どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

遊行寺境内、本堂前で天幕興行の〝サーカス〟があった…むかし

-No.1586-
★2018年01月24日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2512日
★ オリンピックTOKYOまで →  912日

*21日、西部邁さん(行年78)が亡くなった。住まいに近い多摩川で入水死したらしい。「西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む」の記事を投稿したのが昨年11月5日だった。http://blog.hatena.ne.jp/sashimi-fish1/draft-scat.hatenablog.com/edit?entry=8599973812311421236あの頃…というより、すでに2014年に奥さんを亡くしてから、西部さんは自裁師(自決)を心に期していた。キッパリけじめをつけて生きる、まったく彼らしい最期といっていい。(考え・立場は異なる)ぼくもまた…無理かとは思いながらも…自らに納得できない状況になったら自裁できるだけの気力・体力は維持していたいと望む者だから、ある意味では羨ましい最期だったといえるのかも知れない。ご冥福を……*





木下大サーカス…シバタやキグレのサーカスもきた

 天幕から、ジンタの楽の音が流れ、聞こえてくる。
 サーカスがやってきた…すると…オカシな言い方だけれども、不安まじりの興奮にギュッと幼な魂をひっつかまえられてしまう、子どもの頃のボクだった……

 もう、たしかに、この時代はかなり古いことになってしまったから。
 いまは廃語になった「ジンタ(ヂンタ)」について、ざっと説明の要があろう。
 (これは、日本にかつてあった民間オーケストラ「市中音楽隊」の愛称で、明治中期の生まれだそうな。はじめは海軍の軍楽隊出身者を中心に結成されたのが、それからそれへと全国に広まってもので、のちにはさまざまな興行の客寄せに利用され、俗曲風の哀調をおびた節まわしの演奏が特徴。昭和になってほぼ消滅したといわれる)

 その、ジンタが鳴る…昭和の世に…。曲は、
  ♪♫タータ、ラタタ、ラータター、ラタラタターラー…
 定番の『美しき天然』。

 天幕のなかの客席は、普請場の足場みたいな矢倉組で、暗く、それらに円く囲まれた真ん中の底が舞台で、そこにだけスポットライトがあたっている…のだった。
「サーカス小屋は高い梁…」
 中原中也の詩『サーカス』の一節にもあるとおりの情景で、そこはまたタシカに、〝現世〟と〝異界〟との接点でもあった。

 そこで、マッチョな男や肌も露わな厚化粧の女たちによって演じられるのは、「ゆあーん、ゆよーん」の空中ブランコや、猛獣つかいとトラや、華麗な曲馬乗りや、目になぜか大粒涙化粧の道化師(ピエロ)による軽業…などなど。

 観おえて、まだ半ば夢のなか、天幕を出るとき、視線の先にチラと見え隠れする楽屋小屋に出入りする〝異界〟人〔びと〕の姿が…ふと、コワイようだった。
 実際にあの頃の子どもは、「言うことを聞かないわるい子はサーカスに売っちゃうよ」と酷い話しで、冗談ともなく大人たちから脅されたものだった。しかし…

 じつは、このことの背景には、1948(昭和23)年に制定された「児童福祉法」があったのだ、と思う。
 いわく「公衆の娯楽を目的として曲馬または軽業を行う業務を満15歳未満の児童にさせてはならない」。
 その趣旨を理解しながらも、日常「聞きわけのない子」に苦労させられている親たちの正直な感想として、この脅し文句があったのだ、きっと、マチガイなく。
 それを知れば、この社会現象の意味するところにも、また別な彩りが添えられることになる……

 話しが逸れた。
 ぼくたち戦後すぐの世代は、少なからず<サーカスで育った>ところがある。
 関東では、木下大サーカスであり、シバタサーカスであり、キグレサーカスの興業が多かった。
 さまざまな場所で観たわけだが、ぼくの場合、最初にサーカスと出逢ったのは、お寺の境内。

 母方の実家がある昔は東海道の宿場町、藤沢の名刹遊行寺」で、だった。
 もともとが、神社仏閣の広い境内地は(衆生済度の見地から)祭り場であり、興行地でもあったわけだが。

 そんなことは露知らぬ子どもにとって、掌をあわせて「なむ…なむ…」拝まされ、ときには怖ろしい地獄絵図と向きあわされもしたお寺さんに、サーカスが来たときばかりは、仏前にお参りすっぽかしても、大目に見てもらえた。
 それがフシギであり、でも、どこかナットクでもあったりした。

 遊行寺本堂、真ん前の広場での興行はサーカスにかぎらず、ときには際物の、「因果モノ」とも呼ばれた「見世物」小屋が来ることもあった。
 これは、良家(?)では大人たちが見せてはくれなかったから、自前で木戸銭を払えないガキども(もとい良家のお子さま方)は、腰囲いの筵を捲って潜み隠れ入り、怪しげに、ロクに見えもしないモノを、無理にも想像をたくましくして見た気になった、ものだった。

 ……………

 遊行寺時宗〔じしゅう〕の総本山。正確には、藤澤〔とうたく〕山無量光院清浄光寺
 宗祖の一遍上人は「遊行上人」とも呼ばれ、一遍が広めた時宗は「踊り念仏」とも呼ばれた。

 幼いボクが「かいさんき」というのを、まず音感で覚えたのも、遊行寺の行事からだった。

 遊行寺の「開山忌」は、春と秋。
 春(4月21日~24日)は開山呑海上人のため、秋(9月21日~24日)は一遍上人のために営まれ、どちらにも綺麗に着飾った幼な児の稚児行列があった。
 この子たちにはその<資格>があることを知ったとき、ボクは朧気ながら、これから生きていく世の中には、<運>とか<縁>とかいうものがいろいろと影響をおよぼしたりするものらしい…ことに気づかされた。

 ……………

 昨秋のその日、ぼくは、何十年ぶりかで訪れた遊行寺の、本堂真ん前の、サーカス小屋がやってきたところに立っていた。

 その日は、昨年逝った叔父(母の弟)さんの一周忌。
 太平洋戦争の激戦地、〝南方〟ビルマの戦場から、片手の指一本を弾丸に吹きとばされながらも生還した人。

 戦場の経験から得た智慧と技とで「できないことはない」人は、ずっとぼくの尊敬に価しつづけた。
 その叔父さん慰霊の、法要が営まれるお寺さんに行く前の、ひとときだった……

 広場が、いま見るとあんがいに小さかったことをのぞけば、惣門からつづく春は桜花のいろは坂、本堂、鐘楼、大銀杏、大棟に菊の御紋をいただいた中雀門(重文)も、あの頃とすこしも変わらなく見えた。

 ただ、この間に人の世の中の方は、すっかり変わって。
 あれほど耀いていたサーカスは21世紀を前にその多くが姿を消し、かわっていまは「シルク・ドゥ・ソレイユ」すっかりメタリックなパフォーマンスの世界だ。

 遊行寺の本堂前、ぼくが立ちつくす広場に、もういちど、ジンタの『美しき天然』が流れ、遠い日の記憶も静かに流れていった……