どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地東北2018福島・巡礼/ <報告記06>-広野町③-がんばる!高野病院

-No.1795-
★2018年08月21日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2721日
★ オリンピックTOKYOまで →  703日


*この夏(8月5日)の椿事! 由比ガ浜鎌倉市)に〝漂着〟したのはシロナガスクジラだった…んですってね。この現存する地球最大の動物種が、国内の海岸にうちあげられたのは初めて。なにしろ絶滅危惧種(日本周辺ではすでに絶滅とみられてもいたそう)ですから、オドロキました。むかし、ぼくら子どもの頃には捕鯨船の映像でよく見ましたけれども…。この鯨、なにしろ成長すると体長は26mあまり…ですが、漂着した死骸は10.5mほどだそうですから、生後数ヶ月とみられる子どもですって。じつは…ぼくも、速報のテレビ画像を見たとき、コレはふつうの鯨類じゃないな…と思いました。えぇ、そうなんです。じつはボク、かつて日本鯨類研究所のレクチャーを受けた「ストランディング・コーディネーター」ですから、長大な鯨類の特徴にピンときました。ちなみに「ストランディング」は、「漂着」あるいは「座礁」を意味します*













◆『福島原発22キロ 高野病院奮戦記』

 広野町にある高野病院のことは…東日本大震災・大津波の被害状況と、復興の足跡に関心をおもちの方なら 皆さん 一度はその報道に接していることでしょう、記憶に染ませていらっしゃる方も少なくないと思います。
 けれど、それでも…国民レベルの認知度でいったら半数以下、あるいは30%にもみたないかも知れません。

 ぼくも、高野病院を訪ねるのは初めて。
 ……言い訳になりますけど……

 用もない人間が、どうして病院を訪ねたらいいのでしょう。
 入院・通院患者の縁者や知り合いでもなし、ボランティアの心もちはあっても、看護師とか介護士とかの資格もないのです。気の利いた慰問の芸があるわけでもありません。
 そもそもが、ぼくは病院が苦手…病院で血圧を測ればいつだって、ふだんより上がってしまうのでした。

 さいわい、高野病院の本が出ていましたから。
 訪れて、「その本がほしい」と申し出ることにしました。

 高野病院に、津波の被害はなかったということですから。
 高台にちがいなく、カーナビにも登録がありましたが…道が付け替わって工事中、途中でナビも役に立たなくなり、地元の方に尋ねてやっと辿り着きました。

 病院の敷地に立つと…そうですね、たとえば大学病院がもつ威厳とはまったく別ものの、フレンドリーな雰囲気に迎えられて、まずはホッとひと息。
 患者に付き添って訪れる人の自家用車が、玄関前に、親戚の家にでも来たような和やかさを見せていました。

 高野病院は、2階建ての2棟。
 診療科目は、精神科、神経内科、内科、消化器内科。
 病床数118床をかぞえる、地域のかかりつけ医療機関
 隣接する敷地に、特別養護老人ホーム「花ぶさ苑」もありました。

 玄関を入ると、すぐに待合のスペースがあって、患者と家族がくつろいでいます。
 まわりには看護師さん、介護士さんの笑顔もあったけれども、身動きたゆまず。奥へと向かう廊下の先は閑かで、きれいに掃除のゆきとどいた床は清潔でした。
 病院には、それぞれに独特の、ニオイだけではない嗅覚に訴えるナニかがつきものですけれども、高野病院にはそれがほとんど感じられませんでした。

 受付のガラスの窓口の向こうに、高野病院の本、絵本と2冊の見本が立てかけてあります。
 購入を申し出て、受けとるまでに少し間があり、その間にボクは、病院の印象をマインドフルに感受しました。

 本のタイトルは『福島原発22キロ 高野病院奮戦記』。
 その表紙の〝ふきだし〟に「がんばってるね! じむちょー」とあります。

 事務長、その人は高野己保、高野英男病院長の娘さん(現在は理事長)です。
 本の著者、井上能行さんは東京新聞の現在は論説委員。福島特別支局時代に、取材記事を書いた縁で執筆したわけですが、その軸になっているのは「じむちょー」己保さんからの聞き書き

 以下は、『高野病院奮戦記』を読んでの、感想……です。

◆美談なんかじゃない(…と院長)

 その日。2011年3月11日。午後2時46分。福島県広野町
 海岸に近い丘の上に建つ高野病院。
 いつもとは違う烈しい揺れをうけて「じむちょー」は、まず病棟へ走り、病院中を走りまわりました。
 震災時、高野病院には入院患者 約100人がいました。

 震度6の揺れがつづくなかで、これだけの動きは、ふつうの人には、まずできない……
 じつは「じむちょー」、高校時代は陸上部、ハードルの選手でした。

 そうして、入院患者の無事、いちおうの病院内の無事をたしかめ、事務長室の向い、医師控え室に入ると、父で院長の高野英男さんが、この大地震にも動じない姿勢でいた、といいます。

「どっしり構えた父と、走りまわる娘。この対照的なキャラクターの二人がいたからこそ、福島第一原発から三十キロ圏内で唯一、避難しないと決断し、重症患者三十七人の命を守りつづけることに成功した」
 と、著者は物語りはじめます。

 なにしろ地震では、病院に大禍はなくて、ガラスが割れエレベーターは停まったけれども、電気・ガス・水道も使えました。が…それから47分後。
 外にいた職員の悲鳴が津波の襲来を知らせ、標高25mにある病院にはなにごともありませんでした けれども 周辺一帯を洗われて孤立状態に。

 そして、なにより怖れていた停電……
 このときから、いまにいたる高野病院の〝奮戦"が始まります。

 院長の考えは「病院で籠城するしかない」。

 この病院〝停電〟の非常時、頑張って患者の命をつないでガンバり、(電力会社が仮設の電線をつないでくれて)通電が復旧するまでの5日間を、なんとか凌いでくれたのが、病院の古くなった自家発電機「でんちゃん」。
 それが後に、絵本『たかのびょういんの でんちゃん』(原案/高野己保、絵と文/菅野博子、岩崎書店刊)になりました。

 ……………

 午後7時3分に、政府が「原子力緊急事態宣言」を発令。
 9時23分には、福島第一原発から半径3キロ以内の住民に「避難指示」。
 ……けれども、患者の世話で忙しい病院スタッフは、知らずにいました。

 原発事故後の高野病院スタッフは、わずかに10数人。
 交代はなく、不眠不休。

 それでも、地元住民や納入業者、自衛隊など、さまざまな人々の支援があって、なんとかギリギリ、のりこえてきたのですけれども……
 行政(国、県、町すべて)には「ガッカリ」、東電の「偉そうな態度には開いた口がふさがらなかった」と、「じむちょー」は言います。

 行政は、どこにしても、ふだんと同じ杓子定規で、「非常事態」の認識や被災の現実を理解することが、ついにできませんでした。
 爆発事故の当事者である東電は、賠償にあたっては「誠実にお応えしたい」としながら、現実場面では〝出し渋り〟と〝被害者の神経を逆なでにする〟言動ばかり。原発津波対策と同じく賠償総額のヨミも甘かったらしく、「ほかとの兼ね合いがある」と言い逃れたり、被害者をエリート目線で見下す態度が目立ちました。

 もうひとつ。
 この本を読んで、いちばんの衝撃は……
 高野病院をとりまく周辺に、原発と無縁ではない地域にもかかわらず、
 (趣意)「放射能がうつるんじゃないの…!?」
 との発言をする人のあったことでした。しかも、介護職にある人が、です。
 故郷から離れ避難した土地で、被災地福島の子たちがイジメにあったのと根は同じ、ばい菌(=放射能)あつかい。無知・無理解なのか、悪い冗談なのかは知りませんが、これが一面の現実でもあります。
 
 ともあれ
 「じむちょー」は、病院のホームぺージや自身のブログを駆使して、外部へのメッセージと情報のやりとり(病院スタッフ集めのこともある…)をしたわけですが、そのアイロニーをふくんだ、めげない軽いノリの口調がキビシい現実を凌駕していきました。

 ……………

 『高野病院奮戦記』に書かれているのは、13年夏までのこと(本の出版が14年春)ですが。

 その後、16年末。
 ただ一人の常勤医だった高野英男院長が81歳で亡くなったあとは、ずっと慢性的な医師不足
 住民避難の結果、外来患者が激減、人件費はふくらみ、経営も厳しいのに、行政の支援はお寒いかぎり。

 東京電力福島第一原発爆発事故後も、地元 福島県双葉郡8町村で唯一、患者の診療をつづけた病院です。
 地域を支えつづけてきた、その病院がなぜ、苦境に立たされるのでしょうか。
 
 高野病院では18年冬から、故高野院長の遺志を受けた「訪問看護」が始まっており、これは、地元のケアマネージャーたちからの期待も大きい事業なのです、が。
 高野病院の〝奮戦〟、あくまでも明るく〝苦闘中〟です。

 ……………

 ボクはこのたび、ざんねんながら高野己保さんには、逢えませんでした。
 「じむちょー」さんは事務室にお顔が見られるだろう、とばかり思っていたボク(ボケが)でした……
takano-hosp.jp