どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

<時代(現代)>と<文章>と<読書>の話し/   あらためて『嵯峨野明月記』のこと

-No.1699
★2018年05月17日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2625日
★ オリンピックTOKYOまで →  799日

 おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。


*5月5日「こどもの日」に出かけ(くわしくは後日の記事…)たら、たまたま八王子の駅で、なにやら異様な列車が隣りの中央線ホームに進入してきて、唖然とさせられた。ぼくたちと同じホームに居あわせた人たちもみんなビックリした様子で、なかには余所見の足元がよろけた方さえあったほど。ナニかのイベント列車かと…一瞬、勘違いしたけれど。これがJR東日本、肝いり自慢の豪華寝台列車トランスイート四季島」と知れた。「春の旅」かなにかの募集企画で、信越南東北方面をまわってくるらしい。しかし…それにしても…ゴールド・シルバー(あるいはゴールドグレー?)の車体はなるほど華麗かも知れなかったが、先頭と最後尾を除くと、全体に窓の少ない車両のデザインは、こよなく〝旅情〟を愛するボクの〝旅心〟とは、まったく別世界のモノに想われ…。ま、あとは、じっさいに乗って見なければわからないコトだ、けれども。*





辻邦生さんの本『嵯峨野明月記』

 この長編が、本阿弥光悦・角倉素庵・俵屋宗達の3芸術家によって、やがて洛北嵯峨野の鷹ガ峰に〝嵯峨本芸術村〟ともいうべき文化を花開かせるいたる時代絵巻であることは、前回5月15日の記事でお話したとおり。
 今回は、その続編というより<番外編>と思っていただきたい。

 この小説は、二部構成、文庫版で425ページにおよぶ長編。
 <第一部 一 闇の中より三人の声つぶやきはじめる事>
 読みはじめたときは、<一の声>光悦、<二の声>宗達、<三の声>素庵、それぞれに個性的な語り口、著者の趣向にのせられて、なんのさしさわりもない順風の出だし、であった。

 読書においてもスタートはたいせつで、出だしでつまずくと断念にむすびつくことも少なくない。
 この時点では、ぼく、前に読了を途中であきらめた経験があったことなど、すっかり忘れていた……

 ここで先に、ぼくの読書のカタチをお話しておいたほうがいいだろう。
 ぼくの本読みは<枕読み>、ベッドに横になって眠気を誘われるまでのあいだの愉しみだ。
 そのために、ぼくのベッドには、頭の後ろにバックテーブルが造りつけられており、サイドの壁には読書灯も灯るようになっている。

 学術書とか資料書のようなものは机で読むが、愉しむ読書はだんぜん<枕読み>にかぎる。もう長い間の習慣で、なんら不自由なく、ただひとつの弊害といえばガチャ眼(左右の視力に差ができること)気味になったことくらい。

 <枕読み>は、眠くなったら本を閉じればいいのが利点。あとは眠りにまかせればいい。
 心身くたびれて読む間もないこともあるが、これはやむをえない。読みにくい本は睡眠薬がわりになる、かわりに、眠気を忘れさせてくれるほどの本があれば深更まで、ときには明け方まで読み耽ってしまうこともある。

 ときにヒトは、睡眠を離れる心意にも目覚めておいたほうがいい。

 ……………

 生きることは<活動>と<休息>をくりかえして、やがて永遠の休息の<死>にいたるわけだから。
 生きものにとって休息の<眠り>は、同時に、二度と目覚めない<夢>の崖っぷちに立つことでもある。
 すると、眠りに<夢>がともなってくるのも、ただごとではない。

 ある意味<眠り>は、生れでた日から始まる<臨死>体験の積み重ねかも知れない、気もする。
 なぜなら、<死>は生命にとって、どうにも克服しようのないテーマにほかならない、のだから。

 また、<よみがえり(蘇生)>というのは、いうまでもない、<黄泉帰り(甦生)>で。
 それゆえ、ヒトの眠りに寄り添ってくるかに思える<夢>見には、生命の<あやうさ><たよりなさ>を感得させるものが多いことにも、うなずける。

 ボクなども、夢から覚めてホッとひと息、そのまましばらくは宙をにらんでいることがあったりする。

 ……………

 ついでに付け加えておくと、ぼくの読書は<熟読タイプ>。
 軽く搔い摘んだり、あるいは端折ったり、ましてや斜め読みなどといった芸当は、思いもおよばない。

◆『嵯峨野明月記』枕読みをつづける

 <第一部 二 草花鳥虫を愛ずる事、家業に及ぶ条々>
 < 〃  三 月明に女と出会う事、及び世の移りゆきに及ぶ条々>
 と進むうちに、ぼくにはふと、ちと息ぐるしいような圧迫感が芽生えてくる。

 一人一人の話しに、始めから終いまで、区切りも段落もない。
 改行なしの語り口は作者の意図。それはワカルのだ、けれども。
 かといって、テンポよくたたみかけてくれるのでもない。

 ぼくは、一人の話しがすむたびに、ホッとため息を吐く。

 そうして、この気がかりな展開。
 <第一部 四 斎藤内蔵助利三が因縁の事、及び加賀発向にまつわる条々>
 にいたって、いっきょに極まる。
 
 この件〔くだり〕 、<一の声>光悦の語りばかりで52ページ、およそ3万4500字の間、改行なし、句読点も少ない一連文なのであった。
 声にならない悲鳴をあげたぼくは、大型連休の渋滞に嵌ったドライバーのごとき心境。
 我慢の四苦八苦、4~5夜を耐えることになってしまった。

 わずか52ページ……ふつうに読み進めたなら、なるほど、そのとおりだが……
 息をつく間もない語り口の文には、こちらで区切りをつけるしかなかった。
 すると、いきおい眠りも浅く、夢見にもただならない気配が忍び寄る。

 読んでくださればわかる、といったら、読む人がなく(本が売れなく)なるかも知れないから、そんな邪魔だてはできないけれど。
 ぼくは、かつて自分が、この本の読了をあきらめた経緯とその道理に、あらためて得心がいった。

 たいせつなのは、この本『嵯峨野明月記』が、「嵯峨本」の世界を描いていたことにある。
 嵯峨本がもとめたのは、「間」や「余白」のよさかと思う。
 「行間」を読み、「余韻」をあじわおうとしたのではなかったか。

 もちろん、この感想には、ぼくの文章の好み、というものがある。たしかに。
 しかし、ぼくはいまの、この時代のなかにいる。生きぐるしい時代だ。世情いらいらと、ささくれだって、それこそひと息やすむ間もない。そんな世に。
 翻弄されながら、けれども、ぼくなりにその渦を見すえて生きてきた。

 本が売れないのは、なぜか。
 <価値観の多様化>がある。<映像の世紀>がある。<読み書き文字>離れがある。<デジタル化>も、<バーチャルリアリティー化>も、<電子書籍化>も、<漫画・動画文化の進出>も<サブカル>もあった、けれども(……)。
 なぜに<本>読むことが<忌避>されだしたのか(…と思えるのは何故か)。

 いまも熱心な<読書人>はいる、が。大衆的には、先鋭に先細り、裾野が狭まった感、否めない。

◆<本>読む人はやがて<特趣な人>になってよいか

 この惑星に芽生えた生命、たがいに生きのこりをかけ生き抜いてきた、そのいま一翼に<くふう>のヒトがある。
 水を得、火を得、言葉を得、苦心して得た文字表現が、もはや将来は不要の方向…というのか。
 われらがヒトの脳は、それにもきっと耐えられるだろう、と!?

 ちがう。そうではなくて、
 <文字表現>を見つめなおすときが来ているのだ…と、ぼくは感じている。

 <言の葉>表現のひとつひとつを、石に、壁土に刻みはじめたときから。
 ヒトは知識への目覚めに欣喜雀躍、やがてその精華としての印刷技術のくふうによって、膨大な文字表現の量産化を成し遂げた。より多くのヒトのために……

 「嵯峨本」は、たとえば、アジアにおけるその揺籃期の、悩める精神〔こころ〕、なぐさめの花園づくり、とすれば。
 ルネサンスは、どこまでも知識欲(渇望)との飽くなき闘いだった言えるのだろう。

 大長編小説がつぎつぎと生まれ、人々もよろんでそれを受け容れ、むさぼるようにして読んだ。
 読書は生きることとイコールだった。  

 ……………

 しかし、時の刻みの歯車をおおきく進めたいまは、また、まるでと言っていいほど時代がちがう。
 人々は、ひたすら膨大な蔵書料を誇る書棚を前に、下を向くか、顔をそむけたそうに見える。

 もちろん、この時代にあっても、かわらずに、むしろより熱心に、読書を愛する一定の層は存在する。
 けれども極く極く愛好家的、身内・内々、そこには、そこはかとなく排他的なムードさえただよわせる。

 本読まない人は文字読めない人、とでも思ってるみたいな気配さえある。

 ……………

 ちがうんデス。そんなんじゃない。
 そのじつは、文章表現にも、ただ「心地よく覚醒的な間がほしい」だけだった、のではないか。

 文章は、読書は、「こうあるべき」ときめつけるがごとき、呪縛のような、信仰のような態度が「やだねぇ」だっただけ、なのではないか。

 そんな現代の<こもった>文章・読書事情に、<風を入れる>方法のひとつに、「間」をとる文章法があっていい。
 ぼくは、そう思っている。

 このブログ表現でも、そんな「間」のとり方を心がけている。
 ただ、このコンピューター世界に通底する<醒めた>感覚のシステムでは、〝美妙〟といえるほどの「間」は表現のしようがない。

 けれども、「わかるよ」「いいね」、諒解してもらえる努力は、これからもつづけていきます。
 はい……生きるかぎり、コツコツ……