どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「羽化」の蝉の繊細さ「空蝉」の儚さ…そして蝉の死にざまの「ぶざま」さを想う

-No.1851-
★2018年10月16日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2777日
★ オリンピックTOKYOまで →  647日


*再開発でつぎつぎと変貌をとげていく渋谷に、またひとつ、新しい顔「渋谷ストリーム」が誕生した。水流のアートに改修された渋谷川の畔に、雑踏を忘れさせるスクエア(広場)ができ、ホテルやイベント・ホール、さまざまな店舗が入る複合ビルも、オープン・スペースの階段を設けてスクエアの仲間入り…だが。そこには〝大都会の脆弱性〟、災害からは逃れられそうにない危うさが潜むことを感じとってしまうボクは やっぱり へそ曲がりなのだろうか……*




◆この夏のこと

 秋田大曲「全国花火競技大会2018」(開催は8月25日)、3時間の番組を録画で観て、ボクの、この夏は終えた。
 <なごり惜しい夏>じゃぁなかった。

 炎暑中の遠出…を避け、残暑の8月も晦日〔つごもり〕に近くなってから《11.3.11》被災地東北遍路の旅に出たら。
 大型台風に後を追われる羽目になって天候不順つづき、津軽海峡を前に下北半島の下風呂温泉で強風はなんとかやり過ごしたけれども、翌日のフェリーは荒天で欠航。

 船待ちの9月6日、未明には大間港の安ホテルで北海道胆振東部地震(最大震度7)に揺さぶられ。
 それでも、なんとか、全日程をこなしてやっと帰宅したら、早や肌寒い天候になっており。

 さらに、それでもなお、まだ(これでもか!)とばかりに、大型秋台風の襲来が二つもつづいて……
 わが家に、伊勢湾台風(ぼくがまだ若い頃の1959年-昭和34ーに襲来した当時最強勢力のこれも秋台風だった)以来の強烈な揺さぶりをかけ。
 (ハイこれでおしまい)とばかりに、パンパンと手を叩〔はた〕いて行きやがった。

 そういうわけで<なごり惜しい夏>ではなかった今夏だけれど、ボクの脳裏にはこの夏の亡霊…<焼け棒杭>みたいに燃えのこっているものがある。それは……








◆「空蝉」のきみよ、その<死にざま>はないだろう!

 ……ということであった。

 もう少~しマシな斃れかたはないのか。
 ぼくは、暑熱に噴きだす汗を拭いつつ、毒づいたものだった。
「いいかげんしろよ、みっともない」

 あなたは(なんてヒドイことを…)とお思いだろうか。
 ならば、訊ねたい「あなたは蝉の死にざまをご存知か?」と。

 そんな些細なこと、いちいち覚えちゃおりません…だろう。きっと、そんなところだ、誰にしたって。

 じつは<見ても見ていない>方がほとんどだろうし、(そういえば…)といま想いだした方も少なくないはずであり、実際のところ、鳴き声はイヤってほど聞いていても、死にざまなんか見たこともない人だっているかも知れない。

 ……………

 そうなんデス!

 蝉の死は あからさま すぎるほどに「ポト」である。
 ところかまわずに「ポトッ」と落ちて、天を恨みでもするように足掻いて、やがて、そのままに死ぬ。
 少しも、隠れようとする風情のかけらもなしに……
 
 蝉の、成虫になってからの寿命は、およそ1ヶ月くらいだろうといわれる。
 思ったよりも長い…ようだが、要するに、幼虫時代も通して、蝉の生態は不明の闇のなか、飼育もきわめて難しいことが大きな要因らしい。
 
 天敵は、蜘蛛、蟷螂、鳥類。
 幼虫時代はモグラやケラなど、が知られており。
 かなりの数が犠牲になっていると思われる けれども それを上まわる数で凌いでいるようなのだ。

 ……………

 ぼくら人の目にふれるのは幼虫が土中から這い出し、<羽化>するときから。
 <そのとき>を迎えた幼虫は、夕方、地上に出てきて、日没後に羽化をはじめ、夜間に翅を伸ばし、天敵の現れる朝までに乾かして、飛翔できるようにする。

 ぼくが運よくわが家の庭で出逢い、撮影できた場面も早朝のことだった。
 (写真=下)

 蝶の場合もそうだけれど、<変態>する昆虫の羽化は、まったくといっていい無防備なとき。
 しっとりと濡れていた翅が乾くのを、ジッとひたすら耐えて待つ…透けて見える濡れ羽が、やがて力感を備えたものになるまでの時は、神秘としか表現のしようがない。

 けれども、この密やかな儀式を目にするチャンスは限られ、ふつうに目にできるのは羽化後の抜け殻。

 「蛻〔もぬけ〕の殻」という表現は、「身抜け」からきたものに違いない。 
 人はそこに、儚い命への感動と、生きることの無常(もののあわれ)を想い、託してきた。
 (中国では、生き返る=復活の象徴と見るという…文化のチガイを痛感する)

 「空蝉」(うつせみ=抜け殻)は、「現人」(うつしおみ)の読みが訛ったものというが、つまりは「現身(うつしみ)」にことよせている。

 ……………

 そこまでの「蝉」の存在感は、とてもよくワカルのだ。
 …が、お仕舞いがいけない、てんで締らない。

 ものの本には、「蝉の翅は発達して飛翔能力は高い」と評価されているようだが、少なくとも飛び方はいたって不器用。
 ただ我武者羅な飛び方は、お世辞にも、綺麗でもスマートでもない。

 (ここで、ひとつだけ蝉のために弁護しておけば。捕虫網をのがれ逃げるとき、「蝉が小便をかける」というのは嘘…というか事実は、排泄物の正体はほとんどただの水にすぎず、それも意趣返しに狙ってひっかけるわけではない、慌ててこぼす〝冷や汗〟のたぐい、だそうだ)

 なにしろ、そんな闇雲な飛び方で、死期を迎えた蝉は盲滅法に突き進み、奇態に人家の窓や外壁、戸口など、ところかまわずブチあたっては地面に落ち、仰向けにひっくり返る。

 かように無様に、蝉はポト、ポト、よく落ちる。
 …が、しかも潔い<即=死>ではない。

 もはや亡き骸かと見て、近づくと、やにわにバタバタ足掻いて、ひとっ飛びして、ふたたびひっくり返る…といった按配なのだ。

 見苦しい。
 「臨死」には、「今生」から「他生」へと移ろいの美がある…と思うのだ、けれども。
 「瀕死」の蝉には、それすらも感じられない。  

 ぼくは生きものの、それぞれの生きざまを、つとめて理解しようとする者だ、が。
 羽化「空蝉」の成れの果ての蝉の最後だけは…「ダメなものはダメ」だ。

 ……………

 ぼくの夏は、いつも、蝉の亡き骸を拾い集める日課でおわる。

 中国ばかりじゃなく、この人の世には蝉を食べる習慣も存在し、幼虫を素揚げなどにして食するようだが、ボクにそんな、つまらない食欲はない。


 蝉の干からびた亡き骸を開くと、腹にはなにもなく空洞…に見えるほどに、「発音筋」とか呼ぶらしい、喧しいほどに鳴くための筋肉ばっかりで、さすがにその〝生殖命〟のありようには粛然とさせられる、けれども。

 もろもろ「亡き骸」掃除役の虫たちも、好んで食しているようには見えないのが、ただただ、憐れなばかり……