どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

人はなぜ……犯罪の〝被害者〟より〝犯罪者〟の方を<かばって >しまう心理にむかいやすいのだろうか…

-No.1737-
★2018年06月24日日曜日
★11.3.11フクシマから → 2663日
★ オリンピックTOKYOまで →  761日



*はや梅雨明けの沖縄、昨日6月23日は「慰霊の日」。1945年の、この日をもって沖縄戦における日本軍の組織的戦闘(抵抗)は終わりを告げた…ということは、戦闘能力のない無辜の民が戦場にとりのこされたことを意味する。酷い仕打ちであった。以後 終戦の8月15日まで、〝本土決戦〟という無謀な抵抗のもくろみのもと、多くの非戦闘員の命が失われていった。ぼくは その直後の16日、戦後すぐの生まれで「戦争を知らない」世代にくみこまれる…けれど、それからの70余年、沖縄「慰霊の日」から「終戦(敗戦)の日」までの約2ケ月を、〝ピカドン(原爆投下)〟の遠い記憶(…とも言えない記憶)とともに生きてきた。このユウウツでアンニュイな2ヶ月がすぎる頃には、楽しい夏休みも大半は終わっているのだった が。そんな〝副次的な戦争被害〟のことは、ほとんど語られることもなかった……*






◆犯罪…そして犯罪者と被害者と

 「犯罪」が絶えない。
 「凶悪犯罪」が無くならない。

 それは屹度〔きっと〕、「差別」が無くならないのとピッタリ背中合わせのことだし、「差別」意識の無くならないかぎり「凶悪犯罪」もまた無くならないに違いない。

 「犯罪者」があり「被害者」があるのは、どうあれ、「人間という社会の宿命」といっていいのではないか。

 絶えない犯罪の<手段>が、ときとともに<陰惨><巧妙>化し、犯罪者にとって被害者は<相対>でも<絶対>でもなく、どんどん<相手を選ばない(だれでもいい)>化していく。

 「犯罪」は、警察の<捜査>課程でも、<裁判>の場になっても、ごくアタリマエの感覚にはなかなかフィットしない つまり いつも<違和感>がくっついて離れてくれない。
 アレは、あくまでも「犯罪」を相手にしているのであって、「犯罪者」や「被害者」の少なくとも人格を相手にしてるんじゃない(それも一面の真実にチガイないが…)、つまり 、ときに「人を見ていない」ように思われるのはたしかだ。

 しかし「犯罪」を、ことにも「凶悪犯罪」を、「人」なしで解決されて堪るか!
 犯罪の解明、カギをこじあけることが先決で、人(犯罪者にせよ被害者にせよ)のことは二の次にされちゃ、かなわない。

 人が人を裁くことができるのか?
 この素朴な問いに正答のないままの裁判。
 その無理を少しでも軽減してほしくて
 採用された<裁判員裁判>の将来にも ざんねんながら 明るい展望はひらけそうにない。

 そこに、もうひとつの深刻なテーマ。

◆なぜ被害者に救済の道すじが見えないのか…

 「犯罪者」と、「被害者」と。
 天秤にかけるわけではない けれど 正直なところ、よくわからない。もうしわけない けれども 何故か  犯罪者の方をかばってしまう心理にむかいやすいのを、多くの人が秘かに感じている……

 その心底にうごめくものを
 おもいきって言ってしまえば

 「被害者」になる自分など想像できない  避けて通りすぎてほしい気もちと 自身にはおよぶまいと楽観する心理とに、人はすがりたい。

 「犯罪者(加害者)」になってしまうリスクの方が、はるかにリアルティ―がある、つまり現実感が迫真する。

 自身だって、ヒジョウなことがあれば人を殺しかねないし、そればかりじゃない、場面と状況によって間違えば犯人にされてしまう怖れさえある、悪いやつにハメられることだってあるのだから。

 想像をふくらませれば誰にだって、(あんなときが危ないんだろな…)(こんなときに疑われたらコワイよな…)と気がつくことがあるだろう。

 1966年の「旧清水市一家4人強盗殺人事件」(袴田事件)で、一度は最高裁で死刑が確定した元プロボクサーの袴田さんが、第2次再審請求・静岡地裁で「最新開始」と「釈放」が決まりながら、東京高裁の即時抗告審では逆転「棄却」された。

 真実は不明(藪の中)だ…が、ワカッテイルたしかなことは、いちど疑われたら平静な日常の回復はむずかしく、いちど大きな罪を被ってしまったら たとえそれが冤罪であっても、とりかえすのは至難のことで、人生はほぼオシマイといっていい。
 どうか……そんなことにだけは、なりたくない。

 この切実な想いが、どんな重大な犯罪に対しても(…?!…?!…?!…)ただただ疑念と恐怖感をいだかせる、被害者の方に寄り添うべき気もちをもつ、そのゆとりもないほどに。

 なぜに そうなる
 じぶんの心理を怪しみながらも、どうしても犯罪者の方の、あれこれ背景を思いやったりしてしまう。

 ……………

 戦争処理の裁判などでつかわれる「人道に対する罪」という考え方がある。
 ざんねんながら、この概念は宇宙のようにあまりにひろすぎてリアリティーのあるものではない、つまり、ハッキリ言って〝曖昧〟。

 <車道>と区別する<人道>ほどに明確ではない。

 ならば「生命に対する罪」ならどうか、これならワカリやすいが。
 それでもやはり、「罪」と「罰」の混沌としたものが解消されることはない。

 ……………

 「裁判官」という存在・立場にある人の、常識のラインが、世にある庶人のどんなレベルにあるのか 、が見えないのも、不審を募らせる。

 凶悪犯罪に救いがないのは、被害者にとっても犯罪者にとっても、かわりない。
 たしかなことは それだけ……