どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《3.11》2014晩夏の巡礼-7日目-奥尻島②/  青苗地区の津波対策と奥尻島津波館

-No.0395-
★2014年10月21日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1321日
★オリンピック東京まで → 2103日














◆青苗地区の復興・防災施設など…から見えてくるもの

 青苗漁港。
 岸壁の一部を、ほとんど覆い尽くす格好に「望海橋」ができている。
 骨組みの、鉄骨の、太さからも、構造からも、見るからに頑丈そうだ。
 青苗漁港、防潮堤の高さは+6.0メートル、人工地盤(望海橋)は+7.7メートルある。

 これに似た設備はいま、各地に見られるけれども、この望海橋が完成をみた頃、その規模の大きさからすれば、失礼ながらやはり「鄙には稀な」と言っていいだろう。

 港の漁業関係者は、イザ大事があったときには、望海橋への階段を駆け上がる。
 橋上の広場は避難者2000人を収容できる、とか。
 いまでも島民の大半(7割ちかく)をここで引き受けることができるわけで。…しかも、ごく遠くない将来には、全島民を集めてしまうこともできる包容力になるのダ。

 「橋」と呼ばれるとおり、この避難設備はそのまま、後背の高台に繋がっている。
 さらに、もう一段上の高台へは、スロープの避難路がつづき、これには全天候型というのか透明アクリル製の屋根・壁が付いて、大きなパイプ状になっていた。

 しかし…。
 港から背後の商店街へ、そして避難路を上がって住宅地まで、なにせ人影が極端に少ない。
 まぁ、漁業は早朝に賑わうものだから、昼間はどこでも眠たげなものだけれども…。

 集落環境整備で、歩道をふくむ道幅も広々とつくられた商店街など、それだけに却って空間が素っ気なく、冷たいものに感じられてしまう。
 ざんねんなことに、血管に血が通っていない。

 あらためて望海橋の上から眺める港内の、立派な設備の岸壁にくらべて、係留されている漁船の数も少なすぎる。

 要するに、総じて“人と設備”のアンバランス。
 これが「蘇った」青苗地区のいま現在だった。

 防災集団移転で、できた高台の望洋団地、明るい環境に不釣り合いな、スナックやバーなどが数軒。干物みたいに佇んで扉を閉ざしており、その様子から察して、夜になっても灯りが燈ることはなさそうだった。
 震災・津波後の復興事業(費用総額760億円余り)関係で人が集まり、夜な夜な店内に入りきれないほどの客で賑わったバブル景気も「むかしのこと」と、土地人はいう。
 
 地震から5年後に町が、意気高らかに「復興宣言」をした、それと軌を一にするように、皮肉にも潮はひきはじめた。
 (震災当時の4700人から現在の2962人に、人口は減りつづけている)
 よくある事例、どこにも見られたこと、ではあるけれど…。

 震災で壊れ傾いた青苗灯台が、高台の外れに復原されてある。
 下に広がる低地一帯が地震津波の大難に遭い、全国津々浦々の人々の耳目を集めたところ。

 ここ青苗地区というのは、半島の先端地形といってよく、汀に拓けけた漁業集落はとうぜんのこと、風波の災難を避けがたい。
 いまは復興祈念の緑地整備がなされた園地に、奥尻島津波館がある。
 ここは2008年のときにも観光バスで訪れ、津波襲来時の生々しい弩迫力映像などを観ている。

 そのときは、同乗仲間があったので感じなかったことだが、きょうは、ボクらのほかに見学者は一組きり。案内係の方にうかがうと「えぇ、ときとともに少なくなってきていますね」とのことだった。

 いま、《3.11》被災地東北の各県各市町村では、“震災遺構”保存や“被災記念館・復興祈念館”などの建設が数々予定されている。
 それが真に地元の、被災した方々の意志であるかぎりは、なにも余所者が口を挟めることではないけれど。「先に同じ経験をした土地では、いまこうなっている」という事実は、自己満足になっていないかを考える、参考にはなろうかと思うのだ。

 外に出てふと気づくと、津波館のガラス壁に、青苗灯台の赤白斑が映っていた。
 「そこは出すぎた場所だよ」
 海と陸との、ぎりぎりの接点に立つものの声が、聞こえるようだった…。
 




*写真、(上段)は青苗漁港の「望海橋」とその周辺の情景、(下段)は青苗灯台下の園地周辺と奥尻島津波館のある風景、いずれにしても人影まばら*