どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地東北2018福島・巡礼/ <報告記23>-伊達市-もんもの家

-No.1885-
★2018年11月19日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2811日
★ オリンピックTOKYOまで →  613日






◆〝遠い〟できごとだった原発事故

 伊達市の地理は、東隣り相馬市、西隣り福島市に隣接、宮城県境に位置する。
 古くは、伊達(仙台)藩発祥の地。

 北海道の噴火湾沿いにも、同じ名の伊達市があって。
 (震災のあと、伊達藩ゆかりの亘理町いちご農家の人たちに声をかけ、移住生産を実現したこと…そのいきさつ、その後のあれこれについては、このブログでもくりかえし報告してきている)
 市の成立では、北海道の方が先で1972(昭和47)年、福島県の方は2006(平成18)年に伊達市になった。

 福島盆地、平野部の一画を占め、県政の中心福島市を支える立場にある現在は、その衛星都市的な役割もになって経済活動も活発、人口も多い。
 湾岸の相馬市や南相馬市にくらべたら、ずっと都会的な〝街〟…といっていい。

 そんな内陸の街も、東日本大震災のときには、人が立っていられないほど大きく揺さぶられた。
 でも、地震の揺れだっけだったら「怖かったね」くらいですんだろう。
 
 ……………
 
 ちなみに、伊達市(人口6万人余)の震災被害を見ておくと。
  〇建物全壊  25戸( 25世帯)
  〇建物半壊 239戸(242世帯)
  〇震災関連死  1人

 ……………

 その直後におこった福島第一原発の爆発事故が、そこからは〝遠かった〟はずの街に住む人、とりわけ出産・育児期にある若いお母さんたちに、思ってもみなかった大きな揺さぶりをかけ迫ってきた。
 
 ……………

 ぼくは震災後、はじめて伊達市を訪れる。
「木を見て森を見ない」(細かいことに気をとられて大きく全体をつかまない)
 箴言を忘れたわけではなかった、けれども……
 手がかり、とっかかりとなるものがなかった、こともある。

 このたび「伊達もんもの家」を紹介する新聞記事に出逢って、きっかけが掴めた。
 「もんも」というのは特産(収穫量福島市に次ぐ県内2位)モモ(桃)のこと。
 発音からして児童語からきとものではないか。

 ちなみに、ここ伊達市の梁川〔やながわ〕町は、干し柿(別名、吊るし柿)のひとつ「あんぽ柿」発祥の地でもある。
 いまどきの人たちにも<ドライフルーツ>感覚で親しまれている。

 ……………

 ところで、さて、その「もんもの家」。
 所在を探しあてるのに、クロウした。
 
 湾岸でもこれまでに訪問のクロウはずいぶんあって、それは、途中の道をたずねたい人さえ見つからない種類の困惑だったわけだが、〝街なか〟の伊達市では逆に、他所者にとっては迷路に挑むような種類の困難さだった。土地柄さまざま、人間模様もさまざまだ。

 ともあれ、ようやく探しあてた「もんもの家」。
 そこは、放射能汚染をのがれて避難体験をした人たちが集まる「子育て世代と高齢者交流サロン」。
 親子でくつろげる「おしゃべりと学びの場」でもある。

 爆発のあった原発からは北西へ約60km、避難指示区域にもならなかった伊達市だ、けれども。
 市域のなかには放射線量の高い地域もあって、約900人が県外に避難。
 いま現在も、帰還した人より避難をつづける人の方が多い、かも知れない。

 その多くが、放射能の影響のよりおおきいことが懸念される、子どもを抱えるお母さんたち。
 彼女たちが同時に抱える、さまざまな心身と環境の問題や、かずかずの疑問や不安を、心おきなくうったえて相談でき、話し合えもする場、がもとめられていた。

 「もんもの家」の母体は、2000年からつづくNPO法人「りょうぜん里山がっこう」。
 しかし、そのたいせつな体験フィールドの里山に、いまは不安がいっぱいだ。

 伊達市には、除染が十分ではない地域もある。
 また、公共の場の除染にはオカミからの助けがあっても、個人住宅の場合は自主除染であったりもした。

 そんな状況で「ハイ安全です」といわれても、安心できないし、子どもを外で遊ばせることもできない。
 そんな、困惑するばかりの環境と境遇におかれたお母さんたちを支え、どこまでも寄り添う場が「もんもの家」。
 そこではいま、託児つきパソコン教室や放射線測定会なども開かれるが、それはあくまでも心をひらいてくれる環境づくりをたいせつに、そのさき個々の事情にかかわることには、つとめてふれない。

 ……………

 訪れた日は、予定された会合もないふだんの日。
 みずからも避難体験者のスタッフのうち、お二人に逢ってお話しをうかがうことができた。

 それもインタビューではなく、ご自身もふくめた避難体験にまつわるあれこれの話しを、四方山〔よもやま〕ふうに。

 ここでは、それに、昨19年にまとめられた『避難体験記録-原発事故に揺らぐ自主避難者の想いと決断-』に寄せられた、14人の避難体験をまじえた感想としたい。

 彼女たちの避難体験はその多くが、パートナー(夫)と相談のうえ、もしくは親族縁者・友人知人のすすめで始まっている。同じ子育て世代といっても、みずからも職をもつ人もいれば、専業主婦もいて、立場もいろいろだったけれど。

 彼女たちにとって原発は、こんどのことがあるまで、学校でまなんだ程度より深い知識も意識もない、縁〝遠い〟もの。それだけに不安は大きく、さまざまな情報に気もちを揺さぶられ、苛〔さいな〕まれつづけた。

 避難先に山形県が多かったのは、県庁所在地間(福島市山形市)の距離が高速道でおよそ1時間ほどと近かったこと。それは、なにより、仕事で故郷を離れられない夫(子どもの父親)との距離(時間も気もちも)を縮めたいため、そうしてまた、それが自身をなっとくさせ、慰めになることでもあったから。

 福島からの避難者が他所では忌避されることを知って、プレッシャーを感じた人があり、いっぽう、みずからは避難しない人たちからの、無理解で冷ややかな目に晒された人もいた。
 故郷にのこって元気にすごす人たちを見ると、(避難したじぶんたちの方ががわるかったのか)と思えてしまったり。

 子どものためを思ってした避難が、子どもの心を不安定にし、それがひいては自身の不安定にもなり、そうして夫との不自然な関係がもたらすさまざまな不安定こそが、きわめて痛切だったこと。

 避難がもとで親族との軋轢があったり、見知らぬ土地での生活に戸惑ったり、慣れるまでは引き籠り状態で耐えた人もある。
 しかし、おおむね子どもたちは、父親と離れて暮らさなければならない理不尽に泣いたりしがらも、環境に順応する知恵も力も身につけているようだった。
 それにつられるようにしてお母さんたちも、避難先で出逢った人たちとの交流に慰められ、遠く離れた地への〝保養〟に癒されたり…もあった。
 
 帰還までの時間経過も人それぞれだったけれど、故郷に戻るきっかけのほとんどが、出産であり、子どもの就園・就学であった。なかには夫や両親に説得され、じぶんの気もちはなっとくできないまま帰還した人もいたけれど。

 帰還にあたっては、そのよろこびと同時に、避難先でうまれた新たな親交、親切にしてもらった人たちとの別れに、また別の涙を流さなければならなかった。

 そうして、このたび、人生の一大事をのりこえたいま、お母さんたちに共通するのは。
 国や社会や人に対しての<気づき>であり、わたしに芽生えた<自覚>であり、ものごとを考えたり行動したりするときの<自主性>と、それにともなう<自覚>のつよさであった。

 原発の爆発事故という、未曽有のことがもたらしたものが、つまるところ〝それ〟だった事実を、なにはともあれ、ひとまず、それぞれの心にとめておきたい。

 それと、もうひとつ。
 原発に近い沿岸部で被災した人たちと、(少し離れて)〝遠い〟内陸部で被災した人たちとの間に、じつはどれほどのチガイもなかったことも、あわせて心にとめておきたいと思う。

 ……………

 それにしても
 原発爆発事故という未曽有の大波瀾が、人々の心にのこした傷の大きさ深さを、あらためて思い知るにつけ。
 それらの人々に、けっして親身には寄り添おうとはしないこの国や、いまはもうまるで他人事だったかのように振る舞う電力会社とは<ナンなのか>を、あらためて厳しく考えないわけにはいかない。

◆余話

 この2018福島巡礼、取材行は7月後半のことだった。

 ことしの「夏の甲子園」は、秋田代表「金足農高」フィーバーで沸いたわけだが、それもすでに<すぎたこと>、時はすぎゆくまま…だけれど。

 福島代表は聖光学園、こんかいは早々と甲子園を去ったが、近ごろ実力校にのしあがってきた。
 この聖光学園が伊達市にあること、他所の土地人にはあまり知られていないと思う。
 ときは、地方予選がおわって「いざ甲子園」の時期。

 ぼくは、伊達市教育委員会に「夏の甲子園」出場のお祝いを述べに行った。
 冗談ではなしに、それが挨拶のコトバだったが。

 訪問の目的は、「2020年東京オリンピックの聖火をバイオメタンで燃やそう!」プロジェクトへの協力をお願いするため。
 たがいの健闘を祈って、エールを交換してきた。

ちょっとヒトコト…フタコト…ミコト ~No.10~ 北軽井沢…サヨナラぼくたちの土地

-No.1883-
★2018年11月17日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 2809日
★ オリンピックTOKYOまで →  615日














★夢を買う…~No.9~北軽井沢の旅のつづき★

「夢を…買わないか」
 仕事でつきあいのあったデザイン会社の社長から声をかけられ。
「えっ!?」
 ぼくは不覚にもドギマギうろたえた。

 彼は、別荘地のオーナーにならないか、というのであった。
 そのとき、ぼくがどう応えたか、覚えていない…が。
 想いは遠くへ飛んでいた、記憶がある。

 ぼくは敗戦後すぐ、まだ食糧事情のわるいさなかに生まれた。
 父は、おかげさまで一流会社のサラリーマンだったけれど、寮での暮らしはラクではなく。
 食卓によく登場するのは、「おじや」や「すいとん」、生きていくのにカツカツのものだった。

 近所に、飢えてグズグズ泣く子を見て育ち。
 うちはまだマシ…と思っていたら、ある日、どこかの小母さんがなにやら干からびたものを届けてくれ。
 感謝の腰を折るようにした母が、その日の夕食に、目に鮮やかな緑色の具が入った鍋をこしらえてくれて。
 これが「いもがら」だと、教えられ……

 ぼくは、そのとき不意に、コレさえ口にすることができなくなったときが「飢える」ということなのだ、と悟ってしまい。
 飢えるのはごめんだ、飢えたくはない、と懸命に思った。

 そのせいか。
 ぼくは、自分の家が持てるとは夢にも思わず、ましてや車や土地なんかが持てるようになるとは、考えもしなかった。

 それが、ぼくが育ち盛りの復興期に、うちはいつのまにか〝中流家庭〟と呼ばれる存在になっており。
 父母は、寮から市営住宅を経て、土地を買って家を建て、ぼくはその後を継ぐことになり。
 気がつけば、結婚もし、車まで転がしていた……

 そうして
 冒頭の「夢を買う」話しになる。
 「北軽井沢に別荘地として将来有望な土地がある」というのだった。

 そのデザイン会社の社長はスポーツマンで、冬はスキー・ツアーまで企画した。
 この話しは、そんな縁からヒョイと生まれてきたものらしい。
 社長みずからがまず買いもとめて、ごくかぎられた範囲にもちかける気になった、という。

 「どんなところか、見せてもらえばいい」
 誘われるままに出かけたら、思いのほかにヨサそうなところだった。
 ときは1970年代後半、ぼくたちは20代後半。

 86(昭和61)年12月~91(平成3)年2月の「バブル景気」より10年ほど前のことだったけれども、経済は右肩上がりの復興後期。
 「ぼくには縁のない話し」とかなんとか言いながら、ちゃっかり波に乗っていたのかも知れない。

 その頃、いずれ軽井沢を追い越すかも知れないと噂された、北軽井沢。
 雑木林の、右には浅間の噴煙を眺め、隣りの牧草地との間には小川が流れる、200坪。
 「いずれは、ささやかな別荘か、ペンションにするなんてのもありか」

 いい気な短絡思考をさせるふんいきが、「夢を買う」気にさせたし。
 地目「原野」の値も安く、分割払いにしてもらえば、共働きのぼくらにも手が届いた。

 ……………

 ともあれ
 こうして手に入れた「夢の土地」は、とどのつまり「夢のままの土地」になった。

 それからウン十年の歳月を経る間には、さまざまな紆余曲折があり、時の世の波も、吾らが人生の波もあって、気がつけば「片づいて生きる」歳になっていた。

 夢に「ありがとう」を言って、跡継ぎのない身の〝整理旅〟に出た、という次第。

 ……………

 北軽井沢は かわらない 浅間山麓の自然のなかだった。
 かつてあった「いずれ軽井沢を追い越すかも知れない」との噂は…ついにウワサのままか。
 ぼくたちの土地の周辺にも見られた別荘群の、多くがいまは、持ち主が老いたからだろう、空き家も同然になっており。

 ぼくたちの土地を、どうすれば手ばなせるのか? も、わからない。

 ルーレットに球を転がす心境で、電話番号簿から見つけた不動産屋さんを訪ねたら、そこにラッキーな出会いが待っていてくれた。
 ぼくらにも まだ ツキがある。

 いや。
 実際は、こちらの事情をうちあけて、「よしなに」お願いして帰ってきただけだから、まだなんともカイケツの道すじはついていないのだけれども……

 北軽井沢には「SweetGrass」という、ちょと名の知られたグリーンステージのキャンプ場がある。
 ぼくらが逢ったのは、そこを事業経営の母胎にする「きたもっく」の代表、福嶋誠さん。
 その肩書のひとつに、不動産取引免許が含まれているにすぎない。
 有限会社きたもっく

 ……………

 彼は、「ルオム(フィンランド語で、自然に従う生き方)」の理念をバックボーンに、浅間山麓北軽井沢高原に、次代をになう若者たちと「The future is in nature」のさまざまな活動と事業を展開。

 彼の〝生き方〟というか、そのレゾンデートルは著書『未来は自然の中にある』(上毛新聞社出版部刊、1800円)に充ち溢れている。
 そうしてそれは、ぼくの〝世界観〟とも親しい。
   
 ……………

 ぼくらの土地が、どうなるか あるいは ならないか。
 それを別にしても、また逢うことになるだろう気がしている。
 したがって、このブログでもまた、お話しするチャンスが巡って来ることになるにちがいない。


《11.3.11》被災地東北2018福島・巡礼/ <報告記22>-川俣町-山木屋のこと

-No.1882-
★2018年11月16日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2808日
★ オリンピックTOKYOまで →  616日






◆幻になった取材拠点

 福島県川俣町は、双葉郡でも相馬郡でもなく、伊達郡に属する。
 隣接自治体を見ると、西隣りの福島市から反時計まわりに、二本松市浪江町飯舘村そして伊達市

 つまり〝中通り〟の町というより、〝中通り〟の福島市二本松市から〝浜通り〟へと越え行く途中<阿武隈高地の町>といったほうがあてはまる。

 東日本大震災があって、福島第一原発が爆発事故をおこした、あのとき。
 福島へ、〝浜通り〟へのアプローチを模索したぼくは、規制がキツく(厳重に)なりそうな海沿いのルートを避け、東北自動車道経由〝中通り〟から海を目指す道に目をつけた。
 
 ぼくは、アウト・ドア派だ。
 宿探しに苦労するくらいなら…と考えた、いっそキャンプ場を拠点にすればよかろう。

 手もとにあった「日本オートキャンプ協会」の冊子を見たら、「山木屋ジョイフルオートキャンプ場」というのがあった。
 所在は、川俣町はずれの山木屋地区。沿岸部へのアプローチにも都合がいい。

 しかし……
 とびつく思いでかけた電話に、応答はなく、何度かけなおしても発信音が虚しく響くばかり。

 これは……
 事態は、ぼくの予測を覆〔くつがえ〕して進んでいたからだった。

 日本の天候の変化は きほん 西から東へと移ろっていく。
 風(空気の動き)もまたおなじく、おおむね南西から北東へと移ろう。
 したがって、爆発した原子炉から放出された放射能の多くは、北東へ飛散するものと、ぼくは思っていたのだ。

 ……が、このとき、放射能をのせた風向きは西へとズれ、飯舘村から川俣町方面へと流れてきており。
 「山木屋ジョイフルオートキャンプ場」はすでに閉鎖になっていた。
 キャンプ場の取材拠点は〝幻〟となって消えた。

 それから、あらためた方針をたてなおして臨み、いまにいたる《11.3.11》被災地巡礼の旅では、一転、川俣町はアプローチとそしてリターンとの、いずれも<通りすがりの町>にならざるをえないことになった。

 町は古くから知られる「絹の里」といっても、いまどきの旅人にとっては、休憩に立ち寄る道の駅「かわまた」の、「シルクピア」に昔を偲ぶしかない。

 因縁の山木屋地区(2011年4月1日時点で、501世帯1,246人)は、「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」に指定され。
 17年春に「避難指示」が解除になるまでは、いたるところに「除染中」の幟がはためき、田畑にはその除染土入り黒のフレコンバッグが積み並べられる殺風景だった。

 もうしわけない、そんなわけで。
 8年目にして、はじめて意識して訪れた、川俣町。

 山木屋地区には、復興拠点商業施設「とんやの郷〔さと〕」ができ。

 道をはさんで向かいには、厳冬の田んぼに水を張り凍らせて造る、天然の青空スケートリンクが山間地らしい風景を見せていた。

 ここ川俣町の場合も、もとよりすでに人口減に悩まされてきており、このたびの原発爆発騒ぎがそれに輪をかけた…ことになるのであった。

 ……………

 川俣町の、被害のほどを見ておこう。
  〇建物の全壊 28世帯(82人)
  〇 〃 半壊 30世帯(93人)
  〇震災関連死 29人

◆山木屋の小学生5人・中学生10人

 震災前の山木屋地区(川俣町全体ではない)には、小学校が分校もあわせて3つ、中学校が1つだったけれども。
 「避難指示」解除後は、新しくできた合同校舎に、小・中学校がまとめられていた。

 ぼくは、ここでも中学校の教頭先生にお逢いして、持参の資料キットをさしあげ、「2020東京オリンピックの聖火をバイオメタンで燃やそう!」プロジェクトへの協力を、お願いした。
 ちなみに、そのとき伺った生徒数は、小学校が5人(すべて6年生)、中学生が10人。

 とくに小学校の6年生が5人しかいない、という現実はキビシイ。
 来春の入学予定者ゼロの可能性が高く、再開1年で休校か? の判断を迫られることになるからだ。

 ……………

 そうして
 それは けして ここだけの問題でもない。

 「避難指示」解除後の9市町村(広野・楢葉・富岡・浪江・南相馬・川内・葛尾・飯舘・川俣)。
 再開された小・中学校の児童生徒数は、爆発事故前のわずか9%にとどまっている。

 小規模校の特徴を挙げれば。
 利点は、教員の丁寧な指導が可能で、どの子も基本を身につけやすいこと。
 反面、不利な点は、人の意見を聞いたり議論したり、といった経験ができにくい。

 それ以上に困難な課題は、被災地校に赴任する教員の減少だろう。
 これには、住宅の確保がむずかしいために、遠距離通勤にならざるをえない事情もからむ。

 以上は、いずれも、かつて〝僻地校〟で話題になった課題とおなじダ……


ちょっとヒトコト…フタコト…ミコト ~No.9~ 北軽井沢の秋…紅葉を占う

-No.1881-
★2018年11月15日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2807日
★ オリンピックTOKYOまで →  617日















★ひさしぶりの高原★

 とくに《11.3.11》のことがあってからは、ずっと沿岸部にはりつきっぱなしだったことを、いまさらのように遠く想う。

 海のないところへ、高原へ。
 何年ぶりだろう…北軽井沢に1泊2日の〝小さな旅〟をしてきた。

 10月中旬。
 そろそろ紅葉前線が、東北から南下しはじめる頃。
 他人〔ひと〕さまよりもひと足はやく、<錦秋の秋>をもとめて歩きたがる人がふえてくる。
 何軒かの宿がすでに<満室>だったあとに、北軽井沢ハイランドリゾ-トホテルに部屋をとれたのはラッキーだった。

 北軽井沢。
 いまも、そこを長野県と思っている人が少なくない、けれど。
 実際は、軽井沢から県境を北に越えた浅間山の東麓、群馬県長野原町に属して。
 湯どころ草津伊香保八ッ場ダム騒ぎで知られた河原湯温泉に近い。

 東京都下、わが家のある町田市からは200kmの距離だが。
 圏央道から関越道経由で走れば、片道3時間半ほどだから、日帰りも可能。
 宿をとれば、ゆとりの1泊旅になる。

 ぼくたちの旅は、このたび別に目的もあったのだけれど、そのお話しは次回~No.10~にゆずって、本稿の主題は「紅葉の北軽井沢」。
 
 東京はじめ関東南部では、この夏の猛暑がようやくおさまると途端に、秋の足音たかく、いっきに冷えこんできたのだけれど。
 冬は-30度になることもある浅間山麓、北軽井沢高原はすでに、防寒着が恋しくなる冷たい風のなか。

 台風の多かったことし、豪雨災害などもあって<紅葉の色づき>のほどが心配されたけれど。
 きほん、暑い夏があってのち、秋朝晩の急な冷えこみがあると、紅葉にはよいので。
 この秋の紅黄葉の色づきは、どうやらわるくない。

 北軽井沢高原の紅葉は、まだはじまったばかり…ではあったけれど、冴えていた。
 
 北軽井沢ハイランドリゾ-トホテルの庭から、色づきはじめた樹々の枝ごしに眺める浅間山の景に惚れなおす。

 このたび、ぼくたちはホテルタイプの部屋をとったのだけれど、夏のシーズン中はコテージタイプの部屋をグループで利用する若者たちが多いところ。
 夕・朝食に供されるフランス料理にも、高原の爽やかな味わいがある。
 


《11.3.11》被災地東北2018福島・巡礼/ <報告記21>-飯舘村②-「いいたて電力」のことなど

-No.1880-
★2018年11月14日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2806日
★ オリンピックTOKYOまで →  618日









◆村民らが出資する「飯舘電力」

 ここ飯舘村でも、災禍をもたらした原発から〝再エネ(再生可能エネルギー)〟への転換を、復興の原動力に位置づけている。

 4年前、村内にわずか1ヶ所からスタートした小規模太陽光発電所が、ことしは31ヶ所(さらに年内に50ヶ所を視野)に増え、村外にまで電気を供給できるようになった。

 小規模31ヶ所にはワケがある。設立当初は大規模太陽光(メガソーラー)や大規模風力を目指したが、東北電力の買電拒否や、送電線増強費用拠出要求などがあって頓挫したため。
 (ほんとうに〝ニクイあんちくしょう〟なことをやってくれます)

 そこで、所有者が避難した農地などにパネルを設置、その下では牧草を育てるソーラーシェアリングに転向した。
 
 社長の小林稔(65)さんは和牛育成ひとすじの村民、副社長の佐藤弥右衛門(67)さんは飯舘の酒米で酒づくりをしてきた大和川酒蔵(喜多方市)の社長、《11.3.11》後はご当地エネルギーの仕掛け人でもある。

 飯舘電力が軌道にのったところで、小林社長は和牛の育成も再開。「飯舘牛」のブランド復活で発電との両立をはかり、目指すは「雇用の創出」と意気軒高だ。

 飯舘村の〝再エネ〟話しは、もうひとつある。
 

◆クロス発電

 飯舘村と東京の電気設備会社が出資した「いいたてまでいな風力発電」。

 村が所有する約14ヘクタールの牧草地に既存する、出力10,000kwのメガソーラー(いいたてまでいな太陽光発電所)に、新たにプラス。
 高さ150mの風力発電装置(風車2基)を増設。出力6,400kw、一般家庭約1,600世帯分(年間発電量約1、400万kw/h)をもくろむ。

 村は、東北電力に売電した収益を復興に役立てるつもりだ。
 (東北電力さん、もう〝邪魔〟はなしだぜ!)

 いいね! と思うのは、この施設。
 同じ敷地に併存する太陽光パネルと風車とで、送電線を共有(クロス発電)すること。
 これによって、供給の安定と送電線の有効活用をはかる、ことになる。

 来春(19年)完成、運転開始のときからは「いいたてまでいな再エネクロス発電所」に名称も変更…と、あくまでも「までい」でいく方針だ。

◆「帰還困難区域」長泥地区の〝苦渋の選択〟

 いっぽうに、重い課題ものこる。

 それは村の南部、比曽川沿いに、ほかの地区からもちこまれた除染土(放射能濃度の比較的低いものを選別)を使って農地を造成する計画があることだ。

 除染土を盛った上に覆土を被せ、新たな農地約34ヘクタールを造成する、という。
 <実証実験>と国が言う、その意図は明らかで、<除染土の最終処分量を減らす>こと、そのための<再利用>にほかならない。

 かわりに、<復興拠点>をここにも設ける、と。
 構想によるその範囲は、農地造成分を含む186ヘクタール(帰還困難区域の17%にあたる)。
 これによって長泥地区内70世帯の、大半が除染対象になる、というのだが……

 〝汚染〟も薄めてしまえば〝大過ない〟とでも、いうのだろうか?

 ※なお、ちなみに、この「特定復興再生拠点区域(復興拠点)」の除染工事(5町村目になる)は、その後、9月28日から始まっている。除染後はインフラ整備を進め、2023年春までの「避難指示解除」を目指す、という。

◆8年ぶりの運動会

 飯舘村の、復興拠点のメインは、もちろん役場周辺である。
 ここには町営の、リッパすぎるくらいのグラウンドと体育館ができ。
 医療・福祉・教育関係の諸機関も集まっている。

 学校を見よう。
 この春、再開されたばかりの村立小中学校(4校合併)は、役場のすぐ斜向かい。
 ぼくが訪れた7月下旬も、懸命な環境整備工事がつづいていた。
 認定こども園も、すぐ近くにある。

 これらに通う子どもたち合同の、8年ぶりの運動会が5月にあり。
 運動会の開催前には、子どもたちから帰村した全世帯に、メッセージを添えた招待状が送られた、という。

 ただし
 現状、児童・生徒数は事故前の約14%。
 ほとんどの子が村外の避難先からスクールバスで通っている。

 ここにも、ぼくは資料キットを持参して、「2020東京オリンピックの聖火をバイオメタンで燃やそう!」プロジェクトへの協力を、教頭先生にお願いしてきた。


ちょっとヒトコト…フタコト…ミコト ~No.8~ アマミノクロウサギ

-No.1879-
★2018年11月13日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2805日
★ オリンピックTOKYOまで →  619日





★仔を巣穴に閉じ籠める★

 ウサギにしては耳が短いし、四肢も短いので、どちらかというと「黒ネコのタンゴ」風である。
 光沢のある暗褐色の体毛につつまれて、これだけはウサギらしい顔かたち、可愛らしく小さな眼をしている。

 肢指には爪が発達してして、穴を掘るのが得意。
 これがアマミノクロウサギの、夜行性で穴居という生活の基本を決定している。

 ぼくは、ざんねんながら現場も現物も見てはいない。が…
 ドキュメントの映像で観た、子育ての場面にジンときてしまった。

 特別天然記念物で、絶滅危惧種でもあるアマミノクロウサギ
 その由来を訪ねると。

 奄美大島をふくむ南西諸島が、まだ台湾と陸続きだった中新世の頃にやってきて棲みつき、その後の地殻変動によって島に隔離されたものといわれる。

 大陸にのこった方の同属はすでに絶滅していることから、アマミノクロウサギが生きのこれたのは捕食者である大型哺乳動物がいなかったため、と考えられている。
 とはいえ、それでも毒蛇ハブの天敵(ほかにマングース、野イヌなど)はいるから、子育てには脅威。

 そこで、アマミノクロウサギの母親は、幼い仔のいる巣穴に立ち寄って乳を与え、授乳がすむと巣穴の入口を厳重に塞いでしまうのだ。
 これはもちろんハブの攻撃から仔を守るためで、こうしておけば、食餌の存在をセンサーで探りあて襲撃するハブの毒牙から遮断できる。

 しかし、それにしても……
 いのちの母乳を呑みおえた仔が、うながされるまでもなく、みずから母に背を向けて穴ぐらに入って行く姿はいじらしく、よくできた芝居の「子別れ」場面もかくやと想わせる。

 生きものが生きる、レゾンデートル(存在理由)と意味。
 〝種の保存〟にとって〝子育て〟はいつも、重大かつ深淵なテーマであり、親世代は精魂こめて腐心する。
 (危難を脱する術はどうあるべきか…)

 魚類や両生類に見られる「マウスブルーダー」と呼ばれる習性、一定の期間オヤが仔を口の中で育てる〝子守り〟法が究極の一手段であろう、が。

 アマミノクロウサギの親が仔を、巣穴の奥深く閉じ籠めるというのも、これに拮抗するくらいの思いきった〝子守り〟法かとボクには思える。

 こうした一定期間の〝子守り〟術のあと、アマミノクロウサギの親はやっと、ものごころついた(かどうか)の仔を連れ歩くようになる、という……

《11.3.11》被災地東北2018福島・巡礼/ <報告記20>-飯舘村①-

-No.1878-
★2018年11月12日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2804日
★ オリンピックTOKYOまで →  620日









飯舘村はガンバっている

 印象がつよい。
 それは、きっと、この山村が抱える〝里山〟環境のせいだし、それよりも、ぼくの<思いなし>のせいだ。

 <思いなし>の根っこは、この村が「日本一美しい村」連合に参加していることだった。
 05年に7つの町村でスタートした連合に加わったのが10年で、すぐ翌11年に東日本大震災に見舞われ、福島第一原発が爆発事故をおこし、噴出された放射能を運ぶ風はこの村の方角へと流れた……

 それゆえ、あの《11.3.11》後の巡礼旅、福島県で最初に訪れたところにもなった。

 東北道の福島西インターからいくつかの市町を抜け、飯舘村に入って辿る道は、想い描いた以上の里山風景であり。
 ぼくに童謡『ふるさと』の歌詞を想い出させた。
  〽うさぎ追いし かの山
   小鮒釣りし かの川

 ただ、全村避難した村は閑かすぎ、目には見えない放射能を裡に潜めていた……

 それから7年余の月日、訪れるたびに感じ入る<ふるさと里山>のキホンに、かわりはなかった。

 ……………

 飯舘村の、復興に向けたうごきが(他所目にも)カッパツになってきたのは、昨17年くらいからだろうか。
 拠点(重点)は、役場周辺と、もうひとつ、南相馬市から来る県道12号「原町川俣線」沿線の地域。

 まずは、その、村民にとっても来客にとっても交通の要の、県道沿いにある道の駅「までい館」を訪ねてみる。ここ、去年の春はまだ営々、工事中であった。

 「までい」とは、福島県北部の方言で「ゆっくり」とか「ていねいに」、また「こころをこめて」の意味あいも加味されたコトバ。
 「ユックリズム」や「スローライフ」の生き方にもかようもので、飯舘村ではかねてからこの「までい」をキーワードに<村おこし>の道をさぐってきた。

 その「までい」が、《11.3.11》福島第一原発事故による全村避難の苦境を経て、村民により痛切に感じられてきた…といっていい。
 昨17年春に、「帰還困難地区」の長泥など一部をのぞいて「避難指示」が解除になるのを待ちかねたように、かずかずの復興計画が実現にむけてうごきはじめ。

 「までい館」こそが、そのトップバッターであった。
 ここは、村の外からの訪客を迎え、そして、村に住む人たち同士の交流の場にもしていく、いわばホームグラウンドだ。

 この日はウィークデーであったにもかかわらず、館内は観光バスで訪れた人たちで賑わっており(もっともこれは、高齢化社会のいまどき珍しいことではないけれども…)。
 気がつけば、その人だかりのなかで菅野村長が笑顔をふりまき、ご婦人方の記念ツーショット撮影に応じていた。

 飯舘村の復興を目指す取り組みで話題になったのは、「ようこそ」補助金のこころみ。
 これは、「ふるさと納税制度」あるいは「いいたてっ子未来基金」に対して1万円以上の寄付をしてくれた人を対象に、その人が村を訪問の際、役場に行って申請書を提出すれば、自宅からの交通費のうち片道分を村で補助しましょう、というもの。
 とりあえず、来年(19年)3月末までの予定という。
 
 ……………

 敷地内のハウスでは、南国の花「ハイビスカス」の交配種「タイタンビカス」が栽培され、展示された鉢には大ぶりの花が咲いている。どうやら今日は、そのお披露目の会も予定されているらしい。

 生育旺盛で、強健な宿根草。草丈は2メートルほどに成長して、6月から9月にかけての開花期には、一日花が毎日かわるがわる咲き、シーズン中の花数は1株あたり200輪以上という。
 しかも、栽培が簡単、南国風の花にもかかわらず寒冷地でも地植え・屋外越冬が可能…とか。
 この「タイタンビカス」に、飯舘村は復興の起爆剤効果を期待しているようで、敷地内ではハウスの増築工事も進んでいた。

 想えば、葛尾村の「コチョウラン」、浪江町の「トルコギキョウ」、そして飯舘村の「タイタンビカス」と、復興の思いをたくすのに花はなによりのアイテム、であることがよくワカル。

 きっと……
 東日本の沿岸部、《11.3.11》の大津波で浚われ尽した住宅や田畑のあと、希望の欠片も見いだせなかった枯れ野っ原に…それでも翌春には土筆が芽を吹き、名も知れない草花がほころび咲いてくれた、その慰めに心いやされた記憶が、人々の脳裡に鮮明だったからだろう。

 冒頭に紹介した、「日本一美しい村」連合。
 現在は、あわせて63の町村および地域が加盟しており。
 そのなかにいまも、飯舘村はしっかり名を連ね、「美しい村」への〝帰還〟を目指している。

 けれども、現実には、村内いたるところに、まだ、除染土などを詰めたフレコンバッグの集積所が居坐りつづけている。

 ……………

 [飯舘村の現在]
 〇人口 5、749人(1、818戸)※2018年8月末現在
 〇避難者数 ※2018年10月1日現在
  県内 4、532人(1、848世帯)
  県外   281人(  151世帯)
  計  4,813人(1,999世帯) 
       
 ……………


ちょっとヒトコト…フタコト…ミコト ~No.7~ カッコ―<托卵>の真実

-No.1876-
★2018年11月10日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 2802日
★ オリンピックTOKYOまで →  622日





★カッコーは高原の鳥★

 樹林も暗いほどには繁っていない、陽ざしの明かるい斜面に似合う。
 緩やかに登る山の道を歩いていて、この鳥が鳴くと、しばしホッと休息の合図だ。
 あまり見かけない姿より、だんぜん声の鳥だ。

 「カッコー」の名も、まさにその(オスの)鳴き声に由来する。
 外国での命名にも、鳴き声に由来するものが多いそうな。

 いっぽうでカッコーには、(人には)奇妙に思える「托卵」という繁殖行動が知られている。
 「托卵」による繁殖は、自前の巣を営まず、ほかの鳥の巣に、巣の持ち主の留守をねらって己が卵を産みつけ、巣の持ち主の親鳥に、代りに子育てさせてしまおうという、じつにムシのいい行動である。

 それも「おねがします」と礼をつくして頼むのではない、親仔そろって、相手を騙して育てさせよう魂胆だ。

 身勝手な「托卵」には、とうぜん巧妙な作戦がともなう。
 ちゃっかり子育てを代わってもらうため、カッコーは己が産む卵の色や模様を、巣の持ち主鳥が産む卵に似せ。
 卵の数あわせをするためには、<育ての親>鳥の卵を捨て落として減らしたり、食べてしまったりもする。

 ぼくは、この「托卵」、カッコーのわがまま放題、手前勝手な行動だとばかり思っていたから。
 (どうも根性曲りでよくないなぁ……声はいいのに……)
 姿を見なければ、いっそ、そのほうがいいのかも知れない、と考えていた。

 ところが、それは「とんでもない誤解だ」という、研究結果だそうな。
 遺伝的に、カッコーはもはや、自らは巣を営むことのできない境遇になっているのだといわれ。それはどうやら、この鳥の体温変動が大きすぎること(卵を温めるのに不向き)と関係があるらしい。

 ちなみに、カッコーが托卵の対象にするのは、オオヨシキリホオジロ、モズ、オナガ、ジョービタキなど。

 カッコーのヒナは、巣の持ち主の鳥のヒナより早く、卵から孵化・誕生するようになっており、そこで、後から生まれてくる巣の持ち主鳥のヒナを放り捨てたり、食べてしまったり…で、自分だけを育てさせるように仕向けるのだという。
 これを専門用語では「片利片害共進化」というらしい。

 が…もちろん、そう上手くいくことばかりではない。
 托卵が遅れて企みが逆目にでることもあるそうな。
 とうぜん、カッコー同士の間にだって縄張り争いが存在する。

 それは肉食動物が、かならずしも食餌獲得に有利なわけではない、ことからも知れるわけだった。 

 たとえばヨシキリは、カッコーの卵を偽ものと見やぶって排除することがあるというし。自分の卵にはヒミツのサインを仕掛けたりもするとやら。

 そりゃそうだろう、そもそもが、カッコーとヨシキリじゃ、体の大きさが(8倍も)違いすぎる。
 どだい無理があるのを、なんとか押しとおしてきたカッコーなのだった……

 

 
  

 世の中にはワカラナイことがあるもので、客商売が流行らないときなどに言う「閑古鳥が鳴く」の、「カンコ鳥」は「カッコー鳥」からきたものだそうな。
 思わず(うむぅ)と唸ってしまいたくなるところ、だが…待てよ、晴天の似合うカッコーが黄昏時にでも鳴けば、たしかに(もの淋しい)風情かも知れないのだった。

 もうひとつ。
 有名なドイツ、シュヴァルツヴァルトの「鳩時計」、あれも、もともとは「カッコー」の声を模したものだ、と。これは、ぼくもそのとおりと認めますね。だって、あの時を告げる鳴き声は「鳩」じゃない、カッコーですもん。

 カッコーは、夏の渡り鳥。
 そういえば、春さきにカッコーの練習鳴きというのを聞いたことがない。

 …というのは
 日本では留鳥のウグイスは、春さきに野山を歩くと、まだ若い鳥たちが懸命に「鳴き声」のレッスンをする場面に遭遇するからだ。
 「ホ~ホケキョ」とスムースにはまだいかずに、「ホ~ッ、ホッ…ケキョ…ケ…」なんぞと微笑ましい。

 そこへいくとカッコーは、夏空に初めっから冴えた鳴き声を響かせる。
 
 十勝の「小豆づくり名人」と呼ばれる人が言っていた。
「小豆はカッコウが鳴いたら植える」
 もういいぞ…と、聞こえるんだそうな。

《11.3.11》被災地東北2018福島・巡礼/ <報告記19>-相馬市③-松川浦……曙光……

-No.1875-
★2018年11月09日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2801日
★ オリンピックTOKYOまで →  623日





















◆鵜の尾崎

 前回(11月7日、相馬市②)でもお話したとおり、松川浦あたり一帯の復興は、姿も美しい斜張橋の松川浦大橋ぬきには語れない。
 浦は、太平洋との出入り口が北端に近い原釜にあるので、南からは大洲海岸の道をしばらく走らなければならない。

 ここには、昔は板橋が架かり、それが壊れたときには渡し船で繋がれていたという。
 その頃の松川浦の風景も風情があったろうと思われるのだが、大橋ができて「白砂青松100景」と「渚100選」にも選ばれた大洲海岸が観光スポットにくわわると、もう、なくてはならないものだった。
 
 《11.3.11》の大津波による松川浦地区の被害は甚大だったが、その修復にも、壊れずにのこった大橋の果たした役割は大きなものだった。
 ほぼ壊滅した大洲海岸道路の復旧は、北と南、両方から同時に工事ができてスムースに進捗したのだ。

 それでも、6年の月日がかかった……
 その間、ぼくは原釜港側の大橋入口では警備員の赤旗に阻止されつづけ、南側、大洲海岸からの道は長いこと泥濘との悪戦苦闘に悩まされつづけた。

 それほどに開通を待ち望んだ橋が、ようやくに望みかなって渡ってみれば、気もちのいい潮風ドライブほんのひと走り。ぼくは憮然たる想いやりきれなくて…もういちど渡り直してみようかと思ったくらいだ。

 新しくなった松川浦新漁港を左横目に、ひとつトンネルを潜れば、もう大洲海岸。
 トンネルの上あたりが鵜の尾崎の灯台が建つ小ぶりな丘陵になっており、灯台へと上がる石段の途中には夕顔観音の社〔やしろ〕がある。

 鵜の尾崎から、潮風の眺めは、左手に松川浦新漁港の船溜まり、右手には延々とうちつづく大洲海岸の砂浜といまは痩せ細った砂丘、そのさらに右手一帯が松川浦の、のたりと広がる潟湖風景だった。
 津波の後、泥濘の道を苦労して訪れた浜には、松が幾株かはのこっていたのだけれど…いまはコンクリートの防波堤が遠くまで伸びるばかりで、一本の松ものこされてはいない。
 これから先、何年かをかけて植え直されていくのであろう……

 大洲海岸の南の外れには、みやげ用に海産物を商う施設ができており。
 以前のカタチをとどめて記憶にのこっているのは、水門くらいのもの。
 あとは、思いのほか早くに復旧した水田の緑と淡い水色ばかり。

 ぼくの脳裡には ぼんやりとながら これで松川浦は〝復旧〟なった…感があった。
 それにしても、この間の長かった歳月を想うにつけ。
 潟湖の静まる汀に車を停めた ぼくは瞑目して しばらくは 意外なほどの疲労感の深さにジッと身をまかせていた……





ちょっとヒトコト…フタコト…ミコト ~No.6~ ハチビキとコショウダイの刺身

-No.1874-
★2018年11月08日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2800日
★ オリンピックTOKYOまで →  624日










★生(活け)の味を知ることがセンケツです!★

 ぼくの<刺身愛>については、いまさら語るまでもない。
 お魚の味わい、魚種によってさまざま、調理法による引き立て方もさまざま…なのは、いうまでもない。
 とくに最近は、「刺身にまさる干物」の味わい深さが盛んにいわれる、けれど。

 ここでの主題は別にあるから、詳しくはまたの機会にゆずる、として。
 これだけは敢えて言っておきたい。
「魚の滋味、奥ゆきを知りたかったら、なによりもまず、生(活け)の身肉の底力を知ること」 

★皮も身肉も真っ赤なハチビキ★

 ハチビキという魚がいる。スズキの仲間だ。
 海底のあたりに遊泳する底生魚だそうで、けれども図鑑で見ると、細長い紡錘形の魚体はなるほどスズキさんに似て、尾鰭の発達ぶりから見ても泳ぎの得意な、筋肉質の魚にちがいなく思われた。

 そうなのだ! 魚のマコトの味わいは、その<姿・形>を知ってこそなのだ、けれども。
 ざんねんながら、ボクはまだこの「ハチビキ」、丸のまま<尾頭つき>の魚体を見ていない、つまり「さく」の状態で魚屋から買ってくる。
 でも、二度食べて、二度とも満足だった。

 特徴的なのは全身が赤色につつまれ、背は黒みがかった濃い赤、尾は鮮やかな赤で、愛嬌のある受け口をしている。
 どちらかというと暖海性の大型魚とか。
 店では「アカサバ(赤鯖)」の名で売っていて、値は高くなかった。
 
 外見だけじゃない。
 身肉も血のように濃い赤(血合いは紫色をおびる)で、「ちびき」の名は「血引き」からきているらしい。

 きっと、釣りをする人ならご存知の魚、けれども一般の人にはほとんど知られていない。
 市場をとおすほどの漁獲量はないからだろう。

 むかしの本『和漢三才図会』には、「味は美くない」「血の色を悪んで食べる人は少ない」とあるそうだが…なんの、いまどきボクらの舌には「なかなかの美味」。

 クロマグロのような<血の味わい>はなくて、色に似あわないさっぱり味をして、歯ごたえもよい。
 魚くささがないうえに、鮮度落ちも少ないようだった。

 ソテー(バター焼き)にしても旨いそうだし、沼津(静岡県)では干物を売っているそうだが、ぼくは二度とも鮮度のよいところを刺身でいただいた。

 「口福」だった。
 おいしいよ! 見かけたら食べてみて!!

★秋空の気もち晴れ晴れ歯ごたえコショウダイ

 「ハチビキ(赤鯖)」を食したのは、春さきであった。
 (冬から夏にかけてが旬…の魚といわれている)

 さて、秋になってぱったり出逢ったのが、ボクにとってはこれも初もの(どこぞの水族館で見たことはあったかな…程度)の「コショウダイ」。
 やっぱり、釣り人はご存知だけど派の魚らしく、魚屋の店頭で馴染めるものではない。

 それでも「ハチビキ」よりは流通するものと見え、「知っていたら通人級」とネットの『市場魚類図鑑』には紹介されていた。
 ちなみに「ハチビキ」の方は、ワン・ランク上の「達人級」であった。

 魚屋店頭の表示を見たときは 一瞬 手が引っ込みかかった。
 「コショウくさいのは…いかがなものか?」と思ったからだ。
 <食べ幸人>たちのウケを考えても、けだし命名(名づけ)は重要である。

 さて、「コショウダイ」という海水魚は、マットな銀の体表の、背鰭あたりから尾鰭にかけて黒胡椒を散らしたような斑点がある…のが特徴と知れた。スズキ目イサキ科。
 平たい<鯛型>からしても磯魚の仲間で、60cmくらいに成長するらしい。

 身肉は半透明に近い白身だし、血合いのきれいな赤の色つやもいい。
 刺身にひいて食べてみると、秋晴れの空を想わせるシャッキリ歯ごたえのよさに、微かに磯の香りがした。
 美味い! これもまた「口福」!!

 旬は春から夏とされる、けれども、魚屋は「産卵後すぐを除けばいつでもいい、味がおちることはない」と断言する。鮮度落ちも少ないようだ。

 思いのほか値段も安かったから、このさき知られてくれば人気がでてきそうな気がする。
 鮨ににぎって、レモン汁をたらしても冴えそうな……

《11.3.11》被災地東北2018福島・巡礼/ <報告記18>-相馬市②-松川浦と原釜尾浜海水浴場

-No.1873-
★2018年11月07日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2799日
★ オリンピックTOKYOまで →  625日













←2018年7月

       ↑2011年8月

◆松川浦大橋と大洲海岸道路の全開通

 《11.3.11》があって後の巡礼旅。
 ぼくたちが初めて福島県に入ったのは11年8月早々。

 外海に面した原釜漁港。
 吹く風の冷たい岸壁は瓦礫の散乱するままになっており、船底を晒して打ち上げられた漁船もまた手つかずに放置されたまま、内海(潟湖)松川浦の惨状もまた同じく……

 あまりの寒々とした光景になす術もなく、メモをとる余裕すら失ったぼくは、
「ここは漁港なんですが…ありません、なんにも手がかりがありません…こんなことってあるんでしょうか…」
 ボイス・レコーダーに声をふりしぼることしかできなかったのを、忘れない。

 それからは、この原釜漁港岸壁から望む松川浦大橋の景が、ぼくの《11.3.11》定点観察ポイントのひとつになっていた。

 この一帯に「ようやく復興の兆しか」に見えたのは、松川浦大橋の開通にほかならない。
 もともと橋そのものは津波に耐えて損傷も少なく、ただ橋を通して連絡する大洲海岸道路の方に甚大な被害があったための「通行止め」であった。

 あれから6年の歳月がながれて昨17年春、「松川浦大橋開通」の報せは朗報だった…が。
 現実は、松川浦出入り口の橋を渡れただけ。
 対岸、松川浦新港の復興はたしかにメデタイことだったけれど、その先の大洲海岸道路の改修復興が成らないことには、心底からの歓声は上がらない。

 その難渋した大洲海岸道路が新生の表情を見せた、もじどおりの「松川浦大橋」開通は、ことし18年春。

◆松川浦の名産「青のり」

 期待に胸はずませ、ぼくはまず、内海の松川浦漁港を訪ねた。

 松川浦の名産に「青のり」がある。
 浦の水景に情緒をあたえている竹杭の林立、これに海苔網を張り渡すと「のり棚」になる。

 内海の穏やかな潮は海苔養殖によく、ここの「青のり」は震災前、生海苔・加工海苔あわせて200トン以上を出荷する東日本有数の産地だった。

 原発事故があって、「常磐もの」といえば「上もの」とされた地域の漁は壊滅。
 風評被害にも悩まされつづけるなか、「青のり」漁はジッと我慢をつづけて、17年11月セシウム濃度が検出限界値を超えることがなくなってから、7年ぶりの漁の再開にふみきった。
 
 現在、海苔生産者は相馬双葉漁協の約70軒。
 最盛期の10分の1の「のり棚」での再スタートだった。
 漁期は2月上旬から4月末。したがって漁閑期の、漁師たちの姿は寄合所に数名が見られたのみだったけれども、「まぁまぁ、よかったんでねぇか」の笑顔がなにより。

 地元の観光旅館では、きっと、天婦羅や味噌汁の具にして訪客をもてなしたにちがいない。
 無言の握手で漁師さんたちと別れて、ぼくは近くの鮮魚店で「佃煮」と「干し海苔」をみやげに買いこんだ。
 (地元漁協では沖漁の復活もつづいて、この6月にはスズキ漁も再開。これで出荷制限されていた〝主要〟魚種すべてが揃ったことになり、あとのこるは7魚種のみ)

◆原釜尾浜海水浴場

 ことし、福島県を取材してまわったのは、7月の中頃。
 松川浦から近い原釜尾浜海水浴場は、21日の「海開き」を前にほぼ準備も了え、6軒の海の家が閑かに燃える夏本番を待っていた。

 あれほどの被害に遭って荒れ放題だった浜が、なんとか復旧、かつては毎年3~5万人が訪れていた海水浴場の、じつに8年ぶりに迎える海開きだった。
 (同じ日に、宮城県では石巻市渡波〔わたのは〕海水浴場がやはり海開きの日を迎えた)

 砂浜の中央辺りには、遊泳監視塔。
 これはアノとき、攫われ尽した浜に、やや傾きながらもただひとつのこされた建物。
 あれから毎年、ずっと訪れつづけてきたボクたちにとっては、ぶじ快復退院した旧知の笑顔を見るように思える。
 震災遺構もいいけれど、こうした「どっこい生きてる」存在にも、もっとスポット・ライトがあたっていい。

 浜のはずれには『相馬市伝承鎮魂祈念館』ができ、背後の園地に建つ「相馬市東日本大震災慰霊碑」にはこの地区の犠牲者207人の名が刻まれ、6月には天皇・皇后両陛下が訪れ献花されている。

 ……………

 なお、ちなみに、相馬市全体の東日本大震災津波被害をまとめておくと。
  〇直接死 439人
  〇関連死  28人
  〇  計 486人(死亡届の19人を含む)

  〇全壊家屋 1,004棟(1,104世帯)
  〇半壊家屋   833棟(  968世帯)

ちょっとヒトコト…フタコト…ミコト         ~No.5~ 平成〝最後〟の〝最暑〟の夏

-No.1872-
★2018年11月06日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2798日
★ オリンピックTOKYOまで →  626日






★〝平均〟なら〝平年〟を1.8℃上まわっただけ…じゃねぇど★
 
 もうすっかり錦秋の秋に、(いまさら)の感はあるとはいえ。
 忘れたくないのは、この夏の完璧に常軌を逸した炎暑のこと。

 これからも、この<劇症>気候がつづくというのなら、あらためて緊〔ひき〕しまった覚悟が要るじゃぁないか!

 気象庁がまとめたところによれば。
 この夏(6~8月)、関東・甲信地方の平均気温は平年を1.8℃も上まわり、1946年に統計をはじめて以降もっとも暑かったそうな(…やっぱり!…)。

 関東・甲信に東海・北陸をくわえた東日本で見ても戦後最高(平年の+1.7℃)、さらには、西日本のほうがそれでもなんぼかマシ…ではあっても平年の+1.1℃。

 ちなみに地点別では、計48地点で観測史上1位(タイを含む)を記録。
 猛暑日(最高気温35℃以上)の記録は、おなじみの熊谷市で計37日と平年の3倍近く。東京都心でも計12日は平年の5倍とのこと。

 猛暑日の最多は日田市(大分県)で計43日。
 連続猛暑日の記録になると、前橋市群馬県)と秩父市(埼玉県)とが共に7月に12日で、これも過去最長…だって。

 ぼくらガキんちょの頃には、真夏の猛暑になると「ノーテン・パー!(になりそう)」と悲鳴をあげたもんだけれど、ザバーッと頭から水をかぶればパーにはならずにすんだ。

 それだけ、ボクら戦後すぐ世代にかぎらず、いまは人みな気候変動に弱くなってしまったのか。
 それとも、この地球そのもののフィルター機能がイカレてしまったのか……

 なにしろ脳天からジリジリ焦がされるようだった、この夏の気狂いじみた暑気を思いおこすと、最高気温の41.1℃(国内歴代最高、熊谷市)が「ウソだろ」って気がするほどだ。

 よくぞノリきったものですなぁ、おたがいさまに!

 この気候現象を分析すると、太平洋高気圧の上にチベット高気圧まで張り出し、二重になった高気圧の影響…ということになるらしい。
 つまり、毎年じゃないにしても、これからも有りうるってこと。

 ぼくは、頭のなかが茹だるほど暑いのも苦手なら、暑苦しい…のも苦手。
 生前退位を来春にひかえて、これが「平成最後の夏」とのこと…なら。
 せめて「戦後最高に暑苦しい夏」だった記憶を、記念にはしたくなかった。
 
 10月20日に84歳の誕生日を迎えられた皇后美智子さまの、
「皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした」
 これまでを振り返られた言葉が、シンと身に沁みたばかり。

 天皇・皇后両陛下が祈りつづけた国の平和、国民の平安を願って寄り添いつづけた、そのすべてが爽やかに「幸あれと篤い」ものだったことを想うと、なごりを惜しむには派手にすぎる暑くるしさが、ちと余計なことだった気がしてならない……

《11.3.11》被災地東北2018福島・巡礼/<報告記17>-相馬市①-さすが<馬>づくし

-No.1871-
★2018年11月05日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2797日
★ オリンピックTOKYOまで →  627日









◆相馬中村神社

 このたび福島県巡訪は、「野馬追」祭りの近づく頃の取材だったことは、すでに南相馬小高神社のところで述べた(11月2日記事)、わけだけれども。

 相馬市に入ると、もうひとつ、祭りのときを待つ相馬中村神社(相馬三妙見のひとつ)を再訪しておきたくなった。
 前に訪れたとき、境内の厩に、神事に奉ずるのであろうミゴトな白馬と出逢い、目をうばわれた記憶が鮮明にのこっていた。

 朝早い神社の参道を、隣りあう相馬高校の生徒が、「おはようごいざいます」気もちよい挨拶の声をなげて走って行った。
 参道脇のグラウンドは、野馬追祭り出陣式にそなえるらしい準備がととのっている……

 それにしても、さすがは「相馬」。
 古来の馬産地らしく、神社境内は馬だらけ、といっていい。
 中村神社入口、神馬の石像には祭り祝いの幟が揺れ、上る急な石段の手摺柱にもマスコットよろしく馬の胸像が並ぶ。
 
 あいにく白馬は留守だったけれど、緑濃い境内の朝の空気は潔かった……
 



◆相馬市役所

 相馬中村神社からすぐのところにある、相馬市役所へ。
 訪れた目的は、いうまでもない、「2020東京オリンピックの聖火をバイオメタンで燃やそう!」プロジェクトへの協力を、お願いするため。

 16年に復興事業のひとつとして完成したばかり、地上4階建ての建物は、白壁に玄関は切り妻瓦葺の屋根…のデザイン。
 これは、市の中心部を和風建築で統一した景観にしようという方針に沿ったもの、とのこと。

 ここでも、前庭には、相馬野馬追祭りの騎馬像が勇ましい。

 お逢いした学校教育課指導主事の方は、防災教育専門員(防災士)。思いなしか…騎馬姿にしたらバッチリ似合いそうな方だった。




田んぼアート

 ぼくが「田んぼアート」なるもの、そのイベント・プロジェクトを知ったのも、《11.3.11》が縁だった。

 被災地東北の情報をネットであれこれ調べ、集めているときに、「がんばろう!東北」活動のひとつとして検索にヒットした、青森県(南津軽)田舎館村のイベントがそれ。
 
 皆さん、もう、すでにご存知…とは思うけれども。
 「田んぼアート」は、田んぼをキャンバスに、描きたい絵(文字なども含む)のデザインにそって稲の品種(稲穂の色)を絵具がわりに駆使、田植えをしたら、あとは稔りの秋の完成を待つばかり、という、(古代米が活躍するという意味でも)息のながい、大がかりなアート。

 ほかに鑑賞用の品種などもつかって、その葉色も駆使して表現できる色は、緑・黄緑・濃紫・黄・白・橙・赤と、おどろくほど多彩でもある。

 ほかに、先駆的な先例はあったと思われるけれども、「田んぼアート」として世に出し有名にしたのが、ほかならない田舎館村。始まりは1993年のこと、という。

 そんなイベント・プロイジェクトが、全国に広まったのは2010年以降のことというから、ぼくが気づかされた時期とも一致する。
 いまでは「全国田んぼアートサミット」も開催されるほどになり、参加市町村は10を超えている(田んぼアートの試みそのものの数はおそらくもっと、かなり増えているにちがいない…)。
 〝アート〟の完成度(精度と規模)は もちろん サマザマだけれども。

 ……………

 このたび訪れた、相馬市岩子〔いわのこ〕は、松川浦に近い田園地帯。
 近所まで行って野良仕事の老婆に尋ねたら、「そこ、そこ」と笑って指を指す、すぐその先に小さな案内看板があり、「見るんならそっちへ上がった方がいい」大きな声に背中を押されて背後の土手へ。

 「田んぼアート」の題材も、ずばり「馬」。
 規模は小さいが、<努力賞>ものといっていい。
 
 ことしで5回目になるというイベントは、被災地支援のボランティアに来た人たちと地元民との、その後もつづいた交流の成果というところが、ほっこり、清々しい。

 ここ相馬市沿岸部の場合、福島第一原発からの距離は約40km。 
 したがって「避難指示区域」にはならなかったけれども、放射能で汚染された松川浦での漁はできなくなった。津波被害も甚大で、約450人が波にのまれて亡くなっている。

 それから3年が経った14年になって土壌整備が終わり、稲の作付けができるようになったとき、「なにか勢いをつけたい」想いが向かわせたのが、田舎館村の「田んぼアート」イベントの光景だっという。

 <土手>といってもささやかな高みからは、平らかな低地つづきの田園に、松川浦の水を望むことはできなかった。

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 ご参考までに、これまでの「田んぼアート」記事は
①-No.0391-2014年10月17日(金)
『《3.11》2014晩夏の巡礼-4日目-①田舎舘村/ぼくらの「田んぼアート」見物も3年目になった』
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②-No.0753-2015年10月14日(水)
『《11.3.11》2015夏の巡礼㉗田舎舘村に憩う/連続4年目、最高傑作の「田んぼアート」に喝采!』
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