どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

わが家の庭さきが<にぎやか>になって…/これから初夏の実りが楽しみ

-No.1707-
★2018年05月25日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2633日
★ オリンピックTOKYOまで →  791日



*背丈4メートルもある人型ロボットが、見る間に自動車に変身する…と、また見る間に人型ロボットに伸び上がる…その間いずれも1分ほど。5月5日こどもの日に1日限りの一般公開があった、ぼくはそこに居合わせたわけではない、新聞報道で知っただけだけれども。(ついにその時が来た)感、パッと輝いた。ぼくは、そちらの方面に趣味があるわけでも、ましてやハマっているわけでもないのだが…ワクワク、ウレシイ! この「変身ロボ」には2人まで乗ることができ、運転も遠隔操作もでき、自動車モードのときは最高時速60km、人型モードでは1時間に100m歩ける(ここがヨワイなぁ)…という。まずは遊園地デビューからスタートするそうな。*












*写真(左)上から、徳谷トマト、二ホンアサガオ、ゴーヤのいずれも実生苗、(右)上はイチゴ、下はジューンベリー

◆天地爛漫

 いま、わが家に満ちる空気です。
 じつに、なんかもう、たまらなくいい気もち。
 ちょっと暑いくらい…ですけど。
 
 「爛漫」は春の季語にないでしょ、夏の季語でもない。
 初夏の<はしり>ですよね、言ってみれば。
 「春爛漫」といいますけど、ぼくの<季のめぐり>でいくと「初夏爛漫」。
 いや…やっぱり「天地爛漫」です。
 
 小動物が爪先から、植物ならば根っこから、モフッとうごきだす。
 そんな時季です、雨にも風にも緑の染みた……

 わが家の庭さきでは、プランターの苗床で、前にお話した、友がプレゼントしてくれた高知特産の「徳谷トマト」、採取しておいた種から実生の茎が伸び盛り。
 淡い青色の花が可憐な二ホンアサガオも、新種のゴーヤも、プランターに元気溌剌な顔をそろえました。いずれも、手ずから採取した種からの実生、これがウレシイ。
 もうじき、陽あたりのいい場所に定植です。

 去年の秋に苗を買ってプランター栽培を試みたイチゴは、この冬の寒さで、ビニール囲い程度ではいけなかったらしく伸び悩み、やっと春になって花がつきましたが。
 次には、受粉役を引き受けてくれるはずの蜂の姿が見あたらない(もうしばらく前からのことでしたが…)ので、やむをえず筆で自家受粉。これでいけなかったらアキラメようと思っていたら、ようやく実った初ものがこれです。よくガンバった、いいこだねぇ!

 いっぽう、これは春になってから苗を買ってきたキュウリは、支柱に思いっきり最初の蔓を巻きつけ、早くも黄色い花を咲かせるデキのよさ。今朝見たら、カヤネズミの赤ちゃんのおちんちんみたいに可愛い実をつけはじめてました。

 あっ。それからもうひとつ、去年小さな鉢植えを買ったホオズキ。根茎を伸ばして繁殖する植物なので、地には下ろさず少し大きめの鉢に植え替えておいたのですが。
 1~2日前までベージュ(黄緑白色)の地味な花を愛でていたところへ、今朝には「ねぇ見て見て」もう「実をつけたよ」。

 まだ早すぎる気もするアジサイの一株は、すでに蕾から花ほころばせはじめ、そのすぐ脇ではジャガイモの葉がスクスク、土の下のコロンとほっこりお芋を想像させて。

 柿も、姫リンゴも、実をつけました。
 シーズン最初の収穫は、ことしもジューンベリー。赤く熟した実がすでに黒ずんできました。
 ベリ-の実を漬けたリキュールは、やがてカクテル・ナイトを彩ります。

 ……………

 想えば、この冬から春さきにかけては、局地的に激しい雪や雨があったり、天候のめぐりも目まぐるしく振幅おおきくて、生きものみな振りまわされてきたわけです、が。
 それもこれも、すぎてみればなぜか…のこるのは、ただ溜息。

 季節のうつろいでいえば、いつものとおりだったんだよね。
 でもねぇ…途中経過が<激症>化するばかり、てことを忘れてはいけません。
 ことしの夏は猛暑が予想されているので、どうか渇水旱魃にだけはなりませんように、願うばかりです。











*写真(上)左から、ホオズキの花と実、ジャガイモとアジサイ。(下)左から、柿の実、姫リンゴの実、キュウリの花*

<テーブル醤油>デラミボトル容器と…刺身醤油は「むらさき」のはなし

-No.1705-
★2018年05月23日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2631日
★ オリンピックTOKYOまで →  793日

*00年度は8万トン弱だったのが、17年度には19万トンに達する勢い、というパックご飯の生産量。なんと2.4倍増。なにしろ忙しい以上に忙しがることに馴らされた現代人、単身者や高齢者の自然増が進めばとうぜんでしょう。けれども、しかし…とくに目立って伸びたのが11年、東日本大震災があってからだ…と業界関係者にいわれると、思わず首をかしげたくなってしまう。あの未曽有の天災騒ぎがあってから、パックご飯を食べるチャンスが増えて味わいのよさ認知され、<非常食>から<日常食>になった…のがホントなら、はたしてそれを、素直に喜んでいいのかどうか。だって、あれ以降、<最低3日分の非常食の用意>をした人(家庭)がどれくらい増えたものかは、正直ワカリマセンし、ね。製造法も進化して、たしかに美味しくはなりましたけど。でも、上手に釜で(電気釜でもいいじゃないですか)炊いたご飯とはチガイますもん。食文化ですからねぇ。なんか寂しいというか、どこか歪んでる気がしてなりません。*





◆悩ましき味わい…醤油

 小豆島の「ヤマロク醤油」から、再仕込み(原料2倍になる濃厚なコク味・香り)の「鶴醤〔つるひしお〕」4本と、正統派の濃口醤油「菊醤〔きくびしお〕」2本、いずれも145mlのテーブルボトル入り。
 これに、同サイズの瓶であれば詰め合わせは客の好みで自由(近ごろは杓子定規でない、こういう選択ができるのがウレシイ、いい時代になった)ということで、「ぽん酢」と出汁昆布の効いた「だし醤油」も1本ずつ入れてもらって、計8本を宅送してもらった。

 こんど、この蔵の醤油を味わってみようと思ったのは、「仕込桶」が決め手。
 現在は、日本酒にしても味噌・醤油にしても、仕込桶の近代化(?)が進んでおり、つまり、ホーローびきの桶が主流で、昔ながらの木桶は段々に姿を消しつつある。
 その趨勢のもとは、じつは桶作りにもあって、木桶職人の数が減り、桶屋も減っていた。

 ここで、先におことわりしておけば、ぼくは、なにがなんでも「木桶にかぎる」と頑固なだけの人間ではない。ホーローびきの桶(タンク)の清潔もまたよし、とする者だ。
 けれども(……)

 ぼくは、かなり腰の据わった「酒好み」を自負しており、かつては越後長岡の蔵におられた大杜氏(この人にぼくはなんと〝酒豪〟と呼ばれてしまったのだ)のもとで、吟醸造りのワンクールに特別参加、寝食をともにさせていただいたこともある。
 そのとき、麹菌の繁殖に、また醪〔もろみ〕の熟成に、木造りの蔵と木桶の効用がどれほど大きいかということを、すっかり、この身に沁みこませてしまっている。
 したがって(……)

 できることなら醸造元には、木桶仕込のよさを可能なかぎり伝えのこしてもらいたい。
 そんな思いに応えてくれている蔵の一つが、醤油ではこの「ヤマロク」さんだったからだ。
 ついでに、この蔵の半端じゃないところは、その木桶を蔵主みずからが先頭に立って自作してしまった、意気込みと剛直な精神と、だった。なかなかできることではない。https://www.facebook.com/yamaroku

 コクのある、中味の濃い、さすがの極上醤油だった。

 ところで、さて(……)
 この醤油という調味料には、つかわれる場面ごとの相性というのが介在するので、その評価、なかなかに難しく、いちがいに決めかねるところがある。

 ……………

 ぼくの記憶するところで、いちばん大きなチガイをつきつけられたのは、
「東京の人は、醤油で煮しめたような汁の蕎麦を、よう食べはりますなぁ」
 関東の<こいくち(濃口)醤油>文化を、なじって言う。
 関西の人方の、正直なおどろきに、蔑みのひとあじ垂らした証言でもあった。
 
 いわれてみればなるほど、関西系の<うどん>の汁は品がよろしい。
 出汁との相性も、よろしおすな。
 しかしながら、その<うすくち(薄口)醤油>文化、じつは塩分が濃い、それも結構きつい。

 その間、中京圏には古来<たまり>醤油の文化がのこる。
 味噌煮込みの名物料理<おでん>は<たまり>の精華といってもいい。

 ……………

 これではキリがない、ので。
 ここではひとまず、大雑把に、東日本と西日本の醤油文化にわけて見ておきたい。
 <西の醤油文化>は、主産地<兵庫>を中心にひらけたもの。
 <東の醤油文化>は、主産地<千葉>を中心にひらけたもの。

 そのチガイを、あえて、つきつめて言うなら。
 <うすくち>の<解釈>と<色あい>にある。
 その前に、いまの<うすくち>は「薄口」ではない「淡口」、(さすが、まこと日本的な)これがまず基本。

 これは、江戸時代に始まった新しい醸造法によるもので、これまでの<つよすぎた=熱帯系>の醤油の色を、日本人好みの<おだやかな=温帯系>の醤油にかえた画期的な製品。

 さらには、好んで鮮度のいい生の魚を<刺身>で味わう日本人特有の食美意識から、淡麗かつ味わい深い<再仕込み醤油>が、別に「刺身醤油」と称されて登場。
 そのルーツとされる「甘露醤油」はいまも、山口県柳井にあり、ぼくもその味わいを知っている。
https://www.sagawa-shoyu.co.jp/item/itemshoyu/

 そこで、ちなみに(……)
 ぼくん家は、江戸っ子庶民の流れながら(もとは西国、軽輩武士の末ともいう)、醤油を「〝お〟したじ(すまし汁の下味つけの意)」、また卓上醤油を「むらさき」と呼んでいた。
 日常の卓上醤油は、いうまでもない「刺身がうまい」醤油でなければならなかった。

 まさに、その「むらさき」なのであった、ぼくにとっての醤油は。
 「むらさき」は、ごく粋で品もいい<淡い赤紫色>。
 陶器の小皿に垂らして、その肌理〔きめ〕や絵柄に極くあっさりと紗をかけるほどのものでなければならない。隠してしまってはゆきすぎ、なのだ。 
 これ、江戸っ子の言う「侠〔きゃん〕」にほかならない。

 いまは、どこの醤油蔵でも「淡口醤油」や「再仕込み醤油」を造るが、その味わいと色あい、まさに千差万別の様相を呈して…しかし、ぼくのこれまでの吾が舌体験で言えば、「刺身醤油」に関するかぎり、総じて<東日本>に軍配が上がる。
 決め手は「キレ」だ、色あいでも、味わいでも。
 (いっぽう「煮物醤油」はさすが<関西系>がおしなべて上等)

 これはフシギ、だがゲンジツ。
 ぼく、若い時分には、西へ旅するときにはわが家の「むらさき」を小瓶につめて持参した。いまとなっては、もう、そんなことをするほどのこともない…のだが、それでもたまに…極上の刺身に出逢ったときなど、無性に「むらさき」が恋しくなる。
 味わい好くても、(赤紫の濃すぎる)色あいが…刺身のよさ、鮮度といったものを艶けしにしてしまうからである。

 これについては、どう考えても、文化のチガイとしかいいようがない。
 西日本の、刺身にうるさい料理人はもちろん、食べ幸人たちにしても、なかなかそこまではワカッテもらえない。
 やっぱり「侠」というやつは、「江戸っ子の文化」ってことらしい。





◆現代の「醤油文化」は「正油さし文化」でもある

 ついでに、その話しにも言及しておきたい。

 わが家の醤油さしが、ガラス製から押し出し式の「デラミボトル」になってひさしい。
 それは「液だれしない」清潔指向から、「醤油を食べすぎない」健康指向への推移といっていい。

 「刺身好き」のボクは、もともとが「醤油好き」であって。
 子どもの頃は、コロッケとかの揚げ物なんぞでも醤油さえあればそれでヨカった(ソースなんか要らない)。
 まさか、ドボドボ湯水のごとく…ではなかったにしても、つい注ぎすぎることは多く、垂らして垂らしたりない分を垂らしくわえることがよくあった。
 自覚症状としてはなくても、小さい頃から<塩分過多>だったろうことは察しがつく。

 それが、長ずるに及んでさまざまな体調不良をきたし(もちろん醤油だけの所為ではなかったが…)、ついには動脈硬化から心筋狭窄にまでいたる事態があって、いまは心がけて「減塩」を念頭にする日々。
 塩味からの脱却、素材のもちあじで味わう食意識の構造改革は、おかげさまで進んだけれども。

 なにより、嗜好のうえで大転換を迫られたのが<醤油づかい>であった。
 それは卓上、醤油さしの傾け方、「注ぐ」のではなしに「垂らす」意識改革から始まった。
 醤油さしのあれこれ、容器の大小もふくめてずいぶん試行をかさねたことだった…けれども。

 あるとき、それもつい近ごろ、「デラミボトル」なる革命的な容器の登場で、ついに一気に解決をみた。
 醤油の品質劣化と、注ぎすぎを同時に防止するこの容器の、もっとも優れた点は、すでにそれが製品に施されていること、つまり「醤油さし」そのものが不要になることだった。
 かたちにも気をかける必要がある料理屋ならいざ知らず、家庭にとってはなによりの福音であった。

 フシギなのは、「デラミボトル」を卓上に置くようになってから、醤油の味わいがいっそう鮮明になったこと。極論するなら、その態度「喰う」から「いただく」へ、というほどもものだった。

 さらに、その後には「プッシュ(スプレー)ボトル」まで登場して、ぼくもすぐに試みてみたわけだが…これはザンネンながらいただけなかった。
 なぜ? せっかくの「むらさき」醤油がセツない霧となって散るために、うっかりすると小皿のまわりを汚すことになるからだ。

 ちなみに、「スプレーポンプ」の場合はワンプッシュ約0.1cc、「ドロップ・ポンプ」だとワンプッシュ約0.5ccだそうな。
 減塩の目的はよいわけだから、これはむしろ料理を供する側にこそ、ふさわしいもの…というより。
 (このプシュッてやつは、やっぱり、化粧品なんかにいちばんお似合いなのであった)

 ……………

 そういうわけで、わが家の、いま現在の常備醤油は「弓削田醤油」(埼玉県坂戸)。http://yugeta.com/

 卓上には、デラミボトルの「吟醸純生しょうゆ」200m入りがのっている。

 甘露醤油にもデラミボトルがある…が。
 「ヤマロク醤油」にはまだデラミボトル容器の用意がないようなのが、ちとザンネン。
 木桶の次にはぜひ、デラミボトルを採り入れてほしいと思う。

「くらやみ祭り」に府中が湧いた<暮六つ>

-No.1703-
★2018年05月21日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2629日
★ オリンピックTOKYOまで →  795日

 おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。


*やりきれない(…)想い、またひとつ。51年前に、東京の順天堂大学順天堂病院でおきた赤ちゃんの<とりちがえ>事件(ですよね、明らかに)。「自分は誰、ほんとの親はどんな人」と(なんとかしてほしい)思いを訴えた当事者の男性があって。けれども、順天堂病院では、その事実があったことは認め、謝罪はしたものの、判明した相手方の現在の<平穏な生活>に配慮して<実の子>の存在を伝えることはしない…という。あれやこれや、厄介瑣事はあるだろう…けれども、ここでも、なにより大事な<ヒガイシャのため>の配慮がどっかへ消し飛んでしまっている。民心から離反することの多い裁判だけれど、ほかに救済の手をさしのべる<法>も<方>もないなら、裁判所のひとつでも、裁判官のひとりでも、弁護士のひとりでもいいから、<人智の叫び>の声をあげてほしい…! きっと民心はうごきます。*














◆遠い〝歌垣〟の世界へ…

 5月5日(土)こどもの日。
 立川での上映会と座談会のあと、府中へまわった。

 祭り好き。大國魂神社の「くらやみ祭り」、見のがせない。
 4月30日(月、振替休日)から始まったことしの祭りは、5月3日(木、憲法記念日)からがいよいよ民衆催事の華ざかり。

 この日は、夕方6時の花火を合図に「くらやみ祭り」メインの神輿渡御がくりだす。
 神輿渡御を「おいで」と呼ぶのは、神さまから「おいで」とおゆるしがでる、それをよろこんで氏子仲間が参集する<心意気>であろう。

 府中の町に入ったのは、5時半くらい、時もよし。
 臨時の出店で買った缶ビールを片手に、神社境内から京王線府中駅へと抜ける本通り参道に陣どって、<暮六つ>を待つ。

 「くらやみ祭り」のふれこみだが、春もさかりの陽はやっと傾いてきた頃あい。
 空は、「誰そ彼(たそがれ)どき」とか「彼は誰(かわたれ)どき」と呼ばれるふんいきに暮れなずむ、けれど、それを早めに察知して灯る街灯が宵闇の訪れをおしのける。
 これでは、むかしの「逢魔が時」も出る幕がない。

 沿道、歩道の敷物に早くから陣どったどこかの若手社員グループ、どの顔もすでに酒に煽られ火照ってきている。無造作に投げ出した女子の脚がまぶしい。

 ……………

 やがて、遠くで花火の音がする…と、沿道の観衆ももぞもぞ動きだす。
 いつのまにか交差点付近に出張って来ていた氏子衆が、これから神輿の迎えに境内へと出向く。
 もったいぶるわけではなかろうが、神事は厳かにしずしずと進む。「おいで」行事に沿道が湧きかえるまでには、まだ30分くらいはかかるだろう。
 陽はまだ空にのこって、夕やけてきていた。

 「くらやみ祭り」というのは、もともとはほんとうに夜、闇のなかでおこなわれた行事。
 古来、広くアジア地域に分布して見られた「歌垣」の風習からおこったもの、と言われている。
 「歌垣」は若い男女にゆるされた求愛の予祝行事で、当夜は、男女一緒になって飲食しながら、おおらかな歌声を掛け合ったものらしい。
 いうまでもなく、そこからはいくつものカップルが生まれては、夜の闇にまぎれこんでいく……

 その頃の「くらやみ祭り」の、熱い闇の空気をぼくは想いみる。

 明治の世になって、この淫靡な風があらためられて、現在の夕刻の催事になっとものである。
 ちなみにぼくは、これが3度目の大國魂神社詣り。最初の一度は、毎年7月20日の「すもも祭」に、このときは五穀豊穣と悪疫防除の名高い護符「からす団扇」をいただくため。
 (この頃は、アウトドアライフに夢中な頃で、火おこしのアイテムに粋を気どったものだった…)

 もう一度は「くらやみ祭り」だったが、そのときは暗くなるまで待ちきれず、参道の店で酒に酔って帰宅。したがって、神輿の「おいで」を出迎えるのはこれがは初めてだった。

 沿道の観衆が、揃って首をのばして、遠い…暗くなった境内の方をのぞき見ようとする。
 先ぶれの、「くらやみ祭り」名物の大太鼓の、腹にこたえる全身全霊こめた打撃音が響いてくる…けれども…行列はなかなかに近づいてきてはくれない。
 大太鼓を曳く屋台は、途中、横町に折れ行って、町内こまやかに祝福をとどけてまわってくる。

 花火の合図から1時間以上が経過して、やっと大太鼓がやってくる。
 太鼓の叩き手は、両手に太めの野球バットみたいな棍棒を握りしめ、直径おとなの身の丈以上もある強張りの太鼓めがけて、挑みかかるように叩きつける…そのさまに、沿道の観衆がざわめく。

 大太鼓の上には講中の世話役が立って、叩き手を鼓舞がごとく、煽るがごとく、長提灯を提げて誘いかける。
 叩き手の年齢、あきらかに高齢化の渦中にあって、いずれも力自慢とはいえ、「後の祭り」が案じられるばかり…のなかに、肉〔しし〕おき逞しい女性が立ち混じって、やんやの喝采を浴びていた。 
 こんな大太鼓が都合6張り、年に一度の「このときとばかり」に、あちこちで観衆の歓呼にこたえて動かない。その轟音に町中がふるえている。

 つづいてこれも大きな神輿が8基ばかり、白丁の担ぎ手の肩に揺られて「おいで」「おいで」と参道を行ったり来たり…。やはり、担ぎ手に若手の多い神輿ほど勢いがあって頼もしく、御旅所までの道中、なかなか先へは進まない。
 一夜明けて明日の4時には、神輿は早朝の町を練り、境内に還って祭りはおわる。だから、これ、今宵がことしの「おいで」〆……なのである。






映画『The Red Pill』と「ジェンダーを考える」会/Kネット(共同親権運動ネットワーク)のこと

-No.1701-
★2018年05月19日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 2627日
★ オリンピックTOKYOまで →  797日

 おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。


*あいかわらず地味な存在でいるスポーツですけれども…。中国で行われた世界競歩チーム選手権、男子50kmで日本勢が表彰台独占の快挙。優勝は、リオ・オリンピック銅メダルの荒井広宙くん(自衛隊)で、記録は3時間44分25秒。6秒差の2位が、同じく自衛隊の勝木隼人くん、3位は、丸尾知司くん(愛知製鋼)。それだけじゃない。同20kmでも20歳の池田向希くん(東洋大)が優勝。チーム上位3人の合計タイムで競う団体でも、50km&20kmでダブル優勝。選手層も厚く、2020TOKYO大会への見とおしもグンと明かるくなりました。開会式まで、あと797日。*






フェミニスト…と、マスキュリスト…と

 レッド・ピル(赤い錠剤)は、「痛ましい事実を受け容れる」こと。
 これは、ブルー・ピル(青い錠剤)「幻想のなかで気楽に生きる」こと。
 「どっちをとるか?」は、アメリカン・ポップカルチャーの象徴。

 『レッドピル(The Red Pill)』(2016年)は、フェミニスト(女性の権利を主張する立場)にあった女性監督キャシー・ジェイ制作のドキュメンタリーです。

 シアター公開ではない映画に関心をもったら、上映会のスケジュールにあわせて出向くしかありません。
 このテーマに関心を抱いたぼくたち夫婦は、会場の立川まで行ってきました、5月5日「こどもの日」に。

 映画は、アメリカで気づきの声をあげはじめたマスキュリスト(男性の権利を主張する立場)たちに、インタビューをかさねていくうちに、みずからのフェミニストの信念に疑問を抱きはじめます。
 「女性は弱い不利な立場にある」とばかり思っていたら、じつは「男性もまた社会のなかで犠牲をはらわされ不利益を被っていた」ことに気づかざるをえなかった…。

 男性たちが命の危険にさらされる仕事を負わされている問題、自殺者も男性たちに多い問題、DV被害は男性側にもあるのに救済されにくい問題などなど…。

 つまるところ、女性の側にも、男性の側にも、人権はなかった。どちらも被害者だった。
 なにが、そうさせたのか。

 それにもかかわらずアメリカでは、フェミニストたちとマスキュリストたちとが、たがいに相手を非難しあう現状がある。
 たがいに主張してゆずらない背景には、「男女の性的分業意識」という、差別感にもとづく対立感情があるばかりではないのか…。

 深く考えさせられる、むずかしい内容でした、が。
 このテーマ、じつは日本にもすでに、あちこちに萌芽が見られるのを、ぼくは感じていました。
 それは、ぼくも関わったことがある、「男女平等」意識の向上を目指す運動のなかにも認められたことでした。

 この問題の解決にも、いまの政治状況や憲法論議と同じく、「対立の構図」をはなれたところからの、論議より対話や会話が必要、不可欠なのに。
 それができない、ヒトってアンガイな、たいしたことないやつです。

 ……………

 この映画の上映会を企画したのは、「Kネット(共同親権運動ネットワーク)」http://kyodosinken.com/
 
 日本の現状は、両親が離婚した子どもの「親権」は、母親か父親かを選ばなければなりません。「選ぶ」とはいっても、じっさいには「とるか、とられるか」です。
 そうして、この制度は多くの問題をはらんでいるにも関わらず、関心・理解は深まらない(誰しもがいざ当事者になるまでは…)まま。
 「共同親権」は、離婚して後も双方がひきつづいて「共同養育」にあたれる社会の実現を目指す活動です。

 映画のテーマとは、また別、かも知れないけれども、その背景には同じ「性差別」意識が存在するわけですから、切り離しては考えられない。
 おなじ課題に立ち向かう同士です。

 上映会(主催者の予想を上まわる参加者だったらしい)の後には、kネットの宗像さんとマスキュリストの久米さんをかこんで、「ジェンダーを考える」座談会もあり、これも盛会といってよかった。

 ぼくたち夫婦には子がなく、したがって孫もないのですが。
 ヒトが抱えるおおきなテーマですから。
 カンパをして(上映会は無料)、座談会の空気をいっぱい吸って、帰りました。

 ぼくが住む町田も、かなり意識ある市民の多いところなのに、この課題へのアプローチはまだ聞きおよびません。それが、ちと、ざんねんなことでした(……)。

…[隔日]連載の記事は明日です…

No.1700
★2018年05月18日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2626日
★ オリンピックTOKYOまで →  798日

*おかげさまで…1700回になりました*

*躍動するハスキーボイスで一時代をきずいたJポップの西城秀樹さんが亡くなった。行年63は、やっぱり早かった。死因は急性心不全だったそうだけれど、脳梗塞を2度も患ったことが身体にはひびいたのではないか。やすらかな冥福を(……)*

<時代(現代)>と<文章>と<読書>の話し/   あらためて『嵯峨野明月記』のこと

-No.1699
★2018年05月17日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2625日
★ オリンピックTOKYOまで →  799日

 おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。


*5月5日「こどもの日」に出かけ(くわしくは後日の記事…)たら、たまたま八王子の駅で、なにやら異様な列車が隣りの中央線ホームに進入してきて、唖然とさせられた。ぼくたちと同じホームに居あわせた人たちもみんなビックリした様子で、なかには余所見の足元がよろけた方さえあったほど。ナニかのイベント列車かと…一瞬、勘違いしたけれど。これがJR東日本、肝いり自慢の豪華寝台列車トランスイート四季島」と知れた。「春の旅」かなにかの募集企画で、信越南東北方面をまわってくるらしい。しかし…それにしても…ゴールド・シルバー(あるいはゴールドグレー?)の車体はなるほど華麗かも知れなかったが、先頭と最後尾を除くと、全体に窓の少ない車両のデザインは、こよなく〝旅情〟を愛するボクの〝旅心〟とは、まったく別世界のモノに想われ…。ま、あとは、じっさいに乗って見なければわからないコトだ、けれども。*





辻邦生さんの本『嵯峨野明月記』

 この長編が、本阿弥光悦・角倉素庵・俵屋宗達の3芸術家によって、やがて洛北嵯峨野の鷹ガ峰に〝嵯峨本芸術村〟ともいうべき文化を花開かせるいたる時代絵巻であることは、前回5月15日の記事でお話したとおり。
 今回は、その続編というより<番外編>と思っていただきたい。

 この小説は、二部構成、文庫版で425ページにおよぶ長編。
 <第一部 一 闇の中より三人の声つぶやきはじめる事>
 読みはじめたときは、<一の声>光悦、<二の声>宗達、<三の声>素庵、それぞれに個性的な語り口、著者の趣向にのせられて、なんのさしさわりもない順風の出だし、であった。

 読書においてもスタートはたいせつで、出だしでつまずくと断念にむすびつくことも少なくない。
 この時点では、ぼく、前に読了を途中であきらめた経験があったことなど、すっかり忘れていた……

 ここで先に、ぼくの読書のカタチをお話しておいたほうがいいだろう。
 ぼくの本読みは<枕読み>、ベッドに横になって眠気を誘われるまでのあいだの愉しみだ。
 そのために、ぼくのベッドには、頭の後ろにバックテーブルが造りつけられており、サイドの壁には読書灯も灯るようになっている。

 学術書とか資料書のようなものは机で読むが、愉しむ読書はだんぜん<枕読み>にかぎる。もう長い間の習慣で、なんら不自由なく、ただひとつの弊害といえばガチャ眼(左右の視力に差ができること)気味になったことくらい。

 <枕読み>は、眠くなったら本を閉じればいいのが利点。あとは眠りにまかせればいい。
 心身くたびれて読む間もないこともあるが、これはやむをえない。読みにくい本は睡眠薬がわりになる、かわりに、眠気を忘れさせてくれるほどの本があれば深更まで、ときには明け方まで読み耽ってしまうこともある。

 ときにヒトは、睡眠を離れる心意にも目覚めておいたほうがいい。

 ……………

 生きることは<活動>と<休息>をくりかえして、やがて永遠の休息の<死>にいたるわけだから。
 生きものにとって休息の<眠り>は、同時に、二度と目覚めない<夢>の崖っぷちに立つことでもある。
 すると、眠りに<夢>がともなってくるのも、ただごとではない。

 ある意味<眠り>は、生れでた日から始まる<臨死>体験の積み重ねかも知れない、気もする。
 なぜなら、<死>は生命にとって、どうにも克服しようのないテーマにほかならない、のだから。

 また、<よみがえり(蘇生)>というのは、いうまでもない、<黄泉帰り(甦生)>で。
 それゆえ、ヒトの眠りに寄り添ってくるかに思える<夢>見には、生命の<あやうさ><たよりなさ>を感得させるものが多いことにも、うなずける。

 ボクなども、夢から覚めてホッとひと息、そのまましばらくは宙をにらんでいることがあったりする。

 ……………

 ついでに付け加えておくと、ぼくの読書は<熟読タイプ>。
 軽く搔い摘んだり、あるいは端折ったり、ましてや斜め読みなどといった芸当は、思いもおよばない。

◆『嵯峨野明月記』枕読みをつづける

 <第一部 二 草花鳥虫を愛ずる事、家業に及ぶ条々>
 < 〃  三 月明に女と出会う事、及び世の移りゆきに及ぶ条々>
 と進むうちに、ぼくにはふと、ちと息ぐるしいような圧迫感が芽生えてくる。

 一人一人の話しに、始めから終いまで、区切りも段落もない。
 改行なしの語り口は作者の意図。それはワカルのだ、けれども。
 かといって、テンポよくたたみかけてくれるのでもない。

 ぼくは、一人の話しがすむたびに、ホッとため息を吐く。

 そうして、この気がかりな展開。
 <第一部 四 斎藤内蔵助利三が因縁の事、及び加賀発向にまつわる条々>
 にいたって、いっきょに極まる。
 
 この件〔くだり〕 、<一の声>光悦の語りばかりで52ページ、およそ3万4500字の間、改行なし、句読点も少ない一連文なのであった。
 声にならない悲鳴をあげたぼくは、大型連休の渋滞に嵌ったドライバーのごとき心境。
 我慢の四苦八苦、4~5夜を耐えることになってしまった。

 わずか52ページ……ふつうに読み進めたなら、なるほど、そのとおりだが……
 息をつく間もない語り口の文には、こちらで区切りをつけるしかなかった。
 すると、いきおい眠りも浅く、夢見にもただならない気配が忍び寄る。

 読んでくださればわかる、といったら、読む人がなく(本が売れなく)なるかも知れないから、そんな邪魔だてはできないけれど。
 ぼくは、かつて自分が、この本の読了をあきらめた経緯とその道理に、あらためて得心がいった。

 たいせつなのは、この本『嵯峨野明月記』が、「嵯峨本」の世界を描いていたことにある。
 嵯峨本がもとめたのは、「間」や「余白」のよさかと思う。
 「行間」を読み、「余韻」をあじわおうとしたのではなかったか。

 もちろん、この感想には、ぼくの文章の好み、というものがある。たしかに。
 しかし、ぼくはいまの、この時代のなかにいる。生きぐるしい時代だ。世情いらいらと、ささくれだって、それこそひと息やすむ間もない。そんな世に。
 翻弄されながら、けれども、ぼくなりにその渦を見すえて生きてきた。

 本が売れないのは、なぜか。
 <価値観の多様化>がある。<映像の世紀>がある。<読み書き文字>離れがある。<デジタル化>も、<バーチャルリアリティー化>も、<電子書籍化>も、<漫画・動画文化の進出>も<サブカル>もあった、けれども(……)。
 なぜに<本>読むことが<忌避>されだしたのか(…と思えるのは何故か)。

 いまも熱心な<読書人>はいる、が。大衆的には、先鋭に先細り、裾野が狭まった感、否めない。

◆<本>読む人はやがて<特趣な人>になってよいか

 この惑星に芽生えた生命、たがいに生きのこりをかけ生き抜いてきた、そのいま一翼に<くふう>のヒトがある。
 水を得、火を得、言葉を得、苦心して得た文字表現が、もはや将来は不要の方向…というのか。
 われらがヒトの脳は、それにもきっと耐えられるだろう、と!?

 ちがう。そうではなくて、
 <文字表現>を見つめなおすときが来ているのだ…と、ぼくは感じている。

 <言の葉>表現のひとつひとつを、石に、壁土に刻みはじめたときから。
 ヒトは知識への目覚めに欣喜雀躍、やがてその精華としての印刷技術のくふうによって、膨大な文字表現の量産化を成し遂げた。より多くのヒトのために……

 「嵯峨本」は、たとえば、アジアにおけるその揺籃期の、悩める精神〔こころ〕、なぐさめの花園づくり、とすれば。
 ルネサンスは、どこまでも知識欲(渇望)との飽くなき闘いだった言えるのだろう。

 大長編小説がつぎつぎと生まれ、人々もよろんでそれを受け容れ、むさぼるようにして読んだ。
 読書は生きることとイコールだった。  

 ……………

 しかし、時の刻みの歯車をおおきく進めたいまは、また、まるでと言っていいほど時代がちがう。
 人々は、ひたすら膨大な蔵書料を誇る書棚を前に、下を向くか、顔をそむけたそうに見える。

 もちろん、この時代にあっても、かわらずに、むしろより熱心に、読書を愛する一定の層は存在する。
 けれども極く極く愛好家的、身内・内々、そこには、そこはかとなく排他的なムードさえただよわせる。

 本読まない人は文字読めない人、とでも思ってるみたいな気配さえある。

 ……………

 ちがうんデス。そんなんじゃない。
 そのじつは、文章表現にも、ただ「心地よく覚醒的な間がほしい」だけだった、のではないか。

 文章は、読書は、「こうあるべき」ときめつけるがごとき、呪縛のような、信仰のような態度が「やだねぇ」だっただけ、なのではないか。

 そんな現代の<こもった>文章・読書事情に、<風を入れる>方法のひとつに、「間」をとる文章法があっていい。
 ぼくは、そう思っている。

 このブログ表現でも、そんな「間」のとり方を心がけている。
 ただ、このコンピューター世界に通底する<醒めた>感覚のシステムでは、〝美妙〟といえるほどの「間」は表現のしようがない。

 けれども、「わかるよ」「いいね」、諒解してもらえる努力は、これからもつづけていきます。
 はい……生きるかぎり、コツコツ……

『嵯峨野明月記』の3人…光悦、素庵、宗達のこと/それは『唐紙~千年の模様の美~』から始まった…⑤

-No.1697
★2018年05月15日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2623日
★ オリンピックTOKYOまで →  801日

 おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。

ジブラルタル海峡南欧と接するアフリカ北部、モロッコからおよそ100kmの沖合、スペイン領カナリア諸島が眩しい。そこは、深海から大西洋上に屹立する7つの火山島からなる島。赤道に近く、猛烈な<貿易風>の卓越する島々、いまはウィンドサーフィンと世界遺産の自然で名高いけれど。もうひつとの貌は、主に欧州と中南米方面とをむすぶ貿易船にとって重要な中継港。15世紀にはかのコロンブスが冒険航海の途次この島に立ち寄り、貿易風にのって新大陸発見の偉業を成し遂げているし、ラス・パルマス港にはいまも日本の遠洋マグロ漁船団が寄港する。話かわって…1995年。世情を震撼とさせた地下鉄サリン事件の折、山梨県上九一色村オウム真理教施設への強制捜査に、携行された籠の鳥が耳目を驚かせた。鮮やかなカナリアンイエロ-の籠の鳥「カナリア(金糸鳥)」は、毒物に敏感なことから毒ガス検知に動員され、その姿態の愛らしさと役割の過酷さとのギャップでつよく印象づけられたのだった。カナリア諸島がこの小鳥の原産地(……)。*




◆『伊勢物語』『徒然草』『方丈記』…王朝文化復興の豪華本

 <一の声>が、落ち着きのある物腰で語る。私…ストーリテラーは、書家にして和美のアートディレクター、本阿弥光悦である。
 <二の声>が、奔放磊落な資質そのままに語る。おれ…は自分がどこまで自分かも判じかねるふうの天衣無縫の画家、俵屋宗達である。
 <三の声>が、悩める富商の家生まれの知識人らしく思慮深く語る。わたし…は、歴史的な豪商角倉了以の息、角倉素庵である。

 辻邦生さんの『嵯峨野明月記』は、室町末期の戦国時代から安土桃山、徳川江戸時代の初期にかけて、京の都人として生き活躍した3人の文化人が、わが一代を回想し、その時代をふりかえるカタチで進行する歴史物語なのだ、けれど。
 そのじつは終盤、洛北嵯峨野のいわば〝芸術村〟を舞台に17世紀初め、「嵯峨本」というエポックメーキングな豪華本の出版事情が舞台の主役といってよく。3人はそこに収斂していく3本の縦糸。そこにかかる文化的な<縒り>、織りなされていく<綾>への愛着と執念の物語だ。

 読み応えの軸を支えるのは、いうまでもなく本阿弥光悦。いわゆる「琳派」の美意識の底には、本阿弥家の本業、刀剣(鑑定と研ぎ)を見きわめる透きとおった目がある。雲母刷りの料紙(唐紙)に書かれた手書きの書からは、姿勢と間のよさがただよい流れる。

 けれども、「嵯峨本」の版元(開版者)になった角倉素庵の人物像のほうが、より興味深く思われるのは、ぼくが素案の父、了以に傾斜していた所為かも知れない。
 偉丈夫な身体につよい意志力をもって、大堰川高瀬川、また富士川天竜川の開削に邁進した「水運の父」は、日本史のなかに特異な精彩を放つこと、ときに為政者の比ではない。
 そんな父のもとに生まれながら学問に傾注しつつ、家業の貿易商にも精をだした素庵は、この時代の悩めるインテリ(読書家)。彼にとっては「嵯峨本」が、誠実な生涯に咲かせた華であったろう。

 その「嵯峨本」の料紙に、斬新な風を吹きこんだのが、あの『風神雷神図屏風』の画家、俵屋宗達。本人にいわせると、「絵になろうとするものをオレはなげこんでるだけ」らしいから、こちらは「おもしろいね」「好きだよ」と手を叩いていればいいのだろう。

 そして、もう一人。
 これら「琳派」3美術家の、美意識の鮮血を活き活きと世にめぐらせたのが、工芸家であり装幀家でもあった
紙屋宗二。紙はなんでも、舐めてそのよしあしを性質を見きわめたという、彼の存在もまた、3人に負けないくらいおおきかった。

 その精華を、洛北嵯峨野の〝芸術村〟に結集させたものは(……)。
 つまるところ、この稀有な趣向を「いいね」と歓びむかえる気風とインテリジェンスが、その頃の京の町人に浸透してあった、ということになる。

 ……………

 ところで。
 辻邦生さんの『嵯峨野明月記』については、別にぼくの切実な感想があり。
 それを次回のお話しにしたい。

「原色」の想い出、「三原色」の…?…?…?…/ それは『唐紙~千年の模様の美~』から始まった…④

-No.1695
★2018年05月13日日曜日
★11.3.11フクシマから → 2621日
★ オリンピックTOKYOまで →  803日

 おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。

*現在数は大洗水族館(茨城県=1頭)など7施設にわずか10頭。あの、仰向けに浮いて貝などを美味しそうに食べる姿が愛らしいラッコです。一時はパンダを凌ぐか(!?)とまで騒がれたこともある、ピーク時には全国28施設に122頭もかぞえた人気者が、繁殖がむずかしいこと、それにともなう高齢化とで、やがて間もなく〝国内では絶滅〟かと心配されているのです。ぼくは、1982年に初めて日本にやってきたのを伊豆三津シーパラダイス静岡県)に迎えて以来の、ラッコのオールド・ファン。さみしいかぎり、ですが。野生の世界でもラッコは悲劇的な動物。かつては毛皮が目的の狩猟で絶滅寸前にまで追い詰められ。いまはまた海洋汚染などで激減、絶滅危惧種指定の悲運に見舞われています。*



(左)色光の三原色、加法混合(RGB)

(右)色料の三原色、減法混合(CMY,CMYK)


◆「唐長」がつくる王朝の色

 ドキュメンタリー『唐紙~千年の模様の美~』で、「嵯峨本」の用紙を再現した「唐長」11代目千田堅吉さんは、「青・赤・黄」の三原色からすべての色をつくる、と紹介された。
 画面には、千田さんが顔料を乳鉢で混ぜ合わせる姿があって…絵の世界の人にはごくあたりまえのことだろう…が、ぼくには内心<憮然>たる想いがある。

 あえて言う、ぼくは美術(小学校では図工)がキライではなかった。
 図案・模様を得意とした…が、人物を描くと案山子…が吾ながらイヤみで、これにはマイッタ。
 絵具を混ぜるのも大胆、細心に欠けたせいで、苦手。原色のほうが気もちがよかった。

 長じて、こんどは塗料の混色。
 ぼくのイメージする「スカイブルー」をつくりたくて、繰り返し繰り返し色を加えた(だって…減らせない)結果は、塗料の無駄ばっかりの惨敗におわり。
 塗料店に「色のみち教えます」なんて看板を見ると、それだけで不機嫌になった。

 ぼくにとって色は、気むずかしいものであり。
 だれか巧者、上手があれば、拵えてもらいたいものになった。
 
 それでいて(……)

◆「原色」と「三原色」の間〔はざま〕

 ぼくをとりまく日本の自然と環境は、原色に馴染まない。

 「原色」は英語で「primary」だ、けれど、その意味するところの幅(振幅)は大きくて。
 ふつうには「原始」あるいは「初歩」のニュアンスが濃く、つまり、とても上等・上品に評価できるものではなかった。

 「原色」の「primary」が、真っとうな意味合いの「基本」「主要」に昇華して見えたのは、冬の、雪の、北の大地。厳冬の季節の北海道には、とくにも人々の服装の「原色」がよく似合った。
 それを極だてたのが、いうまでもない、雪氷の白。

 のちになって、熱帯に住み暮らす黒人たちにも「原色」が似合うことに気づく。ことにもアフリカ、赤道直下あたりの「麗」黒人、「漆」黒人には「原色」が螺鈿〔らでん〕のごとくに、はまって見える。

 「純白」と「漆黒」の間に、キラキラ、色のチャートが花びらになって舞い踊るのを知る(……)

 ………やがて………

 ぼくは、カメラから映像の世界にどっぷり。
 いっぽうで、書籍編集の仕事から印刷界にも生息域を広げ。
 <色>との付き合いは否応なしに深まり。

 ひととおりの知識は身につけ、一応の理解はした、けれども。
 けして感性でもナットクできたわけではなくて、そこには、初期のカラー(総天然色…と呼ばれた)映画を観たときにあじわった、一抹の<ほろ苦さ>に似たものがいつも介在していた。

 ヒトの生理では。
 眼の網膜に存在する光受容細胞には、三種類(長波長に反応する赤錐体、中波長に反応する緑錐体、短波長に反応する青錐体)の錐体細胞があり、これが可視光線を感受、大脳によって色として認識される、つまり「三色型色覚」だという。
 それはワカルのだ、が。
 
 そこからくる色の表現法で、液晶ディスプレイやデジタルカメラなどの画像再現につかわれるのが「RGB(Red、Green、Blueの頭文字)」カラーモデルというやつ。
 三原色をひとしく混ぜる(発光体を組み合わせる)と上のカラーチャートのようになる(見る眼にライトの発光が色刺激を放つ)、これを<加法混合>と呼ぶそうで。

 これはつまり、たとえば「赤」と「緑」の光を重ねて投影すると「黄色・橙色・茶色」の〝影〟ができ。3つすべての光を重ねていくと「黒からグレー」やがて「白色」の〝影〟ができる。
 したがって究極、白色の光(乱反射)を合成するための波長を「色光の三原色(または光の三原色)」と言うのだ、と。
 これも、まぁ、リクツとしてはワカルけれども。

 すっきりナットクにはいたらない。なぜなら。
 雪の白や雲の白は、とても〝乱反射〟由来のものとは思えない存在感で「白」くあり、それに反射する光はまた別に見えるのだから。
 これは眼ばかりのことではなくて、映像にしてもおなじ。
 対極の「黒」い〝影〟も、また、おなじ存在感で迫ってくる。

 ………もうひとつ………

 印刷物など、インクや絵の具(色素)による光の吸収(と反射)で色刺激を表現する方法を「減法混合」と言って、この場合には「シアン(C)、マゼンタ(赤)、イエロー(Y)」の「色料(絵具)の三原色(または色の三原色)」と称する。
 (これ、液晶画面と紙とでは発色の原理がまったく異なる…のはワカルし、塗り重ねることで元の光りを遮るのだから…とはいえ、なにしろヒジョーにワカリにくい)

 さらに、印刷では「CMYK」というカラーモデルがつかわれており、この場合にプラスされる「K」は「キープレート」のこと。
 「減法混合」では「加法混合(RGB)」とは逆に、三色がひとしく混じると理論上では「グレーから黒」になる(じつにワカリにくい)のだけれども、見た目には「暗い」ばかりでキレイに「黒」くはならない。
 そこで、「黒」を美しいものにして印刷効果を高めるために加えられたのが「黒」の「K(キープレート)」カラーというわけだ(まっことワカリにくい!)。

 ついでに付け加えれば、液晶表現には「ピクセル」、印刷表現には「網点」や「ドット」…もう、いいかげんにしましょうネ。なにしろ、

 ………ぼくは、そういう業界にいた………

 このようにリクツはワカリにくく、ヒトの感性としてもナットクしにくい、けれど。
 ヒジョーに優れた技術者集団のおかげで、刺激的でおもしろい仕事であった。

 そんな印刷色世界にいて、ぼくに精神安定をもたらしてくれたのが「印刷色見本帳(カラーチャート)」というやつ。
 三原色でつくるプロセスカラーとは別の「特色」集なのだが、プロセスカラーのインク配合など指示できないボクら、ほとんどの編集者には、これを頼りに現場に色あい(色調表現=調合)をお願いしていた。
 短冊になった見本帳、なかでもぼくのお気に入りは「日本の伝統色」見本なのであった。

 …………

 色のなかでは、こよなく「黄色」を愛してやまないぼくは、「日本の伝統色」では「苅安」という色がことのほか好きだった。

 そうして、俗に「きちがい色」(きっと、たぶんにゴッホの絵のせいだったろうと想う)とも呼ばれた黄色は、「陽光」の象徴であり、いっぽうで色としてはとても不安定な、他の色とは協調しにくい性質をもち、混じれば「濁る」、かわりに究極の混合色「黒」には深みと艶を与える。

 あらためて、上掲2つの「3原色」図を見てもらうと、ぼくの言わんとするところが、わかっていただけるのではないだろうか(……)。
 そうして、いうまでもなく、ぼくは「光色」の世界のヒトであり、「もっと光を」タイプのヒトであるのだった。

「嵯峨本」に逢いに、印刷博物館へ/      それは『唐紙~千年の模様の美~』から始まった…③

-No.1693
★2018年05月11日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2619日
★ オリンピックTOKYOまで →  805日

 おはようございます、おげんきよう、<なっつまん>です。

*いまは高知在住、中学・高校時代の友が、ぼくのトマト好きを想って贈ってくれた名産の甘みきわだつ高級品「徳谷とまと」。食べるときに気をつかって果肉から種を採り、保存しておいたのを、この春に蒔いた。じつは、春先の天候の推移が烈しかったせいもあって、播種のタイミングとしてはやや遅い。トマトは俳句では夏の季語だけれど、もともとが南米アンデスの原産。冷涼で強い陽ざしを好むから、日本の夏の高温多湿は苦手なわけで、果実の旬は初夏と秋になる。ふつうは苗から育てるのがふつうだし、吹けば飛ぶよな頼りない種子から、素人が芽吹かせることができるものかどうか、気がかりだったが。ご覧のとおり、ぶじ芽生えた。立派に育って収穫できたら、もちろん友には返礼に贈る約束になっている。ことしの初夏がたのしみだ。*






◆所蔵「嵯峨本」のいま

 前回、9日(水)No.1691の記事では、ぼくに「嵯峨本」に逢いたい想いがつのってきたことを伝えました。ヒトという生きものの性行は、それにしてもハテ面妖な。ヒョンなことがきっかけで、ヒョンな方面に駆け出してしまうのですから。
 (ところで、「面妖」ってのも可笑しなコトバですよね。「めいよう=名誉」から転じたのが語源で「面妖」はアテ字…はワカリますけど、それにしてもハテふしぎ、ハテあやしげな…)

 ともあれ。
 どこに行けば逢えるか。
 こんな場合、以前ならここと思しきあちらこちらへ電話をかけまくるしかないところ、それがいまはネットで気軽に(ま、ときに怪しいネタへの注意も必要なわけですが)調べることができる。

 「嵯峨本」で検索したら、すぐに「国会図書館」と「国立公文書館」に所蔵されていることが判明。それも、いまはデジタルコレクションになっているのを、パソコン画面に読みこんですぐに見られる。
 けれども、そのかわり、期待はずれの揺り返しも大きいのでした。

 上掲・右の写真を見てください、これが「嵯峨本」とは、とても思えない。

 ボクがかつて見た「きらり華やか」「はんなり」世界の面影、どこにもありません。
 やっと、褪せた色紙の淡い面影と、いまは幻のような雲母刷りのあとがやっと判別できるだけ。

 上・下巻124頁に挿絵が48枚…ですが、いまぼくは挿絵が見たいんじゃない、目的は「唐紙」。

 「嵯峨本」の用紙には、前にも述べたとおり、鳥の子紙に礬水〔どうさ〕引きで染められた色紙に、金銀泥による「雲母〔きら〕刷り」(美麗な絹織物の綺羅とは別)がほどこされたもの。
 (これが障子唐紙の元になりました)

 ドキュメンタリー『唐紙~千年の模様の美~』に紹介された、「唐長」11代目、千田堅吉さんが再現をはたした映像によれば、「嵯峨本」には<水色、桃色、うす緑色>など日本の四季をあらわす5色がつかわれ。
 この「唐紙」に、効果的に配された「雲母刷り」の模様には<光悦好み>の「萩」などが用いられました。
 
 <光悦好み>の本阿弥光悦さんは、書道では「寛永三筆」の一人にかぞえられた能書家で、いわば元祖<和美のアートディレクター>。
 「嵯峨本」の文字刷りには、木活字(木版活字)が使われましたが、その版下(下書き=母型)を書いたのも光悦さん。こうして、装丁にもプロの意匠が凝らされた豪華本。
 それには、当時の日本の社会に、これを好んで受け入れる成熟した<読者層>があった(もちろん女性にことのほかよろこばれた)ことも見のがせないわけです。

◆小石川の「印刷博物館」へ

 いずれにしても、いま見る「嵯峨本」に往年の面影なし。

 こうした文物の場合、アテにできるのはむしろ、図書館・博物館系よりコレクター系の美術館でしょうし。
 また、復刻版になら香りの一端はかげるかも知れない(ぼくがかつて見た「嵯峨本」もやはり復刻版だったのだろうか…そこまでの記憶はないのだ)けれど、それだってその専門分野の企画展でもないかぎり、おいそれとはお目にはかかれそうもない。

 しかし、それでも……
 このへんの心情、恋心とちっともかわらない。
 もはや、なにがなんでも逢いたい、相手のいまがどうなっているのやも知れず、どんなに落剝しているかも知れなくても、つまり逢ってどうなるものでもなくても、とにかく逢いたい……

 そこで、ふと思いついたのが、トッパン小石川ビルにある「印刷博物館」でした。
 時代はちがっても、印刷は印刷、餅は餅屋。
 調べてみると、常設展示に「嵯峨本」あり。
 それに、図書館や博物館に行くより気が軽いこともあって。
 桜花、舞い散る頃に訪れました。

 凸版印刷
 いうまでもなく、大日本印刷とならぶ総合印刷の双璧、世界でも最大級の印刷会社です。

 かつて神田神保町で「編プロ(編集プロダクション)」を主宰していた、ぼく。
 出版社から受注する仕事の絡みで、トッパンとの付き合い多く、校了間際の出張校正室通いも頻繁、徹夜になることもしばしばあって。ゲラ刷り(校正刷り)の待ち時間に資料室を案内してもらったこともありました。

 もともと神田界隈に多かった出版・印刷関係の仕事。
 世代的に振り返ると、ぼくらの高校時代までは、もっぱら活版印刷の時代で。安く仕上げてもらっていた文芸誌の活字組み、その手伝いに街の印刷屋さんまで出張ったことも度々ありました。
 次の「編プロ」時代は、「写植(写真植字)」の全盛期。鉛の<活字組み>から印画紙印字<切り貼り>への仕事の転換は、激変といってよかったのを覚えています。

 そのトッパン
 飯田橋駅と、東京メトロ有楽町線江戸川橋」の間、文京区水道にあるトッパン小石川ビルの中に「印刷博物館」はあります。
 人類文明の発展とともに歩んできたコミュニケーション・メディア「印刷」の、歴史・価値から将来の可能性までを紹介。実物と映像に体験シーンも採り入れた興味深い展示になったいました、が。

 さて、めあての「嵯峨本」のコーナー。
 紙の劣化をはやめる光を極力おさえた薄暗い館内に見るそれは(……)やはり、色褪せた年代物の世界に閑〔しずか〕に息を潜めていました。
 しかも、やむをえないとはいえ、ここでもそれはガラス・ケースのなか。見られるのは、わずかに1見開きの2ページのみ。

 でも、パソコンのモニター画面で見るのとでは、肌合いがちがう。

 前にも書きましたが、「嵯峨本」の「きらり華やか」「はんなり」世界は、いまの陽をあざむく照明とはまったく別次元の、仄かな灯火〔ともしび〕のもと、朧な火影にしかあらわれなかったことを懸命に想って。
 ぼくは、しばらくそこに佇んでいたのでしたが……

 いつのまにか、ふと(もういちど)と、心に呟いていました。
 そのとき、脳裡には二つのことが、ありました。

 ひとつの(もういちど)は、『嵯峨野明月記』を(読んでみよう)気になっていたこと。
 もうひとつの(もういちど)は、「三原色」の認識を(あらためてみよう)ことでした。

 『嵯峨野明月記』は辻邦生さんが書いた、「嵯峨本」にまつわる物語。
 それを覚えていたのは、じつは、ぼく、経済的にも本が貴重だった大学時代に、いちどこの本を読みかけ、けれどもついに、そのときはその世界にひたりきれずに、途中で読むのをやめてしまっていたからです。

 「三原色」は、「印刷博物館」にその体験展示があって、それぞれの色のプレートを重ねる装置になっていたのですが、ぼくには、スッキリとは腑に落ちないものがあったから。
 しかも、それは、以前からずっと喉の奥に刺さったままの小骨みたいに、気にかかっていたからでした。

 だから。
 そうです、もういちど(……)

 先に「三原色」の方の喉のコボネを抜いてから、『嵯峨野明月記』のお話しをしたいと思います。