どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

一年後の被災地巡礼(10)   −新学年・もうひとつの・秋山郷−





 4月7日(土)
 このたび<一年後の被災地巡礼>旅、“北の大地”伊達市のハウスに亘理町から移住いちご農家の方々を訪ねて、一応の区切りとはした。
 が…まだ終えたわけではない。
 前々から指先の小さな棘のように気になっていた、もうひとつの被災地<長野県栄村>のその後も訪ねておきたかった。またあらためて出かけてもいいのだが、それではどうも気もちがスッキリしない…のだから、この際つづきの旅程に組みこむ。
 新日本海フェリーの航路に<苫小牧東港−秋田−新潟−敦賀>というのがあるので、これで新潟まで行けばいい。

 
 吾ながら(旅人だな)と思うのは、心に好奇心の占める領分が多くて、しかも揺れ揺れてなかなかに定まりにくい。
 中学のとき、仏教精神でいくぼくの学校には書道の時間があったのだが、その先生がとぼけた人だった。お月さんみたいな丸顔に柔和な笑みを浮かべて、「うまい字を書こうと思うな」と彼はいう。「それぞれが自分に相応しい、いい字を書くこと」。
 わかったようでわからない。みんなキョトンとしていると…。
 「コロコロした心を掌[たなごころ]に受けて転がらないようにすると、自分というものが見えてくる」
 坐禅の法界定印[ほっかいじょういん]みたいな形に手を組ませ、しばし瞑想の後に筆をとらせた。
 ただしどれほどの効果があったかは疑わしい、下手なやつはやっぱり下手なままだった。
 そうしてぼくは、筆もコロコロもずっとその頃とかわらない、というわけだ。


 単調な汀線に沿って国道36号(室蘭街道)を行くうちに、支笏湖に寄り道してみたくなる。湖畔を巡ってから苫小牧に下りても、充分にまにあう。
 ポロトコタンのある白老から、山地へと駆け上がる道道86号(白老大滝線)に入ったのだけれども……。
 なんと、吹雪に行く手を遮られた。ついさっきまで陽がさしていたのに、不意に分厚いダークグレイの雲とともに、重く湿った春のぼた雪が吹きつけてきた。たちまちワイパーがフロントガラスに白い土手を築き、掠れた悲鳴をあげて視界を奪い去る。天気の変わりやすいこの季節のこと、しばらくゆるゆると行くうちには雪雲を抜けられそうな気もしたが、きょうのぼくに冒険気分はない。山稜のホロホロ峠まで行かずに引き返した。下りてきたら白老の海辺は薄日…と思えば苫小牧の町に入るころには道が雨に濡れた。
 どこか妙にちぐはぐな感じを拭いきれなかったが、車の垢落としとフェリーに乗るまでの時間つぶしに、ガソリンスタンドで洗車とワックスがけをしてもらう。


 夕刻、苫小牧東港フェリーターミナルを出航。
 積荷たっぷり乗客すくなめの船は、内浦湾(噴火湾)沖から夜陰の津軽海峡を横断、明け方に竜飛岬をまわって日本海に入り、男鹿半島を眺めて朝の秋田港に寄港した。
 ここでフェリー本来の業務、積載車輛荷物の積み下ろしに1時間余り。
 休憩下船もできずに、デッキに立って街の方をぼんやり眺めていると、ふと映画『さすらいの航海』の船客みたいに不安定な、よるべない気分だった。
 ここで船を下りて山を越えれば岩手、盛岡から三陸の海岸部あたりまではほぼ半日の距離なのだ。国土経営という大きな視野から見たとき、日本はほんとに狭い国なのかどうか…と想う。
 <3.11>大津波に運び去られたものの、厖大な量が遥々アメリカ大陸西海岸に続々と流れ寄るいっぽう、こうした大方の流路に逆らって津軽海峡を渡り、日本海沿岸をさすらい、ついには沖縄あたりにまで漂着した舟などもある。旅路はるかなり…だ。
 たしかに、こんなに小さな国土でさえ、いったん大自然の猛威に曝されてしまえば、復興どころか復旧さへもままならない。
 かぎりない膨張を夢見る〈砂上の楼閣〉、それが現実の日本だし、世界ではないのかと思う。もう、いいかげんにしないと、いけない。このまま突き進めば、破滅するばかりだ。


 4月8日(日)
 船は右に飛島、左に残雪の鳥海山を望んで日本海を南下。
 昼すぎには粟島を眺めて、15:30ころ新潟港着。船はこの先、さらに翌日(出航の翌々日)早朝5時着の予定で敦賀港まで行く。
 ぼくらは、関越道で信越国境を目指した。
 越後川口サービスエリアあたりで仮眠のつもりでいたのだが、風の寒さに気もちがくだけて急遽、宿を探すことに。
 途中のパーキングエリアで情報をもらい、(まだ冬眠中)風情の宿に電話をかけまくってやっと、十日町の二ツ屋温泉、豪雪地帯の宿に泊まることをえた。


 4月9日(月)
 国道117号を栄村へ。途中、道行く晴着の親子に、きょうが新学年の始業式であることを知る。遅れても、春。
 津南町に大割野[おおわりの]というところがあり、信濃川流域の<平野>よりも<谷>をつよく印象づけられる地名が忘れ難いのだが、ここから奥深く分け入った山中に秘境“秋山郷”がある。まず、そこの様子を知りたかった。
 あの<3.11>東日本大震災から半日後の3月12日早朝4時ごろに、内陸の信州でも<長野県北部地震>と呼ばれる大きな地震があった。逆断層型直下型でマグニチュード6.7。人々の目と注意とはすべて太平洋沿岸の大津波被害にクギ付けにされている最中のことで、見すごされがちだったけれど、このたてつづけの列島大揺れに『日本沈没』を想った人も少なくなかったはずだ。主な被害地は信越国境の長野県栄村、信濃川河岸段丘周辺の飯山線沿線地域で、“秋山郷”の被災報告はなかったのだが、この地を訪れたことのある人なら(ほんとうに無事だろうか…)心配したと思う。
 大割野から“秋山郷”への国道405号は、国道とは名ばかり…の道のひとつ(林道東秋山線ともいう)。
 地図上を追って行くと国道405号は、東にスキーの苗場山(2145m)、西に鳥甲山(2038m)を仰いで、信越国境を越えるとまもなくプツンと途切れ、あとは山の稜線と中津川の谷がつづくばかり。消えた国道…が、ふたたび地図上に顔を見せるのは南へ、こんどは群馬との県境を越えて野反湖の上流あたりだ。この国道が繋がることはまずなかろうと思うけれど、その先は草津・白根に至る。
 ぼくが、はじめてこの道を辿ったのは20年以上も前になるだろうか…。
 津南の野をすぎると中津川(信濃川の支流)の流れは谷が深くなり、道は曲折を繰り返すたびに険阻になって、こちらの岸から向うの岸へ、向うの岸からまたこちらの岸へと、渡りながらきわどく心細くなっていく。少ないとはいえ対向車があれば、たがいにヒヤヒヤしながらのゆずりあい、すれちがい。
 そうこうするうちに、つい近ごろ路肩が崩落したばかりらしい難所で、向こうも都会ナンバーの乗用車と鉢合わせした。登りのこちらは山側の崖、下りの向うは谷側のもじどおり断崖絶壁。フロントガラスに若い女性の顔が、白く引き攣っている。ぼくは懸命にぎりぎりまで崖ぎわに車を寄せ、すれちがいを促すけれども、相手はピクリとも動いてくれない。
 仕方なく下りて相手の運転席に近寄ると、窓ガラスが開いて「すいません、代わって(動かして)もらえませんか」という。そうして、自分はさっさと車を離れてしまう。どうにもならない事態を、ぼくは2台の車を交互に動かすことで、どうにかやっと擦り抜けた。
 かつて、そんなことがあった道である。
 いまは、改修を度重ねてずいぶん良くなっている、とはいっても<険阻>が割り引かれているわけではないのだ。


 いよいよ“信州秋山郷”に入る手前、赤沢というちょっとした集落に自然木造り家具の<山源木工>がある。
 「どんなに大木といったって、運ぶのにさほどの苦労はないのさ、造っていくほうがずっと手間だ」
 こともなげに主人がいう店内には、トチやケヤキ材などのビックリするような大作がズラリと並ぶ。
 「この辺は(鳥甲山の)向うとちがって、揺れたことは揺れたけど、たいしたことはなかったな」
 <長野県北部地震>で被害のあった西の山麓、長野県栄村のほうをしきりに気遣った。トリカブト(山)の地盤はしっかり根性がきついようだ…ともいっていた。


 天然木輪切りの巨きなテーブルに“ねこつぐら”がのっている。
 束ねた藁で編み上げる、いかにも仔猫に似合いの、ほのぼのと小さなお家。もともと農家で子守りに使っていた、藁の揺り篭(つぐら)から発展したものらしい。山形に<いずめこ人形>という郷土民芸があるが、あの<いずめ>と<つぐら>は同様のものといっていい。
 ぼくも気に入って買って帰り、紹介の記事も書いたりした。手間のかかる作り物で土産には(1万円くらいする)高価な品だが、その後の猫ブームで大人気になってからは注文予約制だという。わが家の<ねこつぐら>の場合は、肝心の猫が寄り付かないまま、愛嬌のある置物でありつづけた。


 この“秋山郷”の民俗を広く世に知らしめたのが鈴木牧之で、ぼくもまた彼の本を読んでこの秘境を知った。牧之の『秋山記行』や『北越雪譜』に描かれた豪雪地帯の厳しさは、ヤワな都会育ちには遥かに想像を絶した世界だったわけだが、飢饉で廃絶した集落もある状況はいまも現実として感知できるのだった。
 急な坂道を水が波立って流れ下っているのは、山影の残雪を融かすくふうであり、しかしその流れの速さの半端でない証拠には、うっかり踏み込もうものならたちまち頭からずぶ濡れになってしまう。
 最奥の切明〔きりあけ〕あたりは、まだ雪ごもりから覚めきっていない風情で、堆〔うずたかい〕い積雪の向うに道は消えていた。雑魚川林道といって奥志賀高原との間を結ぶこのワインディング・ロードは、ときにみずから倒木など取り除けながら進む狩猟感覚の道だったが、どうやら5月の大型連休ころまでは通れそうになかった。
 地震被害のなかったことをたしかめて、来た道を引き返す。


 国道117号に戻って長野県、栄村に入る。
 道の駅に立ち寄り土地の人々に震災後の様子を尋ねると、被災したところももうたいがいはいい(復旧した)ようだ、ということだった。一年後…を想う。
 国道から入る道の橋が落ちたという、青倉集落に行ってみた。
 落ちたままの橋は無残だった、けれども別の道から周り込んだ被災民家は、ほとんどが修復あるいは建て替えられていた。
 まず、被害の規模が桁ちがいだったことは、いうまでもないけれど。それだけではない喪失感の深さのちがい…。
 落ちたり崩れたりはしていても、(流されてはいない)のがよかったのだと気づく。
 応急の板を打ち付けた家の、壁のなかの暮らしの苦労までは知れないながら…まだよかったかナ、と思える。
 海の津波だけではない、山津波にしてもそうだった。雲仙普賢岳の土石流跡の、凄まじいまでの喪失感の深さを想い出す。
 なにもかも、のこらず洗い流し、押し流し去り、きれいにもっていってしまう津波は、ひとにぎりの感傷すらゆるさず、根こそぎに奪う暗黒の使者だった。
 
 
 このたび<一年後の被災地巡礼>を、この地で終えた。
 ぼくは虚脱感に近い身内のほてりを鎮めに、志賀高原地獄谷温泉の宿に一夜をすごしてから、帰京した。
 ここの一軒宿後楽館http://www.mountaintrad.co.jp/~korakukan/は、ぼくお気に入りの“日本の宿”。
 近くの野猿公苑には、サル専用の露天風呂があることでも知られるところだが、その話しはまたの機会にしようと思う。