-No.1368-
★2017年06月20日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 2294日
★ オリンピック東京まで → 1130日
◆ぼくの〝祭り〟解禁の気分
4日目の5月19日、朝。
《11.3.11》以来、定宿になったビジネスホテルから、いちばんに常磐線の相馬駅を訪ねる。
道路交通の世になり、道の駅の時代になっても。
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
鉄道の駅に沁みこんだ故郷の匂いは、石川啄木の時代からかわらず健在だ。
大津波の被害深刻で長いこと不通がつづいていた相馬駅から北、浜吉田(宮城県亘理町)までの常磐線23.2kmが運行再開になって、これで5年9ヶ月ぶりに福島県北部沿岸部と仙台との間が鉄道で結ばれた。
2016年12月10日のことだった。
どこか和風旅館の玄関を思わせる駅舎とその周辺には、すでに復興の気色もないふだんの暮らしぶりが戻っており、発着する列車の本数も1時間に1本以上が確保されて幹線らしくなっていた。
ぼくには、どこかひとつ、封印を解かれたような気分があり。
駅西方に鎮座する中村神社にはじめて足を向ける。
その気にさせたのは、いうまでもない「相馬野馬追」の祭りだった。
夏7月、最終週に行われる祭事は、震災津波の災禍をのりこえ開催されてきたが、これまでは、ぼくのほうに遠慮があったからだった。
なぜの遠慮か? これがムズカシい。
「相馬野馬追」という祭りは、人馬一体となっての勇壮さにおいて、わが国でも他に比類ないものである。
ぼくは、この祭り。
多感な子どもの頃に観て深く衝き動かされた、ドキュメンタリー映像の影響だと思うのだが、なによりも、どこの祭りよりも観たい、その感動的な渦中にひたってみたい思いがあって、半端じゃなかった。
いったいに、ぼくは祭りを遊ぶ人たちの忘我の境地をこよなく愛するもので、そんな〝祭り〟そのものを愛し、夢中になって追いかけた日々もあった。
けれども、決められた日時刻限というものが厳としてある〝祭り〟に参加するのには、こちらの都合がそれと合致しなければならない。それがまた、きわめて難儀なことでもあった。
〝祭り〟のある場所が遠い場合には、これに旅する日数の調整もくわわる。
そうこうするうちに、〝祭り〟は〝夢幻〟の境に置かれるるようになり(そうしないと身がもたない…)、相馬野馬追のように究極の存在は、ますます現実に遠いという、心もちとは矛盾したものになっていったのだった……
ともあれ、相馬野馬追。
じつは昨日、飯舘村から宿への途中、南相馬市博物館に立ち寄り、さまざまの文物とともに野馬追の祭り人形にも逢ってきていた。この博物館は、野馬追のクライマックス「神旗争奪戦」の行われる雲雀ヶ原祭場に隣接する。
このように、〝解禁〟の気分が、ぼくにできて。
今朝は、相馬神社を訪れる。
まだたぶんに〝露払い〟の感、ではあったけれど。
平将門(相馬氏の祖という)の時代、10世紀頃の創建とされる相馬中村神社(国の重文)がおおもとであり、野馬追神事の出陣式もこちらで行われるのだけれど。
戊辰戦争後の1880年に建てられた中村城本丸址の中村神社もあり、調べてみると、野馬追に登場する馬を飼育する厩舎もこちらの方にあるというので、まず相馬神社の方に挨拶を…となったしだい。
ぼくには、たぶんにそうした気分も濃いのであった。
城址の緑濃い公園に着くと、(これが馬場か)と思われるものが真っ先に目にとびこんできた…が、これはふだんはグラウンド、祭事のときには馬場にもなる用途らしかった。
神社の参道を通って、近くに相馬高校があるからそちらの生徒だろう、紅顔の男女生徒が気もちよく挨拶してくれる。
神社への急な石畳道を登ると、途中に厩舎があらわれ、朝の手入れでもあろうか、1頭のこよなく立ち姿に優れた馬が繋がれていた。野馬追に出陣する馬の1頭にちがいない。