どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地東北巡礼2018/      第1次<福島>遍歴…1日目

-No.1760-
★2018年07月17日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2686日
★ オリンピックTOKYOまで →  738日

《11.3.11》被災地東北巡礼2018/      第1次<福島>遍歴に出発

-No.1759-
★2018年07月16日(月曜日、海の日
★11.3.11フクシマから → 2685日
★ オリンピックTOKYOまで →  739日



*「中食〔なかしょく〕というのがある。コンビニなどで買った弁当そのほか「持ち帰ってすぐに食べる食品」のこと。なかには、買ったその同じ店内に「中食コーナー」が用意されているケースも少なくない。この感覚が、ふだん「家庭食(内食)」のボクなんかにはなかなかシックリと腑に落ちなかったのだが、《11.3.11》の巡礼遍歴行脚をつづけるうちに、やっとナットクがいくようになってきた。食事処のテーブルにつく「外食」が(いまのご時勢で)ヨイとはかぎらないし、「中食」の質も以前とはくらべものにならないほど向上したからだ。「外食」と「内食」の中間だから「中食」……。ところで、「中食」には「ちゅうしょく」なる読み方もあって、するとこれはつまり「昼食」と同じことになって紛らわしい。ボクは言葉の由来をだいじにしたい派なので、提案したい。「昼食」を「ちゅうじき」と称することにして、「朝・昼・夕」食のうち家内では手をかけない、ファストフード形態の食事を「なかしょく」と呼んではどうか。「どっちでもいいじゃん」てんじゃ、文化ってもんが、根なし草にはぐれちまうじゃないですか。*


◆明日から2回にわけて、《11.3.11》2018福島巡礼に行ってきます。このたびの「西日本豪雨」災害にも心配は尽きないのですが、ぼくにとって一生の大事、「東日本大震災」東北のこともまだ終わってはおりません。
  ……………
◆このたび遍歴のテーマは、「復興の手掛かり足掛かり」。
◆帰宅後の休養と資料整理をすませて、「報告記」が始まるのは8月1日(日)以降からになります。

「人口問題」……日本の総人口1億人割れ、いいんじゃないですかねぇ!

-No.1757-
★2018年07月14日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 2683日
★ オリンピックTOKYOまで →  741日



*「カウンタ―・デモクラシー」という概念(本質的な深い考え方)があります。それは<選挙>以外の方法、たとえば<デモ>とか<国民投票>とかによって政府を監視・牽制、民意を反映させようとすること。つまり代表民主制に不備なところを補う行為。ニュース映像などで見るところ、<デモ>は欧米のアメリカ・フランス・ドイツとか、お隣の韓国などで盛んだし、<国民投票>ではスイスが知られています。日本にもかつて<デモ>が盛んな時代がありました。が、いまは……。安倍政権の無理無理ゴリ押しはヒドすぎるのに、支持率が低迷しても倒閣もできない。そんななかで、一般的にはあまり流行らない<デモ>。他人ごとではなく、ぼくにもいまは正直(めんどうな…)気分があるのを認めざるをえない。でも、そんな気分だったら、どこの国でも同じじゃないだろか。さらに考察すると…要するに<デモに魅力がない>んだよな…に行き着きます。呼びかけがあれば応じたくなるようなナニか…行動のカタチとか…仕掛けとか…。近いところでは、シールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動)による新たな集会スタイルがあって、あれはヨカッタ。あんなくふうがもっと、もっと欲しいですね。コレ、かつて全共闘(デモ行進)世代からのお願いデス!*




◆2053年に人口1億人割れ

 地球上の<人口>、この国ニッポンの<人口減少>のことを、ずっと考えている。
 まだ、将来を確信できるまでにはいたっていないのだ、けれども、大枠まちがってはいないだろうコトには、辿りつけた気がするので、いちど整理がてらお話しておきたい。

 はじめに、統計と予測の数値から。 
 
〇2016年7月。
 総務省発表、年始時点での住民基本台帳に基づく人口動態調査の結果。
 ①国内の日本人の人口は1億2589万人余(7年連続の減少、しかも減少幅は去年の記録を更新して調査開始以後最大)。
 *日本人の国内人口は、09年の1億2707万人余をピークに減少がつづいている。
 ②<東京・名古屋・関西>3大都市圏の合計は6449万5000人で、全国に占める割合51.23%(10年連続で50%超えだが、増えた内実は東京圏だけ)。
 ③<死亡数>から<出生数>を引いた<自然減>の、減少幅は9年連続で拡大、調査開始以後最大。
 
〇2017年4月。
 国立社会保障・人口問題研究所が予測した「日本の将来推計人口」。
 ①2065年には8808万人(15年からの50年で3割減)。
 ②合計特殊出生率(女性1人が生涯に産む子どもの推定数)は、65年1.44(近年やや出生率の上昇傾向があって上方修正されたが…)。
 ③人口が1億人を割るのは53年の予測(前回推計の48年より5年遅くはなっているが…)。
 *ちなみに、日本の人口が1億を超えたのは50年前の1967(昭和42)年で、右肩上がりの<昭和>を象徴するできごと。昭和の時代に日本の人口は2倍に増えた。
 ④65年の高齢化率(65歳以上の割合)は38.4%(15年の26.6%より増)。
 *一人の高齢者を20~64歳の働き手1.2人で支える計算(「超高齢化」はもはや不可避)で、俗にいわれる「肩車型」、「人口オーナス(重荷)」の時代へ。

〇2017年6月
 厚労省の人口動態調査。
 ①16年に生まれた赤ちゃんの数(出生数)は97万6000人余(前年比2万8千000人余減)。
 *現在のかたちで統計をとりはじめた1899年以降、初めて100万人を割った。
 ②死亡数は130万7000人余(戦後最多)。
 ③死亡数から出生数を引いた人口の<自然減>は33万人余で、これも過去最多。

〇2018年3月
 国立社会保障・人口問題研究所、発表。2045年までの都道府県および市区町村別の将来推計人口(5年ごとの国勢調査や想定される出生率などをもとに推計)。
 ①すべての都道府県で人口減(20年以後も増加するのは東京都と沖縄県のみだが、この二つも30年以後は減少に転ずる)。
 ②市区町村でも94.4%で人口減(うち4割以上も激減するところが40.9%にものぼる)。
 ③45年の推計総人口は1億642万1000人(約2000万人減)。
 *近年は出生率にやや上昇が見られるものの、少子高齢化の傾向はかわらない。
 *全都道府県で減少に転ずる時期については、昨年の推計より10年ほどは延びたが…。

〇2018年4月
 総務省公表、17年秋の推計人口。
 ①総人口は1億2670万6000人(前年比22万7000人、0.18%減)
 *外国人を含む。
 *マイナスは6年連続。
 ②高齢者(65歳以上)は3515万2000人(総人口の27.7%で過去最高を更新、75歳以上の割合は13.8%でこれも過去最高)。
 ③都道府県別では、減少が40、増加は7(一極集中の東京をトップに埼玉・千葉・神奈川・愛知・福岡・沖縄で前年と同じ、ただし〝自然増〟は沖縄のみで他は人口流入による〝社会増〟による)。
 *東京と愛知は前年の〝自然増〟から〝自然減〟に転じた。
 ③生産年齢人口(15~64歳)は7590万2000人(総人口の60.0%で1950年に次ぐ低さ)、14歳以下は12.3%で過去最低。

◆「人口減社会」を逆手にとってダイエット

 以上の数値を見れば、<人口の右肩下がり>は必然。
 「今後100年間で100年前の水準まで減少する」と予測されている。これは、この1000年間を通観しても「過去に例を見ない極めて急激な減少」にちがいない。

 内閣府がおこなった「人口減」に対する世論調査では、9割以上の人が「望ましくない」と答えたそうだ。これから〝超〟のつく高齢化(少子化)社会では、<年金><医療>など<社会保障>への悪影響が心配になるのはあたりまえだ。

 この深刻な世情をうけて、政府には、思いきった発想の転換が必要不可欠である。

 政府は少子化対策出生率アップ)によって、なんとか「50年後に1億人程度の安定した人口」達成を目指すというが、ハッキリいって困難だろう。

 その少子化対策にしても、本格的にしっかり腰を据えて取り組んできた北欧の例を見ると、女性の就職率が上がってから15~20年くらいは出生率が低下、しかし、それをすぎてようやく出生率が高くなってきた、という。しかもそれには、ジェンダー(男女の社会的性差)を平等にすること、つまり<男性の育児休業取得>を促す「パパ・クオータ制度」とセットにすることが不可欠であった、というではないか。

 〝ドロ縄〟でどうなるものではないのである。

 政府の建前は、いまの<資本主義社会の成長がそのまま持続すること>を前提にしているが、そんなことはアリエナイ。〝現実〟を放棄して〝奇跡〟にすがるようなものだ。

 これからは、人口が減りつづけることを前提に、社会の将来像を考えていかなければならない。
 人口が減った後にどんな社会を目指すのか。

 ……………

 「人口と経済成長とは必ずしも一致するものではない」こともあるだろう。「生産性はイノベーションで切り抜けろ」というわけだが、そんなにアマイものかどうか。
 「先進国におけるGDPは勤勉さや技術力で達成されたものではなく、ほぼ人口に比例しているにすぎない」とする説もあるくらいなのだ。

 ……………

 社会学者の上野千鶴子さんは、「平等に貧しくなろう」と呼びかける。
 その論拠は…

 <自然増>はもう見込めないから、じゃ<社会増>で行くのか。
 移民を迎え入れ活力をもらって、かわりに社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか。
 それとも、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。
 どっちかだ、と。

 そのうえで、上野さんは
 移民政策については「私は客観的に無理、主観的にはやめた方いいと思っている」と。
 「移民は日本にとってツケが大き過ぎる」、日本は(アメリカ・ファーストに対して)「ニッポン・オンリー」の国、だから「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」と。
 (じつはボクも同じ意見です、難民受け入れは<理想の博愛>だけれど、いま現実に欧州諸国で苦しんでいるように、ニッポンではさらに輪をかけて苦しむことになるだろう…と思います、<民族性には超えることのできない困難がつきまとう>からです、ザンネンながら)

 融和・共生の努力は必要です、もちろん。
 でも、それには長い時間が必要でしょう。
 これから何年もかけて、何十年か先に可能な話しデス。
 
 ならば…と、上野さんは言います。
「日本は人口減少と衰退を引き受けるべき」
「平和に衰退していく社会のモデルになればいい」
「緩やかに貧しくなっていけばいい」
「国民負担を増やし、再配分機能を強化する」
「つまり社会民主主義的な方向です」
 として
「ところが、日本には本当の社会民主政党がない」と。

 ……………

 ぼくは、どうか。
 「1億人割れ」くらいで丁度いいんじゃないか…と思ってます。
 地球規模で考えても、現在の人口はすでにキャパシティーを3倍も超えている、というんですから。

 ニッポンは根本的に、それこそ〝逆立ち〟思考すればいい。
 そうして、無理な<拡張主義>は即<縮小主義>に転換したうえで、すっきりスリムに成熟したカタチでの新社会への軟着陸を目指せばいい。世界のモデルになればいい。

 生活・生産に必要な国土は、現在の半分はムリとしても、3分の2くらいでいいのではないか。
 拡張には膨大なカネ(資金)がかかる、拡張の維持にも膨大なカネ(資金)がかかる。
 贅肉をこそげ落とせば、コンパクトで充実した国土になる。
 コンパクトな生活・生産国土は、見ちがえるほど充実したインフラに恵まれるだろう。
 
 縮小したテリトリー(生活・生産の範囲)から食み出した国土は、基本的に緑化する。
 その管理は、いつの時代にもいる「町には住めない」タイプの人たちに働いてもらう。
 休養・保養地や公園には、その入り口付近に学校ほかの健康施設を集め、青少年主体の組織に運営をゆだねる。
 
 「高齢者の見かたを変えよう」とか「過剰なサービスを見直そう」とか、こまかいアレコレも、このコンパクトな国土ではいくらでもくふうの余地がある。

 惜しむらくはボクに、その計算の根拠となるデータがない、計算法も知らない。
 どなたか教えてくださるか、替わりにやってみてくださいませんか。
 むずかしい局面に遭っても、突破口はかならずあるはずデス。

<西日本豪雨>禍 災害列島ニッポンの<無策>を/…もうとても黙って看過できない

-No.1755-
★2018年07月12日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2681日
★ オリンピックTOKYOまで →  743日





◆緊急「居住地スリム化法」制定が責務だ

 簡潔にいきたい。

 こんどは西日本で また 死者150安否不明者50を超える集中豪雨禍があった。
 地震と集中豪雨の災害は毎年のこと、それに噴火災害・大風災害も加わる。
 「何十年に一度という大規模な災害」が、毎年のように、季節ごとに起こる。

 日本という国は、誰がなんと言おうと「災害列島」にある。
 誰もが、吾が身と家族の現実にならないと「信じがたい」のだ、が。
 誰にも 今日 明日にも迫りうる。

 これまでは、まず個々人の意識改革を目指して、「油断ないように」訴えてきた。
 社会に対しては「徹底して、想定なし」の準備を、うながしてきた。
 周知広報に主眼をおいてきた。

 しかし
 それだけでは、どうにもならない。
 個々人の判断には任せきれない、個々人の判断を超えるケースも多いことに、思い至った。
 避難指示・勧告や、避難所の開設、緊急装備品・飲料水・食品の備蓄だけではなく。
 もっと抜本的な対策・施策が緊要であった。

 「居住地スリム化法」の制定だ。
 いま現在のありようは、かぎりない膨張・伸展の果て、である。
 高度経済成長時代の勢いそのままに居住地を拡大、インフラの整備サービスにつとめてきた。

 要請もあったが、ずいぶん無理もあった。
 <拡大>に<拡充>が追いつかなかった。
 <かたち>ばかりで<内実>が疎かであった。
 それらが崩れ、壊れて、人命を失っている。

 <大きくする>のはやさしい、<小さくする>のはむずかしい。
 <いちど大きくしたものを小さくする>のは、もっとむずかしい。
 でも、やっぱり<無理は無理>。

 <無理>をガマンして<悲鳴>をあげている自治体が、いかに多いことか。
 なに<国>にしたって同じことだ。

 たとえば、崩れやすく土石流の流れも急速になりやすい真砂土の土壌の、急傾斜地は「居住地と認めない」などの、思いきったスリム化だ。
 それら「居住地に危険」な土地は、日本国中いたるところに、いくらでもある。
 それらを廃してスリム化する。
 居住地域がスリムになれば、インフラにも防災にも施策を<拡充>できる。
 
 これは、その実情を熟知・把握しているはずの地方自治体が主体になって行う、が。
 もちろん、国が財政面などで、その背中をつよく押さなければ実現できない。

 ……………

 ぼくは、旅人。
 旅人ゆえに、岡目八目、訪れた地の真実を知ることも、少なくない。
 「危ないところ」も、そのひとつ。
 <人の命>がいちばんだ。

 ぼくと同じ旅人、観光地を巡るだけではあきたらない旅人も、少なくない。
 だから気づいてはいるが、旅人の多くは<ぶん>をこころえ(?)て多くを語らない。

 しかし
 やっぱり「それはない」のではないか。

 ぼくは いま はじめて<拡散>をお願いする。
 ニッポンの旅人たちよ、旅さきの地の人々の安寧ために、〝命の声〟をあげてほしい。

ホンソメワケベラは「海の掃除屋さん」だけではなかった!…/魚世界の生存戦略、新発見

-No.1753-
★2018年07月10日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2679日
★ オリンピックTOKYOまで →  745日



*いよいよ夏。ぼくの好物に、井村屋の「あずきバー」という、固くしまった氷菓子(キャンデー)がある。頭のなかの脳の奥まで暑さに茹だるような気になったとき、冷凍庫からひっぱり出してきて、かぶりつく。アイスモナカなんかもわるくはない が こっちは暑気がまだ軽い頃のもの。猛暑の脳髄には「あずきバー」の固い歯ごたえと共に、ほどよい甘さの小豆味が効く。家では箱入りをひと夏にどれくらい買うだろう!…と追憶にふけっていたら、「ゴ-ルドあずきバー」ってのがあるの知ってる?…と友人から訊ねられた。高級な「あずきバー」らしいが、知らなかった。近所の店を探してみたが、見つからなかった。ついで付け加えておくと、固いので有名な「あずきバー」を削って「おかしなかき氷」にしたり、キャンデーを使ったレシピなんてのもいろいろあるらしいのダ…けれども、孫のないわが家では爺っちゃ婆っちゃでかぶりつくしか能がない。だから、まだ「ゴールド」味は経験できていない。webで注文するしかないのだろうか……*





◆「海の掃除屋さん」兼「皮膚科クリニック&セラピー」

 ぼくは「片づけ屋」。
 片づいて しかも 片づきすぎない…のが理想です。

 ですから、海の「片づけ屋」にも興味津々。
 ただ、「片づけ屋」にも<最終処理班>と<修正・再生班>があって。

 死んだ遺骸を葬る<最終処理班>には、さまざまなバクテリアのほか、たとえば深海に沈んだクジラの遺骸なんか、すっかりキレイに食べ尽くし処理してくれるヌタウナギなんて掃除屋さんもいる……が。
 こういうのは どうも 生唾ゴックン、気色はよくない。

 ぼくが好きなのは、摂餌(食餌)というきわめて功利的な行為で、その対象になる相手にもヨロコばれる<修整・再生班>の方だ。

 <修整・再生班>はもっぱら生体、つまり生存中の魚を相手に、体表や粘膜などの清掃にあたる。
 だから「掃除屋」と呼ばれるわけだが、その不要物(ごみ)処理はすべて吾が腹中におさめるクリーン作戦、そこがいい。

◆「掃除魚」界のスター、ホンソメワケベラ

 こちらのタイプにも、小型のエビ類などをふくむ生態的一グループが存在する。
 なかでも、綺羅星スターはホンソメワケベラ(ベラ科)。

 暖海の珊瑚礁や岩磯に棲み、体長12cmほどの小型魚で、頭を前に下げ気味に〝いそぎ脚〟ふうの泳ぎ方に特徴があり。
 白地に黒帯ひとすじ(きわだった染め分け)の魚体は、純白一辺倒からデザイン的になって、クッキリ・ライン採用も珍しくなくなってきた医療スタッフ風…と言えなくもないし。
 「便利屋・営業中」の看板を掲げて泳いでいる…とも見える。

 この魚のユニーク行動は、かなり以前から研究者の注目のマトらしく、ダイバーではないボクは水族館でしかお目にかかったことはない…けれども知友になってすでに古い。

 ホンソメワケベラの棲むところには、主に中型から大型の魚(したがって捕食魚も多い)が寄ってきて、魚体のメンテナンスをしてもらう。人気のあるところには、ときに順番待ちもある。
 患者というより客…の珊瑚礁の魚たちは、その場にとどまってホンソメワケベラのなすがまま、身体に寄生した虫をとってもらい、鰓や口の中(口腔ケア)の歯間から粘膜まで診て(食べカスなどとって)もらって、いい気もちそうにウットリしている。

◆「マッサージ屋」も兼業

 ただ、これまではただの「掃除屋(スキンクリニック)」と思われてきたのが、最近の調査・研究成果から「マッサージ・ケア」もするセラピストでもあることが知れた、という。
 『ダーウィンが来た!』!(NHK,日曜夜7時半~)の映像を観ると、ナルホド…腹鰭で〝もみほぐす〟がごとき…これはアソビどころじゃない、あきらかな治療行為と目に映る。

 本業(?)の「肌のお手入れ兼食餌」行為にしても、そこはホンソメワケベラなりに営業利益を考えていて。
 どういうことかというと…寄生虫除去も仕事だからするが、食事としてホントにありがたいのは栄養豊富な皮膚や粒状の〝できもの〟とか鱗、あるいは分泌物類。だから、サルのノミとりみたいに、口先でチョイチョイ寄生虫をとってやりながら、美味しそうなところをスキをみてサッと盗み喰う。
 客に気づかれなければいい……

 しかし、オイシイところばっかり狙ったり、ヌキウチの技をしくじれば騒がれる。
 「ナニすんじゃ、てめぇ」
 「ごめんなさい」
 大きな魚に追いかけられて必死に逃げ惑っている…のがオカシイ。

◆偽物にもクロウがあるのダ

 医療行為で重宝がられる「掃除魚」、ホンソメワケベラ。
 これだけの特異な特長で生存競争を生き抜いて来れば とうぜん ライバルというか…そのオコボレにあずかろうとするモノがでてくる。

 ニセクロスギンポ(イソギンポ科、*上の写真右)。 
 魚体の大きさいうまでもなく、体色も黒条〔すじ〕も同じなら、泳ぎ方まで似て生息域も同じ、巧妙な、これも一種の〝擬態〟。

 ただ、自然の神意は皆までは許さず。
 よく見ると、ホンソメワケベラの口は黒条のど真ん中にあるのに対して、ニセクロスギンポのそれはやや下付き……

 いや、それよりなにより、映像をよく見ていると、どうにも偽物らしい<挙動の不審>隠しようもなく。
 ソッと近寄ったつもりでも、客の魚に逃げられたり、追っ払われたりしている。
 それでも、大型魚の捕食から逃れながら、めげず、懸命に、鋭い歯で食い逃げを計りつづける。

 戦略は姑息ながら生態系のなかで、これはこれで成功していることになるのだろう。
 ニセクロスギンポの英語名「False cleanerfish(ニセ掃除魚)」が立派なレゾンデートル(存在理由)になっている。(あなおかし…)

エリア・カザン監督の『アメリカ アメリカ』

-No.1751-
★2018年07月08日日曜日
★11.3.11フクシマから → 2677日
★ オリンピックTOKYOまで →  747日



*あえて「弱み」を見せるロボット…うまくゴミを拾えないゴミ箱型ロボットとか、ティッシュ配りにモジモジするばかりのロボットとか…。そんな頼りにならないアイディア・ロボットを、豊橋技術科学大(愛知県)が開発している、という。「弱さ」や「不完全さ」をのこすことで、人の「やさしさや手助けをひきだす」。人は便利に頼りがちな一方で、弱い存在に対してはいたわりの気もちが生まれるから、と。いいな この発想 とてもステキだ。学生たちとアイディアを出し合って、「つい人の方から手をさしのべたくなるロボット」ばかり、これまでに20種類以上が誕生しているそうな。実用化もおおいに期待できる……。おりしも、ニッポンの便利ロボットづくりをリードしてきたホンダが「アシモ」の開発をうちきったことが報じられた。ロボットの時代も転機を迎える……*






◆『アメリカ アメリカ』

 
 この映画ができたのは1963年、日本公開は翌64(昭和39)年秋。
 ボクは…といえば、志望校の現役合格に敗退、リベンジに向けて大学浪人中。
 映画なんかに現〔うつつ〕を抜かしてる場合じゃなかった…けれど、夢中だった。

 映画館は、忘れたが、たぶん横浜のどっか(予備校がそっちにあったから)。
 この映画は題名のとおり〝憧れ一直線〟、いまでいえばサッカー・ワールドカップの大騒ぎに似ている、が。
 もっと孤独で一途だった気がする(勝手な青春…そんなもん)。

 昼間の客席には多くの若者の体臭が充ち、場面場面で、ため息や嘆声、呻きも漏れる。
 そんな暗がりのなかで、中流家庭の青春は(すっげぇ…な!)息を呑んでいた。

 当時、ニッポンからもミュージシャンを中心に多くの渡米組があらわれたものだった、が。
 英語が苦手なボクは憮然と腕を組み、(アメリカだって…いろいろあるだろさ)、ゴスペル(福音音楽=黒人霊歌)のリズムに身をまかせていた。
 
 ……………

 監督は、ギリシャアメリカ人、エリア・カザン
 オスマン帝国(現在のトルコ)末期のイスタンブール生まれ。
 この映画は、カザンの<自伝>的というか、実体験と思念に溢れたロード・ムービ-。
 (実際に、カザンの両親は彼が4歳のときアメリカに移住している)
 徹底的にドキュメンタリー・タッチで描かれた。

 なにしろ、なにがなんでも「アメリカ アメリカ!」、ロード・ムービ-のストーリーは単純・簡潔。
 トルコの片田舎に生まれ育ち、オスマン帝国の圧政に苦しんでいた主人公の若者が、〝自由の国〟憧れのアメリカへの渡航を胸にイスタンブールを目指す。

 全編174分のほとんどが、「自由のアメリカ」目指して、辺境・固陋の風土に流離う…旅…また…旅…。
 (ようやく船に乗れてからアメリカまでは、本編の5分の1くらいだったろう)
 世故にたけてズル賢い奴らに騙されてもメゲずに「アメリカ アメリカ」、家族・親類縁者たちから借り集めたなけなしの旅費を奪われても「アメリカ アメリカ」、目的を達する手段に選んだ富豪の娘との縁談に心傷めながらも胸に叫びつづけた「アメリカ アメリカ」。

 この映画はトルコが舞台、だが、撮影はギリシャでおこなわれた。
 フィルムはモノクロ。
 ギリシャの風土は、不思議にモノクロが似合う……ニッポンとおなじく。
 (同じギリシャを背景にした映画は、『アメリカ アメリカ』の翌65年、マイケル・カコヤニス監督の『その男ゾルバ』がやはりモノクロ表現でみごとな成功をおさめている)

 とまれ、エリア・カザンの『アメリカ アメリカ』。
 しかしこの映画、監督エリア・カザンとしては晩年の作になる。

 カザン映画に出逢いを感じたボクは、彼の作品にずいぶん親しんできたが、その多くがじつはボクのまだ幼少年期の頃のもの、したがって、いずれも回顧上映で観てきていた。以下に列記してみる
 〇『欲望という名の電車』(1951年、マーロン・ブランド主演)
 〇『革命児サパタ』(1962年、マーロン・ブランド主演)
 〇『波止場』(1954年、マーロン・ブランド主演)でアカデミー監督賞。
 〇『エデンの東』(カザンが創設したアクターズ・スタジオ生まれのスター、ジェームス・ディーン主演)
 〇『草原の輝き』(1961年、ナタリ-・ウッド&ウォーレン・ベイテイ主演)
 *1998年には、長年の功績に対してアカデミー名誉賞。

 このように、ギリシャ青年の〝夢と希望と〟に応えてくれた〝自由の天地〟アメリカ。

◆<合衆国>の独立宣言は1776年のこと

 もうじき250年になる。その歴史をひもとけば…
 
 〝自由の国〟〝開拓の大地〟は 反面 <先住民族インディアンを圧迫>して奪い広げ<移民や黒人奴隷の労働力>によって拓かれ、命の糧をえていった大地…でもあった。

 〝世界の警察〟〝反共の砦〟は、ときに<傲慢なアメリカ>赤鬼の素顔を隠そうともしなかった。
 〝冷戦の時代〟の1950年代、非米活動委員会による赤狩りレッドパージ)では、元共産党員のエリア・カザンも糾弾の矢おもてに立たされ、(怖ろしかったのだろう)司法取引に応じた結果、彼の輝かしい経歴にひとつ<暗い影>を落とすことになった。

 〝人種差別〟の長い歴史と<気づき>を経、ようやく21世紀になって、アメリカは合衆国第44代大統領に史上初のアフリカ系(でかつ20世紀生まれ、ハワイ州出身)のバラク・オバマ(2009~2017)を選んだ。
 オバマ大統領は在任中の09年にノーベル平和賞を受賞している…けれども。
 オバマが充分にその力量を発揮できたとは言えないし、いまだに〝人種差別〟の根は(建国以来の銃社会問題とともに)深いものがある。

 冷戦時代の「キューバ危機」を凌いだ第35代大統領(1961~1963)、ジョン・F・ケネディーは任期途中の凶弾に倒れたし、想いおこせば「奴隷解放宣言」の第16代大統領エイブラハム・リンカーン(1861~1865)も銃の狙撃をうけ死亡しているのだ…。
 ぼくは、オバマがともあれ無事に大統領をつとめ終えたとき、彼が凶弾に倒れずにすんでヨカッタと安堵したものだった。
 アメリカは、そういう稀有な国でもあった。

 そうして、いま、現(第45代)大統領のドナルド・トランプは……
 カザンの時代から受け継がれてきた〝フロンティア・スピリット〟の国柄を否定、国際政治の世界を商取引でのりきる(?)新機軸に挑んでいる、かに見える。

 ついでに、史上初の米朝首脳会談を無理矢理に、なにはともあれ成し遂げてしまった彼は、(オバマの向こうを張って)ノーベル平和賞も〝とりひき(買う)〟する気らしい。

 …………

 ぼくは、つらつら、いま想う。
 たしかに『アメリカ アメリカ』の一時代は去った。

 ソ連社会主義も、20世紀末に一度、挫折の屈辱をあじわっている。
 「ベルリンの壁崩壊」という劇的なできごともあった。

 そうすると……
 対する西欧型資本主義(自由貿易体制)も、このまま無傷ですむとは思えない。
 〝転機〟は歴史の必然であろう。

 アメリカの、いまのトランプ流も、その流れだとすれば、これも必然。

 その解決に、これまでのような無益な<戦争>にたよることのない、〝成熟型ポスト資本主義〟社会への移行、その未来ある提言に期待したい。

 ……ぼくは痛切にそれを願うものだ…… 

「プラスチックごみ」による海洋環境汚染問題に…/反応の鈍さ見せつける海洋国〝島国〟日本

-No.1749-
★2018年07月06日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2675日
★ オリンピックTOKYOまで →  749日



アメリカのトランプ大統領が6月18日、「宇宙軍」の創設開始を指示したそうな。これは陸・海・空軍、海兵隊沿岸警備隊と同格の「第6の軍」という。いちどは「宇宙開発」をリードしながら、その後は中国やロシアなど、他国の発展に脅かされてきたアメリカの威信回復と防衛に、「宇宙の支配権」確率が不可欠というわけだ。日本でも27日、宇宙航行研究開発機構(JAXA)から、あの小惑星イトカワ」から奇跡の帰還をはたした「はやぶさ」の後継機「はやぶさ2」が、小惑星「りゅうぐう」上空へ無事、到達したとの発表があった。………。科学の発達はケッコウなことだ、が。われらが生命のふるさと、この奇跡の〝水の惑星〟を汚しっぱなしにしておいて、「宇宙にさすらう選択」がはたしてどんな行く末につながるのだろう……*





◆先進七カ国首脳会議の「海洋プラスチック憲章」

 〝米朝首脳会談〟騒ぎで、すっかり脇に押しやられた感のあった先進七カ国首脳会議(G7=6月8・9日)。
 このとき、深刻化する地球規模の問題、プラスチックごみの削減にむけた「海洋プラスチック憲章」の承認を見送った国があった。
 海洋国の島国ニッポンと、もう一か国は〝権利〟経済大国アメリカ。
 ニッポンの安倍首相はこの会議でも、口では世界協調を訴えかけながら、態度は協調に背を向けた。

 「海洋プラスチック憲章」の掲げる対策の眼目は、以下の2つ。
  〇2030年までにすべてのプラスチックを再利用あるいはリサイクル可能なものとし、代替品がない場合には回収可能なものとする。
  〇2030年までにリサイクル素材の使用率を少なくとも50%に増やす。

 アメリカ不承認の事情は知らないが、「アメリカ・ファースト」で押しまくるトランプ政権の思惑は知れている。
 しかしアメリカは「合衆国」、その各「独立国」といってもいい「州」それぞれによっては、すでに強い規制にのりだしているところ(カリフォルニア、ハワイ、ニューヨークなど)もあり。
 また、経済の現場に立つ企業は大衆の志向に敏感だから、たとえば世界最大のファストフードチェーン「マクドナルド」は、イギリスでプラスチック依存をあらため紙ストローの提供を始めている。

 非承認の理由、日本政府(中川環境相)の説明によれば「まだ市民生活や経済への影響など調査が済んでいない」とのこと、「期限つきの数値目標がネックになった」ということらしい。
 こういう国際間のとりきめごとの際は、事前に根まわしの通知があるはずだから…つまり これは…いいわけにすぎない。

 ま、なにしろオクレをとってしまったのだから、今後の挽回策と信頼回復に〝待つ〟しかない(政府はその後の閣議で、来年6月大阪で開かれるG20までに「プラスチック資源循環戦略」の策定を決めた)のだが。
 どうも安倍政権に根本的な、<おともだち可愛がり>と<票にならないことはやりたくない>体質からすると、あまり期待はできそうにない。

 でも、ことは、すでに容易ならない事態にまできてしまっている。

◆「プラスチックごみ」の環境汚染問題

 それはすでに、レイチェル・カーソン沈黙の春』の頃、1980年代から予測され、指摘され、確認され
、そうして深刻化してきた。

 プラスチックの生産と消費量は年々拡大して、14年には全世界の生産量3億トン以上。
 世界経済フォーラム(WEF)年次総会16年度の報告によれば、世界の海に流れ込むプラスチック微細ゴミ(マイクロプラスチック)の量は毎年800万トン以上。重量に換算すれば50年には<魚の量を上まわる>と予測されている。

 15年、国際環境計画(UNEP)のまとめよれば、世界のプラスチックごみの、ほぼ半分が包装容器などの使い捨て製品。
 総排出量では中国が最多だ、けれども、1人あたりの排出量ではアメリカが最多、日本が2番目に多い。

 マイクロプラスチックというのは、レジ袋など処理されずに投げ捨てられたプラスチックごみが、水波や紫外線などによって徐々に砕かれ、0.5mm以下の微細な粒あるいは繊維になったもの。
 これらは自然界では分解されず、つまり、拡散したものはとり除くことができない。

 これら、すでに知らされていたものに加えて、21世紀になると「マイクロビーズ」という新たな問題が提起されることになった(プラスチックごみ総量の約1割程度にあたるらしい)。

 マイクロビーズは洗顔料や歯みがき剤に洗浄効果(古い皮膚や汚れを擦り落とす)を高めるために使われるが、問題はそれが「下水に流すことを前提に生産されている」こと。したがって、それは即、川や湖沼に流入して環境を汚染することになり。
 さらには、その表面にポリ塩化ビフェニール(PCB)などの有害化学物質を吸着しやすいために、環境汚染はより深刻に……。

 これを受けて14年春、アメリカ、ニューヨーク州政府はマイクロビーズを使った製品の販売を禁止する法案を提出。この動きが他州にもおよんで、欧米の洗顔料 大手有名メーカーは素材を果物由来のものに転換するなどの対策にのりだした、という。

 翌くる15年、ドイツでの「G7」では、共同声明に「プラスチックごみ問題への対策強化」がもりこまれ、「地球規模の脅威」に対処するため「使い捨てプラスチックの利用削減」で合意した。
 太平洋や大西洋、インド洋には、海流の影響による巨大な「たまり場」があるとされるほか、汚染は北極海にもおよんでいる…ことが報告れている。
 (このときのG7では海洋酸性化問題への対応も話し合われた…〝汚れっちまった地球〟)

 そうして、いま、欧米先進諸国に上記のような企業をまきこんだ動きがあり、後進諸国でもプラスチックごみ削減の意識がたかまってきている。使い捨てプラスチック製品の生産を禁止したり、使用時に課金したりする規制を導入した国・地域が少なくとも67にのぼるという。
 そんななか、世界から注視されているニッポンの動きはにぶい。

◆そんな「国まかせじゃイケナイ」との声もある

 「まったく無くす」のは無理だから、「リサイクルされない製品は使わない」など、市民の側からのコンセンサスが必要だ、と。

 (ちなみに、消費者意識に敏感な企業サイドの反応では、やっとニッポンも遅ればせながら前向きに歩み始めた。まず日本プラスチック工業連盟が、「別な素材の開発などを通じてプラスチックごみを削減する」ことを呼びかけ、最大手3社がこれに応じて宣誓書を提出。また日本化粧品興行連合会でも、マイクロビーズを製品に使わないよう会員企業に求め、まず花王が16年中に全面的に使用をとりやめた。)
 
 ぼくも、上記の意見に賛成する。
 エコロジー生活をこころがける立場から、これまでに、ぼくはいろいろな場面での脱プラスチック、代替品さがしをしてきたわけだけれど、ざんねんながら「100%無し」は難しい…と言わざるをえない。
 つまり、プラスチックのもつ「可塑性」ほど、人の生活にありがたい特性はない。

 とくに、医療用機器・器具に利用されるプラスチックのおかげで、気づかないうちに、ぼくたちはずいぶん助けてもらっている。
 だから、せめて「100円ショップ」の雑多な品物など、他にいくらでも材料に選択の余地のあるものには、安易なプラスチック使用を避けるべきだ、とボクは思う。

 ……………

 この間にも、フィールドワークの調査研究は進んで。
 17年秋には、京大環境工学チームによるニッポンの「里海」ともいうべき東京湾や大阪湾、そのほかの汚染状況が報告された。
 (ちなみに〝里海〟というのは、〝里山〟の〝沿岸海域版〟といっていい)

 全国(湖水の琵琶湖をふくむ)7つの海域で計197匹の魚を採取し、その消化管を調べた報告によれば、そのうちの約4割にあたる74匹からマイクロプラスチック計140個が見つかった。
 そのうち、検出率がもっとも高かったのは東京湾のカタクチイワシで約8割に達し、次いで大阪湾、女川湾のイワシ類に多かったという。

 イワシ類は、いうまでもなく鰓でプランクトンを漉しとって食べている。
 ぼくは子どもの頃から、魚は内臓(できれば骨から丸ごと)まで味わうものと思って育った。とくにサンマの塩焼きは骨まできれいにしゃぶって喰ったものだ…が、成人する(環境問題がいわれはじめた)頃から内臓は避けるようになって、いまにいたっている。

 サンマは中位の捕食者だが、餌食になる小魚からマイクロプラスチックは採りこまれ蓄積する。
 しかもマイクロプラスチックは、サイズの小さいものほど化学物質の吸着率は高まることが知られている。
 
 このように、もちろん魚や海洋生物への影響大。
 だが…人の体内にとりこまれた場合はたいがい体外に排出されるものとみられる…というのが、ぼくにはどうも信用ならない。

◆汚染は底生の貝や、さらには深海にまで

 18年6月。
 東京農工大のグループが、東京湾と沖縄・座間味島で調査した結果、これまでは海外で検出例があるだけだった日本産の貝類、東京湾ムラサキイガイムール貝)とホンビノスガイ(オオアサリ)、座間味島のイソハマグリからマイクロプラスチックを検出。なかには欠片〔かけら〕とは別に繊維状の化学繊維屑も混じっていた、という。
 (ちなみに海外からは、ペットボトルや岩塩から検出の報告もあり、誤飲・誤食した鳥や魚への影響が懸念される)

 浅い海底に棲息するものだけではない。
 国連環境計画(UNEP)と海洋研究開発機構(日本)共同の、有人潜水調査船「しんかい6500」での調査(1982~2015)によれば、水深100mから1万mを超える深海にまでプラスチック<ごみ>の存在を確認、うち89%がペットボトルやレジ袋由来の使い捨て<ごみ>。
 深海になるほど使い捨て<ごみ>の比率が高かったそうだ。

 ぼくたちはこれまでに、漁網に絡まったり、投棄プラスチック被害に遭って死んだ鳥や魚を目にしてきたわけだが、それがいよいよ吾が身にも迫ってきたことをセツセツと実感する。

 ちなみに、ぼくは。
 魚ばかりではない、貝類の腸〔わた=内蔵〕も美味しく賞味する者だが…近ごろは、だんだんに気がすすまなくなってきている。

 気の毒な魚や貝に、詫びて、喰って、よろこんで死んでやろう 気には まだなれない…… 

 

『万引き家族』と『ワンダー 君は太陽』/    〝映画の街〟有楽町で、まとめて映画2本を観た1日

-No.1747-
★2018年07月04日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2673日
★ オリンピックTOKYOまで →  751日


*7月3日、落語の桂歌丸さんが亡くなりました(行年81)。テレビでは『笑点』でウケましたが、高座では大向こうを唸らせるのとはまた別の、<客席とともに笑う>寄り添いタイプの気さくな芸人、ぼくは真打ち昇進あたりからの、もっぱら寄席でのお付き合いでした。ご冥福を祈ります。 

*季節は「半夏生〔はんげしょう〕」 。ことしは7月2日でした。日本の季節感をあらわす<雑節>のなかでも、実感とびきりの「半夏生」です…けれども じつは ぼく。この名称が「ハンゲ」と呼ばれる草の「生える」頃…という謂れを知りませんでした。つまり「半分夏」だとばかり思ってました(思いこみってホントおそろしい)。じつは、かみさんのお友だちからいただいたご機嫌うかがいのメールに添付されていた写真から、はじめてそれが知れました。「ハンゲショウ(草の名もいまはコレ)」は、別名「カタシログサ」。名前どおり、緑の葉の半分が白く染め抜かれていて…ふむ…ふぅむ! 「半夏生」は農家にとって大事な節目で、この日までに「畑仕事をおえる」とか「田植えをする」とかの、目安になるのだと聞いたことがあります。1年の農作業の<折り返し>、7月7日の「七夕」には仕事を休む習慣がいまもあります。*





◆いっきに映画2本を観て愉しむ1日

 この春オープンしたばかりの、東京ミッドタウン日比谷
 いまも都心の〝映画の街〟でありつづける有楽町ですが、その一翼をになう「TOHOシネマズ日比谷」がここに<スクリーン広場>とも呼ぶべき空間を提供しています。

 みずから選ぶ<映画の日>には、できれば2本まとめて観るのがボクたち流で、以前は映画館の〝はしご〟も楽じゃなかったりしたのだ けれども いまは1ヶ所で10以上もあるスクリーンの中から、スケジュールを調整すればオーケーだったりする。

 この日、鑑賞したのは、次の2作品。

カンヌ国際映画祭最高のパルム・ドール授賞『万引き家族

 ぼくが、こういうピカピカの話題作をロードショーで観るのは珍しい。
 たいがいは少し間をおいたところで、しばらく様子見(そぅです…ちょと斜に構えてみるワケ)をしてから、出掛けて行く。
 このキョリ感がまた、なんとも言えない。

 『万引き家族』は、是枝裕和監督が構想10年近くをかけたという作品。
 親の死亡届を出さずに年金を不正受給する…おおきな社会話題になった世情に材をとり、現代人間模様のアヤを描いた といえば これ以上の説明は不要だろう。
 しかも映画界最高の栄誉を獲得してもいるのだから、これ以上の褒め言葉も不要かと思われる……

 そこで、もう少しばかり<斜に構えて>みる、と。

 まず、カメラワークには くふう が見られるものの、映像美ということではザンネンだった。
 これがアメリカのアカデミー賞だったら さて どうだったろう。

 フランスの映画祭は ぜんたいに 哲学的な思潮の作品をこのむ傾向が色濃い。
 日本映画に期待するところも、東洋的な精神性と神秘…に
 カンヌ映画祭で、これまでに日本がパルム・ドールを獲得した作品は、衣笠貞之助監督の『地獄門』(1954年)、黒澤明監督の『影武者』(1980年)、そして今村昌平監督の『楢山節考』(1983年)と『うなぎ』(1997年)。

 これらの作品すべてを<そのとき>に観てきたぼくには、言うことができる。
 その傾向にある…ことは確かだ、と。

 もうひとつ。
 これは、多くの鑑賞者が感じたことらしいのだけれど、「謎が多い」といわれる。
 それは、もちろん監督の意図したことであるだろうし、くわえて音響効果のこともある。
 つまり、台詞が聞きとりにくい。

 もともと映画というのが、その多くは、おおきなスクリーン映像に大音響をともなう非日常の迫力世界だから、まぁやむをえない面もあるし。
 そうして、外国映画の場合には字幕がたすけになるから気になることが少ないのだが、映画における台詞というやつ、テーマ曲(映画音楽)ほどにはだいじにされてこなかったフシがあるのだ。

 いいかげんに映画の観客たちは、その音声・録音の質の向上をもとめる声を上げるべきではないのだろうか。
 (耳のわるくないヒトにとっても、いまの音声・音響・録音が〝ここちよい〟とはいえないと思う)
 
 ……さて、それはさておき……

 『万引き家族』のパルム・ドール授賞に対する反応の鈍さが指摘された安倍政権は、あわてて林文科省の名で是枝監督に「祝意」を示したい意向を申し出たが、「公権力とは潔く距離をたもちたい」とやんわりオコトワリ…アッパレであった!

ジュリア・ロバーツがよかった『ワンダー 君は太陽

 もう1本は、アメリカ映画。
 全世界で800万部というベストセラー小説『ワンダー』をもとに描いた、いかにもアメリカらしいアメリカ映画……

 ぼくは前に、「アメリカという国には〝寛容〟と〝傲慢〟という、相反する二つの精神が同居する」と言ったことがある。
 それがアメリカの〝素晴らしい〟ところでも、同時に〝鼻もちならない〟ところでもある、と。

 この相反する二つの精神はまた、大衆娯楽<映画>の世界でも目立って遺憾なく発揮される。
 『ワンダー 君は太陽』は、〝寛容〟な面のアメリカを代表する、といっていい作品。
 なんしろ、泣かせて、笑わせて、ハッピーにさせる。

 公開されたばかりだし、予想どおりの<入り>でもあるから(劇場でご覧くださればワカリます)、STORYの紹介は公式サイトの冒頭にある「オギーは10歳、普通の子じゃない」…だけにとどめておく。

 よくできた作品で、ぼくも「ほろり」、まんまとその術中にはまった……

 じつを言うとボクは、主人公オギーの母親役を演じたジュリア・ロバーツを観たかったのだ。

 ぼくにとってのハリウッド女優は、いちばん新しくてオードリー・ヘプバーン(1929~1993)。
 古いといえば なるほど 古いが、(ボクにとっては)後続がなかったんだから、しようがない。

 それが、『プリティーウーマン』(1990年)でジュリアに出逢って、ハリウッド女優〝ニュー・スター〟誕生の予感があった。この大ヒット作品で彼女はゴールデングローブ主演女優賞。

 彼女の存在感の魅力は、ボーイッシュでいてコケティッシュ、これまでの女優像とはひと味ちがっていた。
 彼女の身体の動きからは、底の方から湧き上がってくるふうの(こどもっぽくて、いたずらな)躍動感が、みなぎっていた。
 なにか…やってくれそうな気がした。

 次に、ジュリアに出逢ったのは『ペリカン文書』(1993年)。
 この作品で、彼女にはじつは、コメディーよりもシリアスが似合うことを知らされた。
 人の「しなやかさを秘めたつよさ」を言いあらわすのに、よく「竹のような」と表現するけれど、彼女の場合はまさしく「篠(しの=竹、笹)」の根基であった。
 (彼女がヒンドゥー教徒とは、あとで知ったことだったが…ふ~ん、なるほどね…ナットクであった)
  
 したがってボクは
 甘い『ノッティングヒルの恋人』(1999年)なんかより、だんぜん
 芯の太い『エリン・ブロコビッチ』(2000年)のほうが、いい
 ジュリアらしさで遥かにまさっていたのだから(この作品でアカデミー主演女優賞)。


 それから、じつに久しぶりの再会が、こんどの『ワンダー 君は太陽』。
 ジュリアも、50。けれども
 オギーを〝太陽〟にめぐる〝惑星〟(家族・知己)のなかで、ひときわ輝きをはなつ〝明けの明星〟ジュリアがとても美しかった……