どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《戦後70》広島巡礼後③-出雲大社で神だのみ/ ここでは”国引き”の神々がとても慕わしい

-No.0645-
★2015年06月28日日曜日
★《3.11》フクシマから → 1571日
    (高倉健没から →  230日
★オリンピック東京まで → 1853日









◆「記紀」と「風土記

 出雲大社
 ぼくは、ここへ、もちろん神だのみに来た。

 このところ、日本という国が、また、おかしなぐあいだから。
 ひとりの、やたら吾ひとりテンションの高い権力者がいて、みずからの身からふんぷんと漂うキナ臭い臭気に、てんで気づきもしない。

 国をどう守るかは、国民こぞって、もっとつっこんで話し合うべし、だが、それをとりしきる宰相たる器は、「けっして戦争はしない」決意の人でなければならない。

 前に訪ねた伊勢神宮では、拝礼し手は拍っても、(ここで頼みごとをするのはちがうだろう)という気がしていた。
 神さまの在り方が遠い、というか、ヴェールの襲〔かさね〕が厚すぎるというか、そんな雰囲気があった。
 つまり、敷居が高すぎる。

 それが、なぜか出雲大社はちょっとちがう、そんな気がして。
 それでも半身半疑はあって、訪れてみればやっぱり、この感じはまちがってはいなかった。

 たとえば、おなじく神話にしても、伊勢神宮が「記紀」とすれば、出雲大社は「風土記」。
 伊勢神宮が国家を背景にすれば、出雲大社は地方豪族に身を寄せている。
 そんなちがい…だろうか。

 たとえば、陰暦の安芸10月、全国的に「神無月」のときに、出雲では「神在月」。
 日本じゅうの神さまが、うち揃ってそれぞれの在所をよそに、出雲に集ってしまう、そういう神としてありそうにないことを、平気でおおらかにやってしまうところが、出雲はいかにも出雲らしくていい。
 「どうぞ」ってこっちもついつい、ウレシくなってしまうようなところがある。

 だから、出雲の神さまの前では、願いごとがしやすい。
 腹のうちを笑顔に隠して、ゆるしてくれちゃいそうな雰囲気がある。
 だから「縁結び」なのにちがいない。

 平成25年の本殿遷座祭をもって、平成の大遷宮がすんだ出雲大社
 緑濃い山の気を背に、厳かなたたずまいはかわらない、けれど。

 拝殿(御仮殿)の巨大な注連縄には、なみなみならずスケールのでかい無邪気をみる。
 大国主命の背負う、おおきな袋を思わせる。
 伊勢神宮に、こうしたおおらかさはないし、にあわない。

 初穂料を納めて、お祓いをうけ、八足門内「いづもおおやしろ」の御本殿にも、二拝四拍手一拝の礼をつくしてきた。
 日本のことも、吾がことも、ほかに気にかかることも、まとめてお願いしてきた。
 この神さまには、それがゆるされる。

 退出してきたら、拝殿の大注連縄から垂れ下がる藁屑を、神官と警備員とで抜き取り、あとをきれいに整えていた。
 たとえばこれなんかも、伊勢神宮では見られない、見せられないこと、ではなかろうか。

 門外の園地には、大国主命の像が波の上の日輪に手をあわせていて、風土記的に神話めく。
 これなんかも、伊勢神宮にはない、ものだろう…。