-No.0631-
★2015年06月14日(日曜日)
★《3.11》フクシマから → 1557日
(高倉健没から → 216日
★オリンピック東京まで → 1867日
◆電停「原爆ドーム前」
6月2日。
その朝、宮島口駅から3輌連結の”広電”(広島電鉄線)に乗った。
”広電”は、郊外電車と市街電車、二つの種類の路線をあわせもつ、広島市民の足。
きのうはJRに乗ってきたので、きょうは”広電”、くらいの軽い気もちで。
山陽線とほぼ並行して走る”広電”は、市街電車らしい駅の多さ。JRの2倍から3倍はあろうか。
その駅間を、かなりのスピードで、猛烈に揺れて往く。
窓外に流れる景色を目で追っていたら、隣りの方が親切に教えてくださる。
「旅情なら、こっちでしょうけど、時間は倍以上かかりますからね、急ぎのときはJRですよ」
市電郊外線、猛烈走りのワケが知れた。
その”広電”も、広島市街に入ると、車や人の往来が多くなるにつれて、徐々にスピードダウン。
向こうから来る市電の色も形も違うので、別の市電かと思いきや。
「広電の電車は、京都とか大阪とか福岡とか、いろんなとこから来てますんですわ、えぇ、みんな”広電”ですわ」とのことだった。
「次は、原爆ドーム前」のアナウンスに、ドキッとしながらまわりを見たけれど、ほかの乗客に反応らしきものもない、それがフツウなんだろうけれど…。
原爆ドーム前の電停は、太田川(本川)に架かる相生橋のたもと。
すぐ目の前の木立のなかに、原爆ドームが佇んでいた…。
再会…にもかかわらず、こんどもやっぱり不意な感じの出会いに、戸惑う間もなく、若い外人観光客のグループに行く手を遮られた(ぼくには正直そう感じられてしまった)。
ドーム正面をふらふら動きまわって、声高にしゃべくったり、デジカメを向けたりしている。
ぼくは(邪魔ダ)と思って、すぐに、そんな情緒的にすぎる自分をもてあました。
ドーム前、園地のベンチに、散歩と思しき市民の、そんな情景を黙然と見守る姿が、さらに惑乱に輪をかけた。
長崎の原爆資料館で、〈太っちょ〉原子爆弾の模型の前に、ピースサインで立つ韓国人観光客の姿があったことを、ぼくは即座に思いだす。
それがどうのというより、きっとおなじようなことをするのだろう、日本人の若者のことが思われると、そこでパタンと、思考がとまってしまった…。
この4月3日。
核拡散防止条約(NPT)、再検討会議で議長を務めるアルジェリアの外交官タウス・フェルキさんが、広島の原爆資料館を訪ね、原爆慰霊碑に献花したことが報じられた(フェルキさんはこのあと長崎も訪問)。
これには、事務局長を務める国連軍縮部、大量破壊兵器課長のトーマス・マクラムさんも同行。たいせつな、この会議にのぞむ決意のほどを見せてくれたのだった。
けれど…。
ニューヨーク国連本部で開かれた肝心の会議本番では、4週間をかけた議論の末、中東の非核化構想をめぐる米英の反対に遭って、最終文書案の合意にいたらず、ついに「決裂」。「核兵器の非人道性」を認めながら、「核なき世界」への前進をはばまれ、核兵器廃絶の気運は後退を余儀なくされた。
「決裂」の宣言をするフェルキさんの、苦悩の表情には疲労の色が濃かった…。
そんなことまで脳裏をかけめぐると、もう、ぼくも、ここはいったん身を退くしかなく。
いちカメラマンに徹して、原爆ドームのきょうに、レンズを向け、シャッターを切りつづけた…。