どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ㊵10日目(5)譜代村…奇跡の防潮堤      今回のテーマ[つぎのステップにむけて]

-No.1534-
★2017年12月03日日曜日
★11.3.11フクシマから → 2460日
★ オリンピックTOKYOまで →  964日





◆9月5日(火)、死者=ゼロ、被災民家=なし

 田野畑村の北に位置する普代村
 そこは、鵜の巣断崖の少し南、岩泉町小本海岸あたりから、山側へ大きく迂回した国道45号(浜街道)が北山崎の断崖を抱く台地を抜け、ふたたび海岸部へと下るところにあり。
 「北緯40度東端の地球村ふだい」のジオポイントになっている。

 人口3000弱の小さな村は、太平洋にそそぐ譜代川の川筋ひとつに日々の暮らしを頼っているといっても過言ではない。
 その小さな村が、東日本大震災への備えで一躍、脚光を浴びることになった。
 死者なし(正確には船の様子を見に防潮堤外へ出て行方不明になった者1名があったのみ)、被災家屋もなかったからである。

 河口に近い譜代水門に立つ。
 河口からの距離およそ300m。川幅狭く、川底も浅く、津波の脅威には脆弱そうに見えるこの川に。
 水門は高さ15.5m、幅205m。
 完成は1984年。

 実況報告ふうに当時をふりかえると。
 《11.3.11》大地震の後、遠隔操作による水門閉鎖が停電で閉まりきらず、消防士の手動でようやく閉門。
 到達した津波は2mほど水門を乗り越えたものの幸い決壊はせず、結局、津波は水門から数百メートル上流までで止った。

 この水門が〝奇跡〟と呼ばれることになったのは、同じ岩手県宮古市田老地区の有名だった巨大防潮堤(高さ10m)をはじめ、各地の水防施設が軒並み破綻したなかで、<辛うじて>ではあるが防げたからである。
 しかし、開口規模の大きな田老の浜と、狭小な浜の譜代の場合とでは、同列には語れないものがあるのはいうまでもなく。

 また、もし、こんどの津波がもっと強く、高く襲来していたら耐えきれなかったろうという指摘もある。
 津波には<即刻避難>あるのみ、津波避難は<てんでんこ>を忘れてはならないことになる。

 ともあれ、この譜代水門ができたのにも、それまでの痛切な歴史があってのこと。
 まず、明治の三陸地震(1896年)で、302名。
 次に、昭和の三陸地震(1933年)でも137名の犠牲者をだしている。

 「二度あったことは、三度あってはならない」
 村は防潮堤の建設を決意、水門の高さも「明治の津波は15.2mあった」という言い伝え(記録)にしたがって「それ以上」を譲らなかった、という。
 だいじなのは、そのときの検討事項に「集団移転」も含まれていたこと、それほどの一大事であったこと。
 水門脇の案内記には、当時の和村幸得村長の英断が讃えられている。

 海岸沿いの道をまわって大田名部の防潮堤にも行って見る。
 こちらも、高さはやはり15.5m、延長は155m。
 完成は1970年。

 おりから。
 超頑丈そうな、ふだんは開いている閘門から、スクールバスが内側に入って停まり。
 学校帰りの子らを迎えに、待ちかまえた保護者の車に乗り換え、あるいは手をつないで徒歩で、三々五々帰宅する姿が見られ……

 ホッと、わけもなくボクの口からも、おおきな溜め息が洩れたことだった