どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

年末年始お騒がせの〝大相撲騒動〟から/     ①あらためて〝暴力〟問題を考える

-No.1570-
★2018年01月08日(月曜日、成人の日
★11.3.11フクシマから → 2496日
★ オリンピックTOKYOまで →  928日

*新年が明けて早々の4日、プロ野球界の熱血漢、星野仙一さんが亡くなりました。70歳…。ぼくは、格別な野球少年だったわけではない、けれども、野球ファン、青春時代は長嶋と王、二枚看板の巨人ファンだったわけだけれど、そのボクがこの星野さん(中日ドラゴンズのエース・ピッチャー時代)には「適ながら天晴れ」ぞっこん惚れていました。星野さんの向こうっ気がなかったら、長嶋にも王にも、あれほどの生彩はなかったろう…そんな気さえするのです。祈る冥福、南無…*



◆新年らしくマジメにいきましょう

 昨年末は、大相撲の〝暴力〟問題で、実態がよくわからないままに世論も割れた。
 テレビをはじめとするマスメディアこぞって、ここぞとばかりの、いつものとおりの報道合戦だった。
 お歳を召した大相撲専門(どうしてこの世界には活きのイイ若い記者がイナイのかとつくづく思わされるほど)のベテラン記者ばかり、はっきりいって感覚もかなり古くお堅いオールドボーイズが、これも、ここぞとばかりに熱弁・怪弁をふるっていた。

 けど、ちょっと待った。
 大相撲は、たしかに特殊な世界ではある(正直そうは思いませんか?)けれども。
 〝暴力〟についても大相撲は〝特殊〟、つまりトクベツが許されるのか。

 なんで、世の皆さん、胸に手をあててジックリ、この〝暴力〟問題を、けっして「他人ごと」ではない、「自分のこと」として考えてみようとはしないのか、そこがフシギ
 これだけ繰り返し、世のあちこちでコトがおこっては、そのたびに大騒ぎしてきたのにもかかわらず。

 ……………

 あらためて、問う。
 〝暴力〟ってなんですか。
 どこまでなら〝暴力〟じゃなくて、どこからが〝暴力〟なんですか。
 また、特別に〝暴力〟な人がいて、そこだけが問題なのでしょうか。
 
 それぞれ個々の人が、それぞれ個々の至心で、ふりかえって考えて、個々ひとりひとりの〝指針〟を導きださなきゃいけないことなんじゃないの、だろうか。

 ……………

 そこで、おかげさまでこのたびはまた、かなりの長きにわたって考えるきっかけを与えられることになったのをシオに、ぼくが赤心になって考えたことを、お知らせしておきます。

 まず「暴力って、なに?」
 広辞苑を読むと「乱暴な力。無法な力。なぐる・けるなど、相手の身体に害をおよぼすような力や行為。」
 もうひとつ、明鏡国語辞典によると「相手の身体に危害や苦痛を与える乱暴な力。また、その力を使う無法な行為。」
 つまり「暴れる力」、「荒ぶる力」にも通じるもの、という。

 いずれにしても、辞書の説明でいまひとつシックリこないのは、語句解説の〝身体〟に〝こころ(気もち)〟が籠っていないように感じられるから、ですが。
 辞書はコトバを概説するもので哲学の書ではないから、これはまぁ、仕方がない。

 そこで。
 吾がことを省みる…と。
 ぼくもまた、ごくフツウか、たぶんそれ以上に、根源的な〝暴力〟体質をもちあわせている…にチガイない。
 ぼく自身も怖れるのは、そこに、ぎりぎり本能にちかいものを感じとるからだろう、つまりもっとも〝制御〟の利きにくい性質〔たち〕のものだからである。

 しかし……
 どう言い訳ても、これは、現在の人間社会に通じるものではない。
 いまはすでに〝狩猟〟と〝採取〟で喰いつなぐ世ではない、のだから。
 いつまでも〝本能〟の言い逃れは許されない、人類には〝自制〟こそがもとめられているのだから。 

 そうだ、ぼく自身のことだった。
 まだ若かった頃のぼくは、つい人(の頭や肩)に手をあげることが多くて…こちらはウッカリするとイッパシ親愛の情のつもりが、相手にはトンデモナイ。
「キミ、それって〝暴力〟だって、気がつかないの」
 言われて、はじめてギクッだった。
「〝暴力〟はやめてください」
 部下の女性スタッフから言われたこともある。

 そうした来し方を省みて、いまぼくが気づくのは、こういうこと。

 相手に「暴力」と感じさせたら、どんなに自分では「そこまでのつもりじゃなかった」と言ってもダメなんで、それは「暴力」なんです。

 つまり、トクベツな〝暴力〟があるわけじゃなくて、ごくふつうに、だれにも、どこにも、あるのが〝暴力〟なんです。だからコワイ。
 つまり、〝暴力〟はけっして男性にかぎった問題でもなくて、女性がいつも〝被害者〟ときまったものでもない、女性にもまた同じように〝暴力〟の芽はある、ということです。

 ……………

 突然ですが。
 〝発情期〟というものがあります。
 ご存知のとおり。

 ほかの多くの生物、とくに動物にとってそれは<繁殖に好都合な環境の時機>を選んでおこなわれる。
 ところが、ヒトにはとくに〝発情期〟というものがない、年中いつでも〝発情〟セックスしている。
 それが人類の、この地球上での生存と進化・発展、生物環の頂点に君臨する資格を獲得することになったのですが。
 いっぽう、この〝発情〟は、みなさんすでにお気づきのとおり、多分に〝暴力〟的なものです。
 その結果、ヒトは〝暴力〟にも<歯止めが効かなくなった>と指摘したら、言いすぎだろうか。

 ぼくがさっき、いまの人類には〝自制〟が必要だ、と述べた根底には、それがあります。

 ……………

 ところで、それでは。
 〝暴力〟の許される場面というのは、あるのだろうか。
 たとえば、スポーツの鍛錬が目的なら〝暴力〟的な行為も許されるのか。

 いうまでもなくダメ、はっきり、これはアウトです。
 いまさっきも言及したばかり。
 それは〝暴力〟には〝境界〟も〝限度〟もない、からです。

 ぼくも中学・高校時代にスポーツ部活の経験があり、さいわい〝暴力〟的な鍛錬・訓練とは無縁であったけれど…もし、そんなことがあったら即、その部活はヤメていたろうと思います。
 そうです、ぼく自身にも〝暴力〟体質を抱えながら、そのぼく自身が、他人から〝暴行〟されることには耐えられない気もちがありました。
 〝暴力・暴行〟には、そういう二面性もある。

 たとえば、このたび大相撲の〝暴力〟問題にしても。
 失礼ながら、たいがいの親方衆には、少なからず〝暴力〟是認の意識がのこっているのではないか。
 つまり、これはトクベツなんだ、という。
 
 ぼくには、東京相撲記者クラブ(大相撲記者クラブ日本相撲協会担当)〝会友〟ほどのことはないにしても、個人的な関心は深いものがあって、稽古場風景に立ち合った経験も少なくありません。
 その稽古土俵では、竹刀で弟子の身体を叩く〝指導〟が、つい最近まで(?)ごくあたりまえのことだった。

 じつは、ぼくも、少し前までは、これを〝特殊〟な大相撲の世界のことと思っていました。
 ふつうのスポーツとは別なんだ…と。
 大相撲という競技がずっと長いこと、ただの勝負ごととはチガウ色彩(神事に近いもの)をおびていたことは、他にも多くも方々の指摘があるとおり……

 それが、じつは〝特別〟でも〝特殊〟でもない、そうであってはイケナイことが、これまでにあったアレコレのことで、徐々に明らかにされてきた。
 その延長線上に、こんどの〝暴力〟問題もあって。

 「わが子」とも思う弟子の貴ノ岩関を、先輩モンゴル力士の〝暴力〟によって痛めつけられた貴乃花親方の被害感情はとうぜんすぎるほどトウゼンです。
 ……が、いっぽうで。

 その貴乃花親方の言にも、今回の日馬富士〝暴行〟事件「これは〝かわいがり〟とは違う」という表現がありました。
 〝かわいがり〟とうのは、大相撲界のそれこそ〝特殊〟な慣習で、「若手の成長のため」という名目のもと、兄弟子から弟弟子に対して行われる厳しいぶつかり稽古(荒稽古)、育てるための〝しつけ〟と言いますが、それこそ足腰がたたなくなるまで〝痛めつける〟性質のものです。
 慣習として長いこと黙認されてきた、それは、けれども、かぎりなく「いじめ」、さらに言うなら「リンチ」に近いものになりやすい性格も、ざんねんながら、あわせもっていました。
 「かわいがる」本来の「年少の者をいつくしむ」とは異質の、そのコトバにかこつけて行われる〝乱暴〟行為といっていいものです。

 そのことを、貴乃花親方にも、あらためてきちんと認識してもらって。

 そのうえで、次回は。
 こんどの大相撲〝暴力〟問題が起こってからこの方、ずっと沈黙して(おもてだった発言なしで)いる貴乃花親方の思惑とは、また別に。
 国技「大相撲のこれから」が、いったいどうあったらいいのかを、考えてみたいと思います。

 大相撲は、〝公益〟財団法人「日本相撲協会のもの」ではなく、「ひろく国民のもの」。
 「国民の支持あっての大相撲」であるわけですから。