの国や、いまはもうまるで他人事だったかのように振る舞う電力会社とは<ナンなのか>を、あらためて厳しく考えないわけにはいかない。

◆余話

 この2018福島巡礼、取材行は7月後半のことだった。

 ことしの「夏の甲子園」は、秋田代表「金足農高」フィーバーで沸いたわけだが、それもすでに<すぎたこと>、時はすぎゆくまま…だけれど。

 福島代表は聖光学園、こんかいは早々と甲子園を去ったが、近ごろ実力校にのしあがってきた。
 この聖光学園が伊達市にあること、他所の土地人にはあまり知られていないと思う。
 ときは、地方予選がおわって「いざ甲子園」の時期。

 ぼくは、伊達市教育委員会に「夏の甲子園」出場のお祝いを述べに行った。
 冗談ではなしに、それが挨拶のコトバだったが。

 訪問の目的は、「2020年東京オリンピックの聖火をバイオメタンで燃やそう!」プロジェクトへの協力をお願いするため。
 たがいの健闘を祈って、エールを交換してきた。