-No.0640-
★2015年06月23日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1566日
(高倉健没から → 225日
★オリンピック東京まで → 1858日
◆彼こそ、正義と不屈と愛の男だ…
ドキュメンタリー番組としては”異色”といっていい、のではないだろうか。
亡くなった一人の、外国(近くて遠い隣国)の俳優の、自分たちの人生に与えた衝撃ともいうべき影響力について、公開された1本の映画を振り返り、その当時の我が身と中国という国を顧みながら、その人の慕わしさを熱く語る中国の人たち。
それも一般大衆ばかりではない、学者が、作家が、写真家が、映画監督が、実業家が、裁判官が、さらには政界の人物までもが、高倉健という日本の俳優に、「正義と愛と不屈の精神とを学んだ」と表白しているのだ。
その映画は、1976年に制作・公開された『君よ憤怒の河を渉れ』(大映、佐藤純彌監督)。
中国での公開は79年、『追捕』という題名で、文化大革命後初の公開映画、という時代背景もあった。
映画の内容は、日中両国での公開タイトルを見ればおよそ想像できる、その意味では健さんらしいアクション映画。
だが、ヤクザ映画や網走番外地シリーズのように、単純な男気の話しではない。
一人の気鋭の検事が、巧妙な罠に嵌められて逮捕され、みずからの無実をあかすために脱走、追われながら当時のさまざまな世相にもつきあたりつつ、再逮捕、再逃走の末、ついに苦難を乗り越えて汚名を晴らし、青天白日の人となる。
文化大革命の荒波にもまれて若き日をおくった彼の地の人々が、(近くて遠い隣国)日本にいた「正義と不屈と愛」をつらぬき通した男の姿に瞠目し、惚れぬき。
多くの人が、その映画の主題曲をいまでも口ずさむことができる、ソノラマのレコード盤を大事に持ちつづけている人さえある。
それと同時に、映画に描かれたその頃の日本の、豊かな生活ぶりにも憧れた…と。
想えば、我が国にも、それに似た光景(戦勝国で文明国のアメリカに対して抱いた憧れ)が、かつてあった。
中国の人々だって同じなのだ、かの民族に特徴的な性情をべつにすれば、とくに違ったところがあるわけではない。
高倉健のファンがあふれた中国では、その後、『単騎、千里を走る』(2005年、降旗康男・張芸謀監督)の公開があって「健さん」人気は決定的なものになった。
彼の死に、(ふだんはアメリカや日本政府に対して強硬な突っ張りを姿勢を誇示する)中国政府の広報官が、自国民に深い感銘を与えた一人の俳優、高倉健に「心から哀悼」の意を表したことが思いだされる。
『君よ憤怒の河を渉れ』が公開された頃の、たがいに相手を理解しようとする姿勢にあった日中関係に還るべきだ、とする外交関係者がいるし、高倉健のような存在の再来を願う声も少なくなく、いま中国では高倉健を偲ぶ映画製作の話が進行中だ、とも。
これはつまり、なにはともあれ政府間の思惑はひとまず別にして、民間レベルでは、たがいに胸襟を開いて理解を進めることの重要さを、端的に物語っている。
国とは、なにか。
そして…。
人とは、なにか。
ひとつの事情として、国には、その国に在る人々に、少なくとも不満を抱かせてはならない、責任がある。
巨大な発展途上国、中国の支配者には、そのプレッシャー並々ならぬものがあることを、ぼくらは歴史的にも知っている。人民大衆が不満を抱けば、ときの支配者はその権力を失うしかない。
だから、その無理矢理を許せというのではなく、そうした事情を理解したうえで付きあわなければならない。それが、ほんとうにできるのは民間しかない、少なくとも民間がさきだ。
ところで…。
このドキュメンタリーを観て、ぼくが感じたことを正直に吐露しておくと。
(なんだか健さんを中国にもっていかれてしまった)みたいな口惜しさ、はっきりいって嫉妬があった。
と同時に、ぼくにもあったはずのアノ素直な感動・感銘が、いまは薄れてきているようにも思える。これが曲者の”似非〔えせ〕ゆたかさ”というやつだろうかと、怪しんでもいる。
それから…。
この映画が中国では、主演の高倉健ひとりばかりに注目が集中し、原作者の西村寿行その人とかに対する評は、いっさいなかったことも、ボクには不可解だった。
おそらく『10億人が愛した…』主題を鮮明にするため省略されたのだろう…とは思うが、片手落ちに違いない。
また…。
『君よ憤怒の河を渉れ』の”憤怒”は、原作では「ふんぬ」と読まれていたのが、映画では「ふんど」と読み替えられた。
これにもずっと違和感をもっていたぼくだが、こんかいのドキュメンタリーを観た後では、ふと(かえって相応しかったのかも知れない)気分になっていた。
中国で公開された題名は『追捕』だったけれど、そこには『憤怒(ふんど)』の烈しい感情が揺れて見える。