どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

だした「たより」に「へんじ」がない…空怖ろしさ/それでも乱文乱筆の手紙を書きつづける爺さま…より

-No.0367-
★2014年09月23日(火曜日、秋分の日
★《3.11》フクシマから → 1293日
★オリンピック東京まで → 2131日




◆「無言の挨拶」の空怖ろしさ

 〈秋分の日〉に…というわけでもない、のだけれど。
 夏のギラギラとは違ってきた「秋の陽のヴィオロンの…」、そこはかとない寂寥感があってのことにはチガイない。

 こちらから送った「たより」への、返信が少なくなってきました。
 (あちらからいただく「たより」も少ないのはもちろんのこと)
 それも、つい最近に始まったことではなくて。
 ぼくは、これまでも、ずいぶん我慢してきた覚えがあるので。
 分量でいえば、そう“フクシマ”の放射能汚染水タンクがもうギリギリ満杯、のところまできているような状況なのです。

 まず、封書にせよ葉書にせよ、郵送される文書のこと。
 ぼくは、やはり、これが「たより」の原点だと思います。
 理由は、「行間」というものがあるから、メールに行間はありません。
 言葉にはならない「心の襞」まで伝えてくれる、行間は「たより」の命なのに。

 電話の普及が、文書の「たより」が減りだした始まり。
 たしかにそのころ電話は、手書き文字や文章作法の苦手な人にとっては、まさしく福音。
 昔の人の達者な筆づかいや、流れるような文章法は立派にすぎて、比べようもない自分の乱文乱筆には、手を焼いた人が多かったのは事実ですが。

 おなじ乱文乱筆なかまのボクだって、それでも「行間」のある「たより」の佳さをすてきれない。
 なのに「めんどう」だからという理由で、簡便な電話にすがりつきました。
 電話の肉声には、肉筆の「たより」にはない、棘や毒もあることを知らずに。
 それが、ひいては「返事」をしない、結果「黙殺」へとひたすら退化してきました。

 ファックスは、正確ではあっても、情緒などは削ぎ落とされるもの。
 電子メールのたぐいは、もはや、ただの「やりとり」、表面的な意思疎通にすぎません。

 けれども、時勢・潮流には逆らえず、ボクもいまはメールで「やりとり」してる。
 (返事がない)よりはマシか…と思ったからでしたが。
 イケマセンでしたね、メールだって同じこと。
 自分の都合がわるいか、面倒くさいかすると、返信をしない。
 「悪気はない」つもりでしょうが、この「無言の挨拶」ほどキツイものもない。

 いきなり頬っぺたに平手打ち…くらいのヒドイ仕業。
 その痛さを知っていながら、自分も相手に同じ手を使ってしまう、空怖ろしさ。
 だから逆に、いまの子どもたち世代は、必死になって孤立を避けるためだけの、さして意味もないアイサツの「やりとり」に汲々とするんだよ…ね。

 そういうわけで…。
 「行間」の情趣あじわえる文書の「たより」から、いまのぼくはジリジリと後退を余儀なくされながら、必死に耐えているのデス。
 「返信ください」という、なんと、言わずもがな…の一文を加える抵抗こころみつつ。
 そうして、そういう自分がいつのまにか、「無言の挨拶」族にとりこまれてしまう空怖ろしさに内心おびえつつ…。

 (この、薄汚れちまった流れって、イジメとかセクハラとか、ヘイトスピーチとかの動向とおなじ、いずれは合流することになるんじゃないだろうか)