どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

『君たちはどう生きるか』

-No.1618-
★2018年02月25日日曜日
★11.3.11フクシマから → 2544日
★ オリンピックTOKYOまで →  880日



◆〝既読〟か…むかし〝読んだのを忘れた〟か

 この本が、主にマンガ版が、いま中高の学生たちによく読まれている、という。
 それは「日本を代表する歴史的名著」で、そもそもの初版が1937(昭和12)年だと……

 自身「読書家」でも、ましてや「本のムシ」でもない、けれども本と読書にはずっと親しんできたつもりのボクが、(読んでいない…)のがふと気になって、購入(いうまでもなくマンガ版ではない)して読んでみた。
 著者の吉野源三郎さんは、1899(明治32)年生まれ1981(昭和56)年没。雑誌『世界』の初代編集長であり、児童文学者でもあって岩波少年文庫の創設にも尽力された方。
 ぼくなんぞでも、お名前くらいは存じ上げている。

 お話しの主人公は、あだ名を「コペルくん」という15歳の中学2年生。
 お話しの筋は…書名のとおり、語りかけ、問いかける。

 舞台がむかしの東京で、その描写がぼくには、微かにチカッとするものがあった。
 読みはじめるとすぐに、コペル君は「いい暮らしの家庭に育つ子」と知れる。
 コペル君は、お父さんが亡くなっていまは母子家庭だけれど、家には女中さんが居て、叔父さん(お母さんの弟)は教養人である。

 この本に寄せて、ジャーナリストの池上彰さんが書いている。
「この本と出合ったのは、小学生のとき。父親が買ってきました。親から「読め」と言われれば反発するのが子どもというもの。当初は読もうともしなかったのですが、」と。

 思い返して、ぼくの小学生時代に、「君たちはどう生きるか」と問われた記憶はない。
 (そういう圧しつけがましいのがなにより嫌いな子どもだったことはたしかだけれど…)
 ぼくが父の、いまでいう読み聞かせで『アラビアンナイト千夜一夜物語)』体験の後、本格的な読書ではっきり覚えがあるのは吉川英治の『宮本武蔵』から。かなり背伸びしていた証拠に、学校の図書室の書架の上段、このシリーズ本の読書カードには、先に読んだ人の記録のなかったのがムヤミにウレシかった記憶がある。

 ただ、池上さんの言う「反発」には、ボクにもチカッとする共感があって。
 しかしボクは、前記、池上さんの言「(以下)書き出しから「コペル君」が登場し、思わず引き込まれ、気がつくと夢中になって読み進んでいました。」とはならずに、〝反発〟というほどのものではないけれども、また、たしかに名著にはちがいないだろうけれども、少しずつ違和感のようなものが沁みだしていった。

 そうして、中盤、貧しい家庭に育った友だち浦川君の話しになると、ぼくのチカッは明るさを増して。
 終盤、コペル君が思いもしない親友を裏切る破目になった場面にいたって、このチカッは、もう、ゆるがせにできないほど明瞭なものになって…(イマシタ)。

 この本『君たちはどう生きるか』を読んだ覚えは、あいかわらずない、にもかかわらず。
 その場面、場面には、ボクに、どうにも身に覚があるような。
 (いつか、おまえ、読んだんじゃないの。それで、読んだことを忘れたくて、忘れようとして。それさえも、いつか時のたつままに忘れてた、だけなんじゃないの…)
 そんな気もしてくるほどなのだが、よく…ワカラナイ、どこかワカリたくない気分もある。

 ただ、この〝違和感〟だけには、明瞭なものがあって。
 それは、ぼくが育った戦後すぐの、東京のすぐ「川向こう」川崎の、工場の焼け跡の野っ原のすぐそこに生活した者が嗅ぐ、キョウレツな違和感だった。

 あらためて(?)読んで。
 ぼくは、この歴史的な名著の…よくできている本だけに、その舞台設定の違和感が、なおさらにキツイ。

 この本を、いまの中高生たちが、歴史的名著として読んでくれれば、イイ。
 しかし、こうした情景がいまの世に、なんの違和もなく受け容れられているとしたら。
 (ゾクッと)怖い……